第26話 雪解けの予感と、黄金色のベリーパイ
数日間に及ぶ馬車旅の末、視界を遮っていた深い針葉樹の影が不意に開けた。
そこは、王都アストライアと王都グラン・ロアを隔てる国境の森。
王都の喧騒も、魔導兵器の軋む音も届かない、静謐な静寂が支配する場所。
窓の外には、まだ白銀の絨毯が広がっている。
けれど、窓から差し込む陽光は王都を発った時よりもどこか力強く、透き通った空気の奥底には、眠りから覚めようとする土と、固い蕾が膨らみ始めた樹々の「春の予感」が混じっていた。
「……見えてきましたわ。私たちの城、いえ――私たちの『家』が」
私が指差した先。雪の重みに耐えながら、凛として佇む古民家風の建物――『カフェ・ヴァレンタイン』が、木漏れ日の中にその姿を現した。
馬車が止まり、扉が開くと同時に、肺の隅々まで洗われるような冷涼な大気が流れ込んでくる。
「……はぁ。ようやく、まともな空気が吸えますわ。王都の空気は少しばかり魔導の火花が混じっていて、肌に合いませんでしたもの」
真っ先に降り立ったカトリーナが、自慢の縦ロールを揺らしながら、雪の上に軽やかな一歩を刻んだ。
彼女は扇子で顔を隠しながらも、その瞳には明らかな安堵の色が浮かんでいる。
「見てご覧なさい、この静かな白銀の世界! 王都のあのギラついた装飾よりも、よほど私の美しさを引き立ててくれますわ。もっとも、乾燥はお肌の敵ですから、すぐにでも暖炉に火を入れなくてはなりませんけれど」
「……ふむ。埃の匂いではなく、生きた土と雪の香り。やはりここが一番、感覚が研ぎ澄まされる」
影の中から音もなく降り立ったイグニスが、帽子の庇を押し上げ、深く息を吸い込んだ。
王都では常に周囲を警戒し、ナイフのように研ぎ澄まされていた彼の殺気も、この森の冷気の中では、わずかに鞘に収まったようだった。
「テリオン、ぼさっとしていないで荷物を運びなさいな。貴方の弓も、冷え切って弦が硬くなっているでしょう? 厨房の予熱で調整して差し上げますわよ」
「……わかってる。別に、ぼさっとなんてしてないだろ。ただ、その……」
テリオンは荷物を抱え上げながら、ふいっと顔を逸らした。
王宮で私がかけた言葉を思い出しているのか、長く尖った耳の先端が、髪の間からほんのりと赤く覗いている。
彼は雪を踏みしめる音を立てながら、不器用な足取りで店へと向かった。
そして、最後に降り立ったルイ様は、自分の居城を取り戻した時とはまた違う、心からの安らぎを湛えた微笑みを浮かべていた。
「……帰ってきたんだな。ここが、私の……私たちの場所だ」
その言葉に、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「あ、アリシアさん! ルイさん! 皆、おかえりなさい!」
その時、空を切り裂くような風が吹き、店の裏手に巨大な影が舞い降りた。
ワイバーンからひょいと降り立ったのは、暗緑色の髪を揺らす少年、ジュリアンだ。
「お父様たち、ちゃんと届けてきたよ。皆、疲れちゃってるでしょ? この子たちを呼んでおいたから、角に触ってゆっくりしてね。すぐ元気になれるから!」
ジュリアンがトパーズのような瞳を輝かせ、誇らしげに店の裏手にある雪原を指差した。
そこには、純白の毛並みと虹色に輝く角を持つ一角獣たちが、木漏れ日を浴びながら静かに佇んでいた。
「ええ、ありがとうジュリアン。完璧な布陣ですわね」
その神聖な光景に見惚れていると、森の奥から聞き慣れた足音が響いてきた。
「……お嬢様。これだけの期間、店主を不在にするとは。厨房の隅に潜む埃たちが、我が物顔で宴を開いておりましたわ」
真っ先に現れたのは、栗色の髪を一つにまとめ、背筋を真っ直ぐに伸ばした私の侍女、クラリスだ。
白緑の瞳に冷静な光を宿しながらも、その手にはすでに、使い込まれたバケツと山のような雑巾が握られている。
「おかえりなさいませ、アリシアお嬢様、ルイ様……この『拠点』を元の清潔な姿に戻すには、かなりの水と、それ以上に膨大な雑巾が必要でした」
「ぬう! 主よ、よくぞ戻った。我が斧も、王都の不作法な連中を切り刻めなかった鬱憤で、少しばかり重くなっておったところだ」
クラリスの隣で、二メートル近い巨躯を窮屈そうに揺らして現れたのは、リザードマンのゾアだ。
深緑の鱗を鈍く光らせ、黄金の瞳をぎろりと動かして私に跪く。
「ルイ様、アリシア様。道中のご無事、何よりにございます。城のネズミ共を片付けた後、すぐにこちらへ参りました」
眼鏡の縁を指で直し、非の打ち所のない礼を見せたのは、老紳士バルトだ。
群青色の瞳の奥に、主であるルイ様への忠誠と、私への深い信頼を滲ませている。
別動隊として動いていた仲間たちが、全員揃ったのだ。
店の前は一気に賑やかになり、凍てついた空気が春の陽だまりのように温かくなっていく。
「さあ皆様、再会の挨拶は手短に! ジュリアン、ユニコーンたちをこちらへ。テリオン、貴方から行きなさいな。一番お疲れでしょう?」
「……は? 私か? 私は別に……うわっ!?」
孤高の狩人として格好をつけていたテリオンだったが、ユニコーンは容赦なかった。
清らかな魂を好むその一角獣は、真っ直ぐにテリオンへと歩み寄ると、その美しい褐色の肌に鼻先を擦り付けたのだ。
「やめろ! 舐めるな! ……っ、こいつ、離れないんだが……」
カメリアの瞳を大きく見開き、テリオンが珍しく狼狽える。
ユニコーンはテリオンの「不器用な純真さ」を敏感に察したのか、熱烈な勢いで彼の頬を舐め回し始めた。
「おーっほっほっほ! よほど貴方の魂が、見た目に反して『真っ白』なんですのね、テリオン! ユニコーンに好かれすぎて、自慢の髪がボサボサですわよ!」
カトリーナが腹を抱えて笑い、イグニスも口端をわずかに吊り上げてその様子を見守っている。
テリオンは顔を真っ赤にし、尖った耳を激しく震わせながら「……あとで覚えてろよ、白馬」と小さく毒づいた。
その微笑ましい騒ぎを背中で聞きながら、私はクラリスとバルトが完璧に磨き上げてくれた厨房へと入った。
一分の曇りもなく磨かれた銅の鍋、整然と並ぶ包丁、そして微かに残るワックスの清潔な香り。
やはりここは、私の戦場であり、聖域だ。
私は深く息を吸い込み、エプロンの紐をさらにきつく結び直した。
「さあ、仕込みを始めますわよ!」
まずは、王都から持ち帰った最高級の小麦粉をボウルにふるい入れる。
シルクのように細かく、白磁のような輝きを持つその粉は、指で触れるだけでその質の良さが伝わってくる。
そこに、冷たく冷やした無塩バターを贅沢に放り込んだ。
指先でバターと粉を素早く、けれど丁寧にすり合わせる。
手の熱が伝わらないよう、まるで繊細なレースを編むような手つきで。
粉がバターを抱き込み、黄金色の砂利状に変わっていく――「サブラージュ」の工程だ。
そこに清らかな冷水を一滴ずつ加え、ひとまとめにした生地を寝かせる。
この「待ち時間」が、後のサクサクとした食感を生むスパイスになる。
次に、メインとなるベリーだ。
雪の下で凍てつく冬を耐え抜いた野いちごやクランベリー。
それらは厳しい寒さに耐えることで、その身に驚くほど濃厚な甘みと酸味を凝縮させている。
「不作法なカインに奪われなかった、この森の宝物ですわね」
銅鍋にベリーと少量の砂糖、そして隠し味にルイ様の紋章を思わせる金色の蜂蜜を加える。
火にかければ、パチパチという音と共に、目が覚めるような深紅の果汁が溢れ出した。
厨房に広がる、甘酸っぱくも力強い香りに、私の胸も高鳴る。
寝かせておいた生地を薄く伸ばし、型に敷き詰め、艶やかなベリーのフィリングをたっぷりと流し込む。
余った生地を細長く切り、美しい格子の模様を編み上げていく。
その上から卵黄を薄く塗り、いよいよ暖炉のオーブンへと滑り込ませた。
パチパチと薪がはぜる音を聞きながら、私はしばし、炎の揺らめきを見つめた。
やがて、オーブンからバターが溶け出し、小麦が色づく香ばしい香りが漂い始める。
それは、冬の終わりを告げ、春の訪れを祝う、世界で一番優しい香りだ。
◇
一時間後。
店内に、甘酸っぱいベリーの香りと、バターの香ばしい匂いが最高潮に充満した。
「皆様、お待たせいたしましたわ。王都から持ち帰った最高級の小麦粉と、雪の下で甘みを蓄えた冬越しのベリーを使った、『春を待つ約束のパイ』ですわよ!」
円卓に並べられたのは、黄金色に焼き上がった大きなホールパイ。
ルイ様、カトリーナ、イグニス、テリオン、ジュリアン。そしてクラリスにバルト、ゾア。
この店を支える仲間たちが全員、一つのテーブルを囲む。
「……いただきます」
ルイ様が最初の一口を運ぶと、そのエメラルドの瞳が驚きに細められた。
「……美味しい。王都で食べたどんな宮廷料理よりも、ずっと芯が強くて、温かい。アリシア、君の料理を食べると、本当に力が湧いてくる」
「我も……! 主の料理は、鱗の隙間にまで活力が染み渡るようだ。ぬう、旨い!」
ゾアが巨躯を震わせて喜び、クラリスも「……お嬢様。雑巾がけで失われた糖分が、完璧に補填されていくようです」と淡々と、けれど休むことなくフォークを動かしている。
窓の外はまだ雪深く、厳しい冬が続いている。
けれど、この温かなパイを分け合う仲間たちの瞳には、すでにカインとの最終決戦に向けた、力強い「春の光」が宿っていた。
「さあ、皆様。たっぷり食べて、ユニコーンに癒やされなさいな……次に扉を開ける時は、カイン様に『不作法な食い逃げ』の精算をさせに行く時ですわ!」
私たちの「家族」が、本当の意味で一つになった。
雪解けの予感を感じながら、私たちは最後の一皿に向けて、静かに、けれど熱く魂を研ぎ澄ませていった。




