第25話 白亜の再生、太陽の洗剤
地下牢を後にし、私たちは再び上層階へと続く中央大階段に立っていた。
そこを上り詰めた先で、私たちは「絶望」という名の悪趣味な内装に直面した。
白亜の壁を這う、毒々しい紫の回路。
歴代皇帝の肖像画を汚す呪いの紋様。
ルイ様が育ち、慈しんできたはずの居城は、今や見る影もなく、カインの邪悪な意志を増幅するための巨大な「実験場」に成り果てている。
「……そうか。バルトが以前、極秘に書類を回収しに来た際、『不自然な点はなかった』と報告していたのは、こういうことだったのだな」
ルイ様が、肖像画の縁に触れようとして手を止めた。
彼の黄金の魔力が回路に近づいた瞬間、紫の光が威嚇するように激しく明滅したからだ。
「この城の『真の姿』は、王たる者の魔力にのみ反応して顕現するようプログラムされていたのか……カイン、お前は私が戻ったその瞬間に、私の心を折る準備を整えていたのだな」
ルイ様の声は、低く、冷たかった。一国の王として、そして一人の人間として大切にしてきた故郷を泥靴で踏みにじられた憤りが、空間を震わせる。
その時、天井の随所に隠されていた『監視魔眼』が一斉に開き、不気味な紫色の光を放ち始めた。
城全体の自爆シーケンス『滅びの祝詞』の起動トリガーだ。
「……下がっていろ。不潔な視線は、私が片付ける」
一歩前へ出たのは、静かに弓を構えたテリオンだった。
彼はこれまで、イグニスやカトリーナの派手な魔法の陰で静観していたが、その瞳は今、鷹のような鋭さで広大なホールの隅々を射抜いている。
「テリオン? あんな高い場所にあるセンサー、一度に壊すのは無理ではなくて?」
「……私を誰だと思っている。エルフの里でも、私より速く風を射抜ける奴はいなかったぞ」
テリオンが背負っていた矢筒から、一度に五本の矢を抜き放った。
彼が弦を引き絞ると、矢羽が青白い風の魔力を纏い、まるで生きているかのように震え出す。
「――『千風の葬列』」
放たれた矢は、空中でさらに分裂し、文字通り「風の雨」となって広大なホールに降り注いだ。
パリン、パリンッ! と、小気味よい音を立てて砕け散るのは、肉眼では捉えきれないほど高所に、あるいは彫刻の隙間に巧妙に隠されていた数十もの『監視魔眼』だ。
テリオンの神業とも言える連射により、起動しかけていた自爆システムが次々と物理的に「沈黙」していく。
「……ふん。これでとりあえず、頭の上から降ってくる『不潔な視線』は掃除しておいた。あとは派手にやってくれ、アリシア」
テリオンが不敵に笑い、弓を下ろす。
その圧倒的な仕事ぶりに、カトリーナも「おーっほっほ! 少しは見直しましたわ!」と満足げに扇子を振った。
「テリオン、最高にクールな前菜でしたわ!」
屈託のない、それでいて絶対的な信頼を寄せた私の言葉に、テリオンは射抜いたばかりの獲物を確認するかのように、鋭い視線をふいっと斜め上に逸らした。
エルフ特有の長く尖った耳の先端が、その褐色の肌に隠れきらず、林檎のように赤く染まっている。
「……別に、当然のことをしたまでだ。それに、前菜にしては刺激が強すぎただろ」
ぶっきらぼうに弓を収めながら、彼は手元の弦を無意味に弾いて見せた。
普段の彼からは想像もつかないほど落ち着きのない仕草。
彼は決して口にはしないが、私のたった一言の称賛が、どんな強敵の矢を射落とすよりも彼の心臓を激しく揺さぶっていることを、私は少しだけ愉快な気持ちで察していた。
そんな彼の淡い動揺を背中で感じながら、私はフライパンを握り直し、いまだ怒りに震えるルイ様の隣に並んだ。
「ルイ様……いつまで、あのような不作法な者の仕業に心を痛めていらっしゃるの? 汚されたのなら、磨き上げればいいだけのこと。不作法な居候がキッチンを油塗れにしたのなら、店主である私たちが、徹底的に『大掃除』をして差し上げるのが筋ですわ!」
「大掃除……?」
「ええ。ルイ様、その黄金の輝きは、破壊のためではなく、この城の汚れを焼き払う『洗剤』としてお使いなさいな!」
私の言葉に、ルイ様がハッとしたように目を見開いた。
テリオンが守り抜いたこの空間で、ルイ様は自らの魔力を、破壊の衝動から「浄化の意志」へと昇華させる。
「……そうだね、アリシア。泥棒に盗まれたからといって、家を焼き払う主人はいない。全軍に告ぐ。アストライアの『大掃除』を開始する!」
ルイ様が剣を天に掲げると、そこから溢れ出したのは、すべてを薙ぎ払う力ではなく、すべてを慈しむような、温かな黄金の奔流だった。
その光は王宮の隅々まで、まるで柔らかな刷毛でなぞるように広がっていく。
カインが残した不浄な呪いの茨は、光に触れた瞬間にさらさらと清らかな砂になって崩れ落ち、肖像画の汚れも、石壁の傷跡も、春の陽光を浴びた残雪のように消えていった。
それは、戦いではない。
王たる者が、自らの家を愛おしむように行う、最も気高い再生の儀式。
まばゆい光に包まれた王宮は、かつての美しさを、いえ、それ以上の輝きを取り戻しながら、静かに、そして確実に本来の姿へと磨き上げられていった。
私たちは今、本当の意味で自分たちの「居場所」を、ただ真っ白に塗り替えて取り戻したのだ。
浄化された玉座の間に、お父様の威厳のない、けれど心底安堵した声が響き渡った。
「おお……! 王宮の地下に預けていた、私の『特選コレクション』は無事か!? あの不作法な男に、一本たりとも掠め取られてはおらんようだな!」
お父様は、相変わらず手入れの行き届いた自慢のカイゼル髭をプルプルと震わせている。
どうやら、公爵家が王宮に寄贈し、自分たちが滞在する際のために管理させていた私蔵ワインの安否が一番の気がかりだったようだ。
「あなた、そんなことより、ルイ陛下への非礼を詫びるのが先決ですわよ」
お母様が呆れたように溜息をつくが、その表情には安堵の色が浮かんでいた。
「お父様、お母様。アストライアの安全は確保されました。ですが、ここからグラン・ロアまでは距離がありますわ……そこで、とびきりの『お迎え』を手配しておきましたの」
私がそう言った瞬間、窓の外、遠い空から凄まじい風切り音が響いてきた。
――ギュオォォォォォォンッ!!
雲を切り裂き、巨大な翼を広げて降りてきたのは、鋼のような鱗を持つ古の竜――ワイバーンだ。
その圧倒的な質量に、お父様が「ひぃっ、新手の刺客か!?」と私の後ろに隠れる。
けれど、その巨大な竜の頭を優しく撫でながら、ひょいと背から降りてきたのは、まだ冬の寒さに溶けて消えてしまいそうなほど華奢な少年だった。
「お待たせいたしました、アリシアさん! そして、ルイさん! 公爵夫妻のお迎えに参りました!」
暗緑色の髪を揺らし、トパーズのような瞳を輝かせて笑うその子は、ジュリアンだ。
「あ、あの、王都までは遠いから、一番速いこの子に乗せて来てもらっちゃいました……えへへ」
十二歳ほどの無垢な少年の言葉に、お父様はモノクルを落としそうなほど目を見開いた。
「この公爵たる私を、そんな鱗だらけの背中に乗せるつもりか!」
「大丈夫だよ、公爵様。この子はとっても力持ちで、僕の言うことならちゃんと聞くから」
ジュリアンがトパーズの瞳を細めて微笑むと、ワイバーンはお父様を威嚇することもなく、従順に首を垂れた。
その光景は、恐ろしいはずの魔物さえ、ジュリアンの純粋な心に絆されているかのようだった。
「お父様、わがままを言っている時間はありませんわ。ジュリアン、お父様とお母様をグラン・ロアの安全な領地まで送り届けて差し上げて。お母様、よろしいかしら?」
「ええ。馬車よりもずっと速くて、景色も良さそうですこと。行きましょう、あなた」
お母様がお父様の腕を引き、ジュリアンが差し出した小さな手を借りてワイバーンの背へと跨る。
「アリシアさん、ルイさん、それじゃあ行ってくるね! 終わったらすぐに、ユニコーンを連れてお店に戻るから! 皆の疲れ、僕が絶対治してあげるよ!」
ジュリアンが力強く手を振ると、ワイバーンは大きな翼を広げ、アストライアの青空へと舞い上がった。
遠ざかっていくお父様の「私のヴィンテージ・ワインがぁぁ!」という叫び声が、平和な余韻となってテラスに溶けていく。
「……さて。ルイ様、私たちも参りましょうか」
私は、浄化された美しい都を一度だけ振り返り、それから真っ直ぐにルイ様を見つめた。
「次なる戦いの準備、そしてカイン様への最高に苦いデザートを『仕込む』ために――私たちの、森のキッチンへ」
「ああ。帰ろう、アリシア。私たちの家へ」
私たちは、決戦への鋭気を養うため、そして勝利への完璧なレシピを完成させるために、懐かしい国境の森へと歩み出した。




