第24話 白亜の牢獄、再会の請求書は「最高級」
ハロルドを撃破し、機能を停止したアストラ・ネクサスの心臓部。
その奥に口を開けていたのは、白亜の輝きとは対照的な、湿った闇が沈殿する地下階段だった。
「……待て。この先に漂っているのは、ただの泥の匂いじゃない……カインの、あの不快な香水の匂いだ」
先頭を行くイグニスが、帽子を深く被り直し、低く唸るように言った。
彼の嗅覚が捉えたのは、エルデニアの地下牢にいるはずの男の残滓。
カインはここにいない。
だが、彼の「悪意」だけが、まるで冷たい霧のように階段を這い上がってくる。
最下層に辿り着くと、そこには重厚な黒曜石の扉が立ちはだかっていた。
扉の前には、場違いなほど優雅な意匠を凝らした一本の台座があり、その上には一通の封筒が置かれている。
「あら。お父様たちへの面会に、まずは『受付』を通れとおっしゃるのかしら?」
私は警戒しつつも、台座の封筒を手に取った。
封蝋にはカインの紋章。
中から現れたのは、あの方の完璧な美意識が透けて見えるような、美しい筆致の便箋だった。
『親愛なるアリシア。そして、誇り高きルイ。
この手紙を読んでいるということは、ハロルドという「鉄の壁」を壊してしまったのだね。相変わらず、君たちの暴力的な解決法には感服するよ。
だが、最後に一つだけ、君たちに「選択」を差し上げよう。
その扉の向こう、ヴァレンタイン公爵夫妻を救うには、扉の魔導錠を解除せねばならない。だが、その錠はアストライアの全魔力と直結している。
無理にこじ開ければ、溜まった魔力が公爵夫妻の体内へと逆流し、二人を内側から「弾けさせて」しまうだろう。
救う方法はただ一つ。ルイ、君の「太陽の紋章」で、その全ての負荷を肩代わりすることだ。
君が命を削って魔力を吸い上げるか。それとも、私の最愛の部下たちの両親を見殺しにするか。
……さあ、最高のエンディングを選びたまえ』
「……なんですの、この不潔で独りよがりな三流小説のような罠は!」
カトリーナが手紙を覗き込み、心底嫌そうに吐き捨てた。
「ルイ様の命と、お父様たちの命を天秤にかけるなんて……カイン、地下牢でお暇すぎて、性格の歪みに磨きがかかったようですわね」
「……構わない。二人を救えるなら、この程度の魔力……」
ルイ様が覚悟を決めたように、扉に手をかけようとする。
その蒼白な横顔を見た瞬間、私のフライパンが空気を切り裂き、ルイ様の目の前の扉を思い切り叩いた。
ガァァァァァァァンッ!!!
「お、おい、アリシア!? 今のは危なすぎる……!」
テリオンが驚いて叫ぶ。
だが、私は不敵に微笑み、フライパンを構えたまま言い放った。
「ルイ様。カインの仰る『最高のエンディング』なんて、ただの出来の悪い『賄い料理』ですわ。私たちが選ぶべきは、誰も飢えない、誰も傷つかない『完璧なフルコース』ですもの」
「……だが、このままでは扉が開かない。どうするつもりだ?」
ルイ様の問いに、私はカトリーナとイグニスを見た。
「カトリーナ、貴女の『不潔な魔力』で、この扉の回路に『異物』を混入させてくださいな。そしてイグニス。貴方の鋭い感覚で、回路が『詰まった』瞬間を教えて」
「ふむ……要するに、カインの用意した『流れ』を、強引に食い止めろということか」
イグニスがナイフを扉の隙間に差し込み、鈍色の瞳を細める。
「カトリーナ、今ですわ!」
私の号令とともに、カトリーナが不敵な笑みを浮かべて杖を突き出した。
彼女が放ったのは、美しい輝きとは無縁の、澱んだ紫色をした『不潔な魔力の塊』だ。
「おーっほっほっほ! 私の極上の嫌がらせ魔法、存分に味わいなさいな! 『汚泥の深淵』!」
その禍々しい魔力が扉の魔導錠に触れた瞬間、アストライアの全魔力が直結していた「完璧な回路」が、異物を飲み込んで激しく火花を散らした。
回路の拍動が狂い、逆流しようとするエネルギーが逃げ場を失って迷走を始める。
「……ここだ。今、魔力の流れがこの一点に『詰まった』」
イグニスが鋭い眼光で、扉の右端、装飾の裏に隠された微細な亀裂を指差した。
彼の指先が指し示す場所だけが、過負荷によって赤黒く発熱している。
「ルイ様、準備はよろしくて?」
「ああ。君の合図に合わせて、逆流の負荷を全て私が『太陽』で焼き払う!」
「結構ですわ――それでは皆様、不作法な置き土産を片付けますわよ!」
私は魔力をフライパンに収束させ、イグニスが示した一点に向かって、渾身の力で振り抜いた。
ドォォォォォォンッ!!!
物理的な打撃と、カトリーナの干渉、そしてルイ様の浄化の光が同時に爆発した。
カインが仕掛けた「逆流の罠」は、二人の元へ届く前に、私のフライパンを媒介にして空中に霧散した。
黒曜石の重厚な扉が、断末魔のような軋み声を上げてゆっくりと左右に開いていく。
砂埃が舞う暗い牢獄の奥。
そこにいたのは、王都の悲劇などどこ吹く風といった様子で、牢獄の硬い椅子に座る二人の男女だった。
「……遅い。遅すぎるぞ、アリシア! この私が、どれだけこの薄汚れた場所で、シワ一つないシルクのシャツを汚さぬよう苦労したと思っているんだ!」
真っ先に聞こえてきたのは、聞き慣れた、そして相変わらず尊大な声だった。
そこにいたのは、私の実の父、ヴァレンタイン公爵だ。
恰幅のよい体躯に、場違いなほど豪華な金刺繍のローブ。
そして彼の象徴とも言える、丁寧に整えられた自慢のカイゼル髭が、怒りでプルプルと震えている。
牢獄という極限状態にあっても、彼は片時も手放さなかったであろう銀の髭剃りを握りしめていた。
「あら、あなた。娘がせっかく助けに来てくれたのですから、まずは感謝の言葉を口にするのが貴族の嗜みではありませんこと?」
その隣で、優雅に脚を組み、静かに本を閉じたのは母――公爵夫人だった。
私と同じシルバーの髪を完璧な夜会巻きに結い上げ、氷のように透き通った瞳は、監禁されていたとは思えないほど鋭い知性を湛えている。
お父様の「見栄」が形になったような派手さに対し、お母様はそこに座っているだけで、牢獄を王宮のサロンに変えてしまうような、圧倒的な気品を纏っていた。
「……お父様、お母様。相変わらずお元気そうで、何よりですわ」
私はフライパンを腰に戻し、淑女の礼を捧げた。
「アリシア、お前……その手に持っているのは何だ? まさか、その煤けた調理器具で、このアストライアの最深部まで乗り込んできたというのか!?」
お父様がモノクルをずらし、驚愕の表情で私を凝視する。
その髭が、今度は驚きでピンと跳ね上がった。
「ええ、そうですわ。このフライパンで、不作法なハロルドを『焦げ付き』にして差し上げましたの」
「……ふふ。やはり、私の目に狂いはなかったようね」
お母様が立ち上がり、私の元へ歩み寄ると、その冷たい指先で私の頬をそっと撫でた。
「グラン・ロアで店を始めたと聞いた時は、どうなることかと思いましたけれど……あなた、立派な『店主』になったようですわね」
「……お母様。お褒めにあずかり、光栄ですわ」
「ちょっと待ちなさい! 感動の再会をしている場合ではない! 早く私をここから出し、極上の鴨肉と、最高級の赤ワインを用意させろ! この数日間、パンと水だけだった私の胃袋が、不名誉だと叫んでいるんだ!」
お父様が騒ぎ立てる中、ルイ様が静かに一歩前へ出た。
「公爵……私のために、大変な思いをさせてしまった。申し訳ない」
お父様はルイ様の姿を見るなり、一瞬だけ動きを止め、それから慌てて髭を整え直して膝をついた。
「へ、陛下……! これは失礼いたしました……ですが、陛下。我が娘ながら、このアリシアの『請求書』は相当高くつきますぞ。覚悟しておいていただきたい!」
「ああ、分かっている。一生かけて、支払わせてもらうつもりだ」
ルイ様の返答に、お父様は呆気にとられ、お母様は満足げに微笑んだ。




