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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第2章

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第27話 口付けの余熱と、地下牢の王

 賑やかな円卓の余韻が、薪のはぜる音と共にゆっくりと森の静寂に溶けていく。


 カトリーナや仲間たちがそれぞれの部屋へ引き上げ、店内には暖炉の残火と、カウンターに置かれた一本の蝋燭だけが柔らかな光を投げかけていた。

 私は一人、使い込まれた陶器の肌をなぞるように皿を磨いていた。

 けれど、その手は先ほどから同じ場所をなぞるばかりで、心ここにあらずといった様子。

 ふと、背後から温かな気配が近づき、私の肩を包み込むように腕が回された。


「……ルイ様」


 驚きに肩を揺らした私を、ルイ様は逃がさないように強く、けれど壊れ物を扱うような繊細さで抱きしめた。

 彼の顔が私の首筋に埋められ、鮮やかな髪が頬をかすめる。

 陽だまりのような彼の香りと、少しだけ早まった鼓動が、背中越しにダイレクトに伝わってきた。


「明日には、すべてが終わる……けれど、不思議だね。恐怖はないんだ。君が隣にいてくれると思うだけで、私の心はこれほどまでに満たされている」


 ルイ様の手が私の手を包み込み、ゆっくりと自分の方へ振り向かせた。

 カウンター越しではなく、今は何一つ遮るもののない距離。

 月光を映す彼の瞳には、ただ真っ直ぐな、隠しようのない情愛だけが揺らめいている。


「アリシア。君は私に、王として立つ勇気だけでなく、一人の男として生きる喜びを教えてくれた……愛している。この命が尽きるその瞬間まで、私の隣にいてほしいのは君だけだ」


 彼の手が私の頬を優しく包み込み、親指で唇をそっとなぞる。

 私は、淑女として守り続けてきた静寂が、足元から崩れ去っていくのを感じていた。

 震える指先で彼の胸元を掴み、潤んだ瞳で彼を見つめ返す。


「ルイ様……私をただの令嬢ではなく、『店主』として選んでくださったあの日から、私の命も心も、すべて貴方のものですわ。共に戦い、不作法な孤独を終わらせましょう」


 私がそう告げると、ルイ様は愛おしそうに目を細め、ゆっくりと顔を近づけてきた。

 触れ合うか触れ合わないかの距離で、熱い吐息が重なる。


「約束だ。二人でカインを精算し、必ずこの場所へ……私たちの『家』へ、一緒に帰ってこよう」


 交わされた言葉は、誓いの口づけによって封じられた。

 深く、溶け合うような熱。

 唇から伝わる彼の切実な願いと決意に、私はすべてを委ねるように目を閉じる。

 

 しばらくの間、私たちは重なる鼓動を感じながら、静かに抱きしめ合っていた。

 

「……ルイ様。明日、精算を済ませたその時は、この店で一番甘いデザートを用意いたしますわ。貴方が二度と他の味を欲しがらなくなるような、とびきりの一皿を」


「ああ、期待しているよ……今夜は、こうしてもう少しだけ、君の熱を感じさせてほしい」


 窓の外、雪の下では春の息吹が静かに胎動している。

 私たちは今、本当の意味での「終わりの始まり」を、二人きりの温かな静寂の中で分かち合っていた。


 ◇


 翌朝。国境の森は、深い青に染まった霧に包まれていた。

 まだ深い眠りの中にある雪原に、凛とした足音が響く。


「準備はいいかい、アリシア……私の誇り高いパートナー」


 玄関先で剣を確かめていたルイ様が、私を振り返る。

 そこには、いつものエプロンの上に厚手の外套を纏い、そして右手にしっかりと愛用のフライパンを握った私の姿があった。


「もちろんですわ、ルイ様。自分の店を汚した不作法な客に、最後の一皿を運ぶのは店主の義務。それに、昨夜の『予約』を果たすためにも、無様に遅れるわけには参りませんもの」


 私の言葉に、背後で準備を整えていた仲間たちが不敵に笑う。

 

「おーっほっほっほ! 結局、私たちが総出でお掃除に伺うことになりますのね。カインも、これほど贅沢な清掃員に囲まれるなんて光栄に思うべきですわ!」


 カトリーナが杖を掲げ、霧を焼き払うような熱気を放つ。

 テリオンは弓を引き絞り、イグニスはナイフの重さを確かめ、ゾアは斧を肩に担ぐ。

 バルトとクラリスは、すでに完璧な布陣で私とルイ様を挟むように立った。


「……行きましょう。不作法な孤独を、終わらせるために」


 私たちは、霧の向こう――エルデニアの地下牢へと足を踏み出した。


 ◇


 深い霧が立ち込める森の最奥。

 かつてルイ様を閉じ込め、今はカインが自らを王として祀り上げている「エルデニアの地下牢」に、私たちは辿り着いた。


 だが、視界に飛び込んできたのは、私の知る質素な石造りの牢獄ではない。

 入り口の石材を這い回る漆黒の茨。

 周囲の木々は命を吸い取られたかのように白く枯れ果て、大気には焦げ付いたような不快な魔力が満ちている。

 物理的な壁を突き抜け、ドロドロとした負の波動が外界へと漏れ出していた。

 それは、孤独を糧に育った「偽りの宮殿」そのものだった。


「……趣味が悪いわね。これでは、掃除のし甲斐がありすぎますわ」


 私は右手のフライパンを、指先が白くなるほど強く握りしめた。

 鏡のように磨き上げた銀色の面が、禍々しい霧を跳ね返している。

 この聖域をこれ以上汚させるわけにはいかない。


 その時、地下牢の入り口へと続く石段の頂上、踊り場のような高台に人影が揺れた。


「やはり来たか、兄上。その不作法な女の手を引いて」


 霧を切り裂いて現れたのは、ルイ様に酷似した、けれど血のように赤い髪を持つ男――カインだった。

 冷酷な笑みを浮かべ、彼は高台から悠然と私たちを見下ろしている。

 何かに縛られている様子もなく、むしろこの呪われた地を支配しているかのようだった。


「勘違いしないでほしい。私はここを出ようと思えば、いつでも出られたのだよ。だが、出る必要などなかった。この冷たく閉ざされた闇、絶望を吸い込んだ石壁……こここそが、私の魔力を最も高める至高の『王座』だからだ」


「……馬鹿な。あの日、私が紋章の力を代償に施した封印は、王家の血を引く者であっても決して破れぬはずだ……!」


 隣に立つルイ様が、驚愕に目を見開いた。

 その右手の甲にある『太陽の紋章』が、かつてないほど激しく明滅している。

 カインを閉じ込めていたはずの力。

 それが無意味であったという事実に、ルイ様の背中に微かな戦慄が走るのを私は感じた。


「破ったのではない、兄上。この閉ざされた空間そのものが、紋章の熱さえも私の影の糧へと変えたのだよ」


 カインが腕を広げると、地下牢全体が呼応するように鳴動した。

 この場所はかつて王族を幽閉するために作られた、魔力を遮断し、溜め込む構造になっている。

 その閉鎖的な環境が、カインの漆黒の火炎を逃がさず、壁に反射させ、熱量を何倍にも跳ね上げる巨大な「炉」として機能していた。


「この地は私の味方だ。兄上、貴方もあの日、すべてを焼いて消えるつもりだったはずだろう? まさかこんな辺境の森で、公爵令嬢の『飼い犬』として生き永らえる道を選ぶとはね」


 カインが嘲笑と共に、高台から手をかざした。

 瞬間、彼の掌から漆黒の火炎が滝のように溢れ出し、雪を蒸発させながら私たちを包囲しようと襲いかかってきた。


「カイン、私は変わった。絶望の中にいた私を、このフライパンが叩き起こしてくれたんだ……私はもう、君の闇に同調することはない」


 ルイ様が剣を抜き放つ。

 溢れ出した黄金の光が、上空から降り注ぐ黒い炎を真っ向から両断した。


「叩き起こした? 兄上をそんな安い希望で誑かした罪、その女の命で精算してもらう。私たちが捨てたはずのアストライアの光、今度こそ私の手で灰に帰してあげるよ」


 カインは再び黒炎を放つと、誘い込むように地下牢の奥の闇へと姿を消した。

 放たれた黒炎の弾を、私は一歩前に出て、フライパンの背で鮮やかに弾き飛ばした。

 乾いた金属音が、冷たい空気に鋭く響き渡る。


「カイン。店主として宣告いたします。貴方のその『独りよがりな解釈』は、私の店では一切受け付けませんわ」


 私はマリンブルーの瞳に強い意志を宿し、彼が消えた入り口を睨み据えた。


「貴方がどれほど闇を並べ立てようとも、私のキッチンで焦げ付いた鍋を放置する不作法は許しません。その濁った魔力、すべて磨き上げ、きれいに精算していただきますわよ!」


 私の号令と共に、仲間たちが一斉に動いた。

 カトリーナが杖を掲げて紅蓮の炎を編み上げ、テリオンは音もなく影を射抜く矢を番える。

 バルトとクラリスは、主であるルイ様の左右を固める完璧な布陣をとった。

 ゾアが咆哮と共に巨大な斧を振り下ろし、入り口を塞いでいた呪いの茨ごと石扉を叩き壊す。

 崩落した瓦礫の向こうに広がっていたのは、不気味に脈動する紫の回廊。

 カインの熱気が籠もる、逃げ場のない「炉」の内部だった。


「お嬢様、足元にご注意を。不浄な魔力がよどみ、床が滑りやすくなっております」


 クラリスが指先から放った光で道を照らす。

 背後からは影の兵士たちが次々と這い出してきたが、イグニスが影に溶け、音もなくその核を切り裂いていく。

 バルトは銀トレイを盾に、狭い壁面で反射しながら迫る黒炎を弾き飛ばし、鮮やかに剣を振るった。


「承知いたしました。アリシア様、ルイ様。ここは我らが食い止めます。お二人は、あの汚れの元へ!」


 私たちは仲間に背を預け、カインが待ち構える最深部へと走り出した。

 迷宮のような回廊を進むたび、カインの魔力の熱量が増していく。

 ついに辿り着いた最奥。

 そこは、かつてカインを閉じ込めていた鉄格子さえも溶け落ち、影が玉座のように盛り上がった広間だった。


「兄上。ついに、私の物語の終着点へ辿り着いたね。でも、ここから先は私が書き換える。貴方たちの持ってきた『希望』という名のデザートごと、絶望で塗りつぶしてあげるよ」


 カインが立ち上がり、その周囲に膨大な漆黒の魔力が集束していく。

 狭い広間に熱気がこもり、呼吸さえも焦げ付くようだ。

 私はフライパンを構え直し、ルイ様と視線を交わした。


 エルデニアの地下深く。

 春の予感を孕んだ光と、凍てつく冬の闇。


 二つの王権と、一枚のフライパンが交錯する、「精算の仕上げ」が幕を開けた。

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