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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第2章

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第29話 雪解けのドルチェ、あるいは春の約束

 深い眠りについていた国境の森が、ゆっくりと、けれど確かな胎動と共に目を覚まそうとしていた。


 梢に積もった白銀の衣は、柔らかな朝陽に解かされて透明な雫となり、リズミカルな音を立てて湿った土へと還っていく。

 どこか遠くで、凍てついていた川が氷を割る澄んだ音が響き、森の奥からは冬を越えた小鳥たちの、まだぎこちないさえずりが聞こえ始めた。


 窓を開ければ、冷たくもどこか甘やかな、早春の風が店内に流れ込んでくる。

 それは、長く厳しい冬が終わり、新しい季節が扉を叩く音。


 瓦礫の山となった牢獄から、半ば強引に連れ出されたカインは、今、ヴァレンタイン家の離れにある私の店のカウンターで、ひどく居心地が悪そうに背を丸めている。


「……信じられない。兄上だけでなく、この私まで、あのような不作法な者たちと机を囲ませるつもりか」


 カインは、隣で楽しそうに「ユニコーン専用の特製クッキー」を焼いているジュリアンや、厨房で巨大な肉の塊を捌いているゾアを、信じられないものを見るような目で見つめている。


「あら、カイン。私の店では、お代を払えない客は労働か、あるいは完食で誠意を見せていただくのがルールですわ。貴方はこれからアストライアを支える身なのですから、まずはこの店の『家庭の味』を知っておくべきですわよ」


 私は彼に、淹れたての温かなお茶を差し出した。

 カインは毒づきながらも、その香りに抗えなかったのか、一口だけ喉を鳴らして茶を啜った。

 その瞬間に見せた、ほんのわずかな表情の緩みを、私は見逃さなかった。


 やがて、店の円卓には溢れんばかりの料理が並べられた。

 焼きたての香ばしいパン、テリオンが仕留めた野鳥のロースト、カトリーナが魔法で絶妙な火加減を保った熱々のシチュー。

 そして、イグニスが森で摘んできたばかりの、春を告げる野草のサラダ。


「おーっほっほっほ! さあ、遠慮はいりませんわよ! 祝賀会の主役は、泥にまみれた私たち全員ですわ!」


 カトリーナの乾杯の音頭と共に、賑やかな宴が始まった。

 テリオンが不器用にカインへ肉を回し、バルトが執事らしい完璧な手際で皆の皿に料理を取り分けていく。

 イグニスは影のように静かに、けれど確実に誰よりも多くのパンを口に運んでいた。


 カインは最初こそ冷めた目で見ていたけれど、バルトに「門番としての栄養補給です」と強引に皿を山盛りにされ、ついには諦めたようにフォークを取った。

 一口、シチューを口に含んだ瞬間。

 彼の瞳が、微かに揺れた。


「……温かい。いや、兄上の魔力とは違う……不快なほどに、腹の底まで熱が届く」


「それが、私の料理ですわ」


 私は、彼の向かいに座るルイ様と視線を合わせた。ルイ様は穏やかな微笑みを浮かべ、カインを見つめている。


「カイン、これが私の守りたかったものだ。玉座の上からでは見えない、一人一人の吐息と、料理が放つ湯気の温かさ……これを知るお前なら、きっと良い国を創れるはずだ」


「……ふん。兄上は相変わらず、おめでたい。だが、この味を絶やすのが惜しいというのなら……理解できなくもない」


 カインはそれ以上何も言わず、黙々と、けれど誰よりも丁寧に料理を平らげていった。

 それは彼なりの、最大級の「精算」だったのかもしれない。


 宴もたけなわ。

 私は一人、カフェ・ヴァレンタインのキッチンで、立ち上る朝露のような湯気に包まれながら、昨夜の約束を果たすべく、最後の一皿を仕上げていた。


 用意したのは、約束通り「世界で一番甘いデザート」。


 まずは、最高級のカカオをじっくりと溶かし、そこに森の恵みである野苺を煮詰めた深紅のソースを練り込む。

 焼き上がったのは、サクッとした薄い生地に閉じ込められた『雪解けのフォンダン・ルージュ』。

 純白の皿の中央に据えられたその一品に、フォークを入れれば、中から熱々の苺チョコソースが、まるで春の奔流のように鮮やかに溢れ出す。

 添えられた冷たいバニラアイスは、去りゆく冬の名残。

 その上から、陽光をイメージした黄金色の蜂蜜をたっぷりと回しかけ、仕上げにリルムからいただいた「雪結晶の砂糖」の砂糖菓子を添えた。


「ルイ様。お待たせいたしましたわ。貴方を骨抜きにする、最後の一皿ですわよ」


 カウンターに置かれた一皿を、ルイ様は宝物を扱うような手つきで口に運んだ。

 一口食べた瞬間、ルイ様の瞳が大きく見開かれ、それからゆっくりと、すべてを許すように細められた。


「……甘いね。暴力的なまでに、優しくて甘い。アリシア、これを知ってしまったら、私はもう他の何を食べても満足できない。君の味に、完全に囚われてしまったようだ」


 「あら、それは光栄ですわ……お代は一生かけて、高くつきますわよ?」


 私が悪戯っぽく笑うと、ルイ様は皿を置き、カウンター越しに私の手をそっと取った。

 そのまま、磁石のように引き寄せられる。

 至近距離で見つめ合う彼の瞳には、かつての絶望の影は微塵もなかった。

 あるのは、一人の男としての、深く、熱い情愛だけ。


「……ああ、いくらでも払おう。私の時間も、私の心も……この命のすべてが君のものだ。だからアリシア、これからもずっと、私の隣で笑っていてほしい」


 ルイ様の顔が近づき、彼の熱い吐息が私の唇に触れる。

 フォンダン・ショコラよりも甘く、とろけるような口づけ。

 キッチンの熱気とは違う、体の芯から沸き上がるような熱が、指先まで痺れさせていく。


「……ふん。デザートの甘さだけで十分だというのに、中てられすぎて胃がもたれる。アストライアを砂糖漬けにするつもりか、兄上」


 満足そうに微笑むルイ様の隣で、居心地悪そうにシチューを啜っていたカインが、心底不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「……不謹慎な甘さだ。兄上の牙を抜くには、毒より効果的かもしれないな……それとも、その甘ったるい空気で私を窒息死させるのが、今回の本当のお仕置きか?」


 毒づきながらも、カインの皿は既に空になっていた。

 彼は椅子を引いて立ち上がり、ルイ様と私の繋がれた手を忌々しげに一瞥すると、私に背を向けて店を出ようとした。


「……私は、アストライアへ戻る。兄上の代わりに、あの埃っぽい玉座を掃除しておいてやる。精算が済むまで、勝手に倒れるなよ」


 翻る赤髪。

 彼は店を出る寸前、足を止めて独り言のように呟いた。


「……店主。貴女の料理は、確かに毒だ。孤独を忘れさせ、もう一度光の下へ出たくなる。そんな恐ろしい毒を、私は生涯、忘れることはないだろう」


 彼はそう言い残し、一度も振り返ることなく去っていった。

 その背中は、もはや孤独な「囚人」ではなく、兄が安心して帰れる場所を守る「門番」のそれだった。

 森の入り口で、その背をバルトとクラリスが静かに見送る。

 二人の眼差しには、主の弟を送り出す厳しさと、共に戦った者への確かな敬意が宿っていた。


 店内に残る甘い名残と、去りゆく赤髪の影。

 そのすべてを、キッチンの柱の陰からじっと見守っている男がいた。


 テリオンだ。

 彼はカインが森の闇に消えるのを見届けると、視線をゆっくりとカウンターへと戻した。

 そこには、互いの温もりを確かめ合うように寄り添うルイ様と私の姿がある。

 彼は、私たちの幸せそうな様子を一度だけ切なげに瞳に映すと、自らの想いを断ち切るように、静かに弓の弦を弾いた。


(……分かってる。私の場所は、あそこじゃない。でも、彼女が笑っていられるように、この森を、この店を守る影でいることなら……それくらいなら、許されるだろう)


 彼は小さく息を吐き、誰にも気づかれぬよう、新芽の吹き出した森の警備へと消えていった。


 一方、テラス席では別の空気が流れていた。


「おーっほっほっほ! ジュリアン、このハーブティー、香りが少し強すぎますわよ! 私の繊細な感覚を麻痺させるつもりですの!?」


「あはは、ごめんねカトリーナさん。でも、これ、さっきユニコーンが見つけてくれたんだ。『カトリーナさんに飲ませてあげて』って言ってるみたいで……」


 ジュリアンが差し出した一輪の小さな花。

 カトリーナは一瞬、高笑いを止め、頬を朱に染めて花を受け取った。


「……ふん。不作法な魔物ですこと……でも、悪くありませんわ。今日のところは、この不作法に免じて許して差し上げますわよ」


 杖を置いた彼女の手が、いつもより少しだけ優しく、ジュリアンの差し出したカップを包んでいた。


 やがて、完全な静寂が店を包み込む。


 私はルイ様と並んで、テラスから森を眺めた。

 足元では、あんなに厚かった雪が完全に消え、陽の光を浴びた土から、無数の春の花が顔を出している。


「アリシア。君と出会えて、本当によかった」


 ルイ様が私の手をとり、そっと指先に口づけを落とした。

 それは主従でもなく、店主と客でもない、対等な愛を誓う祈りのようだった。


「あら、ルイ様。私という店の『終身契約』からは、もう一生逃がしませんわよ? ……胃もたれするほどのおもてなし、覚悟してくださいませ」


 私は悪戯っぽく微笑み、彼の肩に頭を預けた。


 国境の森に、本当の春が訪れた。

 私たちの物語は、この温かな陽だまりの中から、また新しく始まっていくのだ――。


 ◇


 その頃。

 アストライアでの混乱が収束し、静寂を取り戻したヴァレンタイン公爵邸の、とある一室。


 優雅に脚を組み、静かに本を閉じた女性がいた。

 アリシアと同じシルバーの髪を完璧な夜会巻きに結い上げ、氷のように透き通った瞳を持つその人――ヴァレンタイン公爵夫人。


 彼女は、夫である公爵と共に収監され、没落の危機に瀕していたあの状況下にあっても、眉一つ動かさなかった。


「……ようやく、雪が溶けましたのね」


 彼女は窓の外を眺め、薄く微笑んだ。

 公爵のように、怒りに任せて娘を連れ戻そうなどという野蛮な真似はしない。

 彼女はもっと「美しく」、もっと「残酷な」やり方を知っている。


「アリシア。私の愛しい、賢い娘……貴女がアストライア王国の若き王の心を射止めたこと、母親としてこれほど誇らしいことはありませんわ」


 彼女の手元には、アストライアの情勢を記した極秘の報告書が置かれている。

 アストライアの王と恋仲にある娘――その価値を、彼女は誰よりも正しく理解していた。


「王妃としての教育も、淑女としての振る舞いも、貴女にはすべて授けてありますもの……そろそろ、遊びは終わりにして、ヴァレンタインの『最高傑作』としての役目を果たしていただきましょうか」


 公爵夫人は、優雅な手つきでベルを鳴らした。

 現れた従者に、彼女は氷のように透き通った声で告げる。


「用意をなさい。娘を迎えに行きますわ。お祝いの品は……そうですわね、彼女が最も断れない『親愛』という名の毒を用意して」


 春の陽光が差し込む森のカフェとは対照的な、冷徹な知性が支配する部屋。

 新しい季節は、さらなる波乱を孕んで、ヴァレンタイン公爵家の門を開こうとしていた。



 第2章 Fin

お読みいただき、ありがとうございます!

これにて第2章完結になります。

引き続き、第3章(完結保証済です)も楽しんでいただけますと幸いです!


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