第28話 精算の味と、太陽の雪解け
地下牢の最深部。
そこは、私たちが持ち込んだわずかな希望さえも黒く塗り潰さんとする、漆黒の熱地獄だった。
カインが放つ黒炎は、意思を持つ大蛇のようにのたうち、石壁を反射するたびに速度と熱量を増していく。
魔力を溜め込む「炉」としての構造が、カインの魔力を何倍にも膨れ上がらせていた。
「くっ……この暑さ、最高火力のオーブンの前に立ち続けているようですわ……!」
私はフライパンを盾に、飛来する火の粉を必死に弾き飛ばす。
けれど、焼けた空気そのものが気道を焼き、肺が拒絶反応を起こして呼吸を妨げる。
隣で黄金の障壁を展開するルイ様の顔も、苦痛に歪んでいた。
盾には無数の亀裂が走り、逃げ場のない黒炎の猛攻を受けて、今にも粉々に砕け散りそうだ。
「無駄だと言ったはずだ、兄上! この閉ざされた闇の中で、貴方の光はただの標的に過ぎない。すべてを焼き尽くし、無に帰すことこそが、アストライアの真の継承者に相応しい結末だ!」
カインが咆哮し、頭上の闇が巨大な炎の塊となって膨れ上がった。
それは回避不能な質量となって、私たちを押し潰そうと振り下ろされる。
凄まじい衝撃。障壁が粉々に砕け散り、私は爆風に煽られて吹き飛ばされそうになった。
「アリシア!」
ルイ様が咄嗟に私を抱き寄せ、自らの背中で爆風を受け止める。
彼の吐息が、苦痛で短く漏れた。
視界が白む。
カインの放つ黒炎が、容赦なく追撃として放たれる。
(……このままでは、二人まとめて『消し炭』になってしまいますわ!)
「……ルイ様。私は、あの日誓いましたの。貴方を二度と、孤独な死の中に置き去りにはしないと!」
私はルイ様の腕の中で、彼の右手の甲にある紋章にそっと手を重ねた。
その瞬間、彼の鼓動が私の指先に伝わり、私の魔力が彼の「太陽」へと流れ込む。
「……そうだ。私はもう、自らを燃やすだけの孤独な火ではない。アリシア、君が照らしてくれるから、私は……温かな太陽になれるんだ」
ルイ様がふらつく足取りで立ち上がる。
その右手の紋章が、命を削るかのような鮮烈な輝きを放ち始めた。
太陽の光は、万物を焼き尽くすためではなく、凍てつく大地を温め、芽吹きを助けるためにある。
ルイ様がその掌を広げると、周囲を渦巻いていた凶悪な熱気が、一瞬にして彼の紋章へと吸い込まれ、黄金の波動へと変換されていく。
「な……熱量を、すべて吸い取っただと!? 紋章の力で、この炉そのものを制圧したというのか!」
「今だ、アリシア! 私たちの未来を、その手で掴み取れ!」
ルイ様が剣を一閃させ、黄金の光の道がカインへと伸びる。
私はその光の中を、迷わず地を蹴った。
呼吸さえ止まるような一瞬。
私の視界には、驚愕に染まるカインの顔と、その背後の焦げ付いた闇しかなかった。
「カイン! 貴方の孤独も、その焦げ付いた執着も――まとめて裏返して差し上げますわ!」
黄金の魔力を纏い、白銀に輝くフライパンがカインの黒炎を真っ向から叩き伏せた。
カァァァァァァァァン!!
地下牢全体を揺るがすような澄んだ金属音が響き渡り、カインの「影の玉座」が、そして彼を縛っていた孤独の殻が、粉々に粉砕された。
凄まじい光と音のあと。
静寂が訪れた広間で、カインは力なく床に膝をついていた。赤髪は乱れ、エメラルドの瞳からは、あの刺すような険しさが消え去っている。
「……負けた、のか。私のすべてを懸けた『闇』が、こんな……一枚の鉄板に……」
私は、煤で汚れたエプロンを払い、荒い息を整えて彼に歩み寄った。
そして、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、彼の目の前に突きつける。
「負けた、ではありませんわ……はい、これが今回の『特別出張清掃料』および『不作法な居座りに対する追加料金』の請求書ですわよ。全額、耳を揃えて精算していただきますわ」
カインは呆然と請求書を見つめ、それから隣に立つルイ様を見上げた。
ルイ様は穏やかに微笑み、弟の肩にそっと手を置いた。
「カイン。私は王としてアストライア王国を再建する。だが、私はこの森にある『私の居場所』も守り抜く……お前に、この城を任せたい。お前の強さで、私が安心して腰を下ろせるこの国を、二度と汚させずに守り抜いてくれ」
「……私に、玉座を守れと? 貴方を殺そうとした、この私にか」
「お前ほどこの国を影から支えられる男はいない。私がカフェでパンを焼く間、お前が私の『門番』であり、この国の『守護者』だ」
ルイ様の言葉に、カインは毒気を抜かれたように、ふっと力なく笑った。
「……兄上。貴方は本当に、どこまでも不作法で……幸せそうな男だ。いいだろう、精算が終わるその日まで、貴方の留守を預かってやる。その代わり、次にここへ来るときは、その女の焼いたパンの一つでも持ってくることだ」
その時、広間にドタドタと賑やかな足音が響き渡った。
「おーっほっほっほ! 終わりましたのね! 見てご覧なさい、この煤だらけの顔! 淑女の風上にも置けませんわよ、アリシア!」
カトリーナが、煤だらけの顔で高笑いしながら現れた。
その後ろには、ユニコーンに再び懐かれて髪が鳥の巣のようになったテリオン、無表情に雑巾を構えたクラリス、そしてカインの残党を「束」にして引きずってきたゾアとイグニスが続く。
「アリシアさん! ルイさん! 無事だったんだね! ユニコーンも、ワイバーンたちも、みんな心配してたよ!」
ジュリアンが、ユニコーンの背から飛び降り、目を潤ませながら駆け寄ってきた。
彼の周りには、戦いが終わったことを悟ったのか、小型のワイバーンたちも嬉しそうに飛び回っている。
「ぬう。主よ、この赤い男もまとめて束ねるか?」
「やめなさいゾア、彼はもう客……ではなく、新しい『アストライアの守護者』ですわ」
「……私は認めないぞ。こんな騒がしい連中が、兄上の『家族』だなんて……」
カインが顔を引きつらせて後ずさるが、逃がすまいとバルトが音もなく背後に回った。
「カイン殿下、主の代わりの執務、そしてこの地下牢の『大掃除』。やるべきことは山積みにございます。まずはその煤を落とすところから始めましょうか」
「……兄上、助けてくれ」
助けを求めるカインに、ルイ様は「ははは、頑張れ」と楽しそうに笑うだけだった。
私たちは、騒がしい仲間たちと共に地下牢を後にした。
一歩外へ出ると、冷たく澄んだ空気が頬を撫でる。
ふと足元を見ると、あんなに深く積もっていた雪が、陽の光を浴びてキラキラと輝きながら、小さな音を立てて溶け始めていた。
「……セレスティアの仰った通りになりましたわね」
――この雪が溶ける頃、森の命運は一つの答えを出すでしょう。
溶け出した水が土に染み込み、春の匂いが立ち上がる。
アストライアに、そして私たちの森に、本当の春が訪れようとしていた。
「さあ、帰りましょう、ルイ様。最高に甘いデザートで、打ち上げですわ!」
「ああ、行こう。アリシア」
ルイ様が私の手を優しく握り締める。
その温もりは、どんな暖炉の火よりも、私の心を深く満たしてくれた。




