第23話 不作法なティータイムと、鉄の心臓を焼き切る焦げ付き
一歩足を踏み入れた地下導管の内部は、まさに「巨大な蒸し器」の裏側だった。
視界を埋め尽くすのは、排出されたばかりの熱を帯びた白い蒸気。
ゴォォという不気味な重低音が壁を震わせ、肌を刺す熱気がエプロンの下まで執拗に潜り込んでくる。
「おーっほっほっほ! な、なんですの、この不潔極まりないサウナ状態は! 私の極上のロール髪が、湿気で無残なことになってしまいますわ!」
カトリーナが、額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら叫ぶ。
彼女は耐えかねたように杖を振るい、自らの周囲にだけ、キンと冷えた氷の魔力を展開した。
「『氷華の溜息』! ……はぁ、少しはマシになりましたわ。ルイ、アリシア、私の傍を離れないことね。この熱気で脳まで蒸し焼きにされたら、お代の取り立ても何もありゃしませんわよ!」
優雅に扇子を動かし、涼しげな顔を作るカトリーナ。
だが、その冷気によって蒸気が急激に冷やされ、周囲にはさらに深い霧が立ち込めた。
「……静かにしろ。不自然な冷気は、かえって目立つ」
先頭を行くイグニスが、低く鋭い声で警告した。
彼は帽子を目深に被り直し、霧の向こう側――「音」のしない空間を睨み据える。
「……来るぞ。ハロルドの『掃除屋』どもだ」
イグニスの言葉が終わるか終わらないかのうちに、白い霧の奥からカチカチという機械的な駆動音が響いた。
現れたのは、四つん這いで壁を這う、細長い四肢を持った金属の人形。
『暗殺人形』。
顔のない滑らかな金属の面に、カインの汚染された魔力を象徴する紫色の眼光が一つだけ灯っている。
「あら。お客様かと思えば、ただの『焦げ付いた汚れ』のようですわね」
私は腰のフライパンを抜き放ち、構えた。
人形たちは音もなく跳躍し、蒸気に紛れて四方八方から鋭い刃を突き出してくる。
「――ルイ、左だ!」
テリオンの放った矢が、蒸気を切り裂いて一体の人形の核を撃ち抜く。
ルイ様もまた、カトリーナの冷気で刃の表面が凍りつき、もろくなった別の人形を一閃のもとに粉砕した。
一体が、私の死角から喉元を狙って飛びかかってくる。
だが、私はその動きを、煮立った鍋から跳ねる油を避けるように軽やかにかわした。
「温度管理もできていない機械なんて、厨房には不要ですわ!」
ガァァァンッ!
熱せられたフライパンが、暗殺人形の側頭部を正確に捉える。
高熱で膨張していた人形の装甲は、冷気を帯びたフライパンの衝撃に耐えきれず、まるで焼きたてのパイ生地のように粉々に砕け散った。
「……ふむ。いい音だ。この熱気の中でも、その『調理器具』は冴えているらしい」
イグニスが、手にしたナイフで最後の一体の首を音もなく刈り取った。
彼は床に転がった鉄屑を一瞥し、再び歩き出す。
「この騒ぎでハロルドに気づかれた。ここからは時間との勝負だ。アリシア、足元に気をつけろ。次は『焦げ付く』どころじゃ済まないぞ」
「望むところですわ――さあ皆様、メインディッシュの待つ王宮へ急ぎましょう!」
私たちは、さらに熱を増す地下の深淵へと突き進んでいった。
◇
灼熱の排熱導管を抜け、私たちが辿り着いたのは、王都の最深部――都市の全魔力を統べる心臓部『アストラ・ネクサス』だった。
そこは、地上の喧騒が嘘のように静まり返った、広大な円形の空間だった。
中央には、脈動する巨大な魔結晶が鎮座し、壁一面に張り巡らされた魔力回路が、不気味な紫色の光を放ちながら明滅している。
だが、何より私たちの目を引いたのは、その「心臓」の真ん前で、あまりにも優雅に寛いでいる一人の男だった。
「……? エラーか。排熱効率が一時的に低下したようだが……計算上、侵入者が生きて辿り着く確率は零点零二パーセント。わざわざ確認に行くまでもないな」
男――魔導提督ハロルドは、幾何学的な紋様が刻まれた浮遊椅子に深く腰掛け、透き通るような磁器のカップを傾けていた。
傍らの魔導テーブルには、丁寧に淹れられたであろう紅茶と、複数のスコーンまで並んでいる。
彼は自らの肉体をシステムと同期させている。
それゆえに、自らが作り上げた「完璧な地獄」を誰かが突破してくるなど、微塵も考えていなかったのだ。
「随分と余裕のあるティータイムですわね、ハロルド。お客様へのウェルカムドリンクも用意してくださらないなんて、接客業としては落第点ですわ!」
私の高笑いが、静寂に包まれた心臓部に響き渡った。
「なっ……!? アリシア・ヴァレンタイン……それに、ルイ陛下だと?」
ハロルドが椅子から飛び上がり、手にしていたカップが床に落ちて砕け散った。
彼の「鉄の心臓」が激しく脈打ち、壁の回路が過剰な光を放つ。
「計算が合わん……! 地下導管の熱量は、人間のタンパク質が数分で変性する数値に設定されていたはずだ! なぜ生きている、なぜここにいる!」
「……理屈じゃないんだよ、ハロルド。君が『排除すべきゴミ』として扱った熱気も、アリシアにとっては使い慣れた厨房の温度に過ぎなかった。ただ、それだけのことだ」
ルイ様が剣を抜き放ち、黄金の魔力を滾らせる。
イグニスもまた、死の香りを纏ったダガーを逆手に持ち、ハロルドの喉元を射抜くような視線を向けた。
「……ふむ。計算違いを認められない料理人ほど、見苦しいものはないな。あんたの心臓、今ここで止めてやろうか?」
「黙れ、野蛮な侵入者どもめ! この『アストラ・ネクサス』にいる限り、私は神にも等しい力を振るえるのだ!」
ハロルドが叫ぶと、彼の背中からいくつもの魔力ケーブルが伸び、中央の魔結晶と直結した。
彼の瞳が紫色の光に染まり、空間全体の重力が急激に増大する。
「全自動防衛システム、強制起動! 不確定要素は、ここで一ミクロンも残さず消去する!」
床から無数の魔導障壁がせり出し、天井からは集光砲の端末が私たちを狙う。
だが、システムと同期したハロルドには、致命的な弱点があった。
「皆様、下がっていてくださいな……この男の『火加減』、私が直接直して差し上げますわ!」
私は手に持ったフライパンを、あえて床の魔力回路へと叩きつけた。
「なに……!? そんな原始的な武器で何を……」
「ハロルド。貴方はシステムに頼りすぎて、肝心な『現場の熱』を忘れていらっしゃいますのよ――今、この部屋の温度は、貴方の魔力暴走で限界を超えていますわ!」
私は地下導管でフライパンに蓄えられた、極限の熱量を一気に解放した。
カトリーナが魔法で冷やしていたフライパンに、アストラ・ネクサスの高魔力熱が干渉し、急激な『熱膨張』と『魔力飽和』が引き起こされる。
「おまけですわ! 隠し味の氷の魔力、受け取りなさいな!」
カトリーナが放った冷気の残滓と、私のフライパンの熱がハロルドの足元の回路で衝突した。
物理法則を無視した急激な温度変化に、精密すぎるハロルドの同期システムが悲鳴を上げる。
「ぐ、あああああッ!? 感覚が……情報が、逆流する……ッ!」
都市そのものを五感としていたハロルドにとって、足元の回路の「爆発的な熱変化」は、脳を直接焼かれるに等しい衝撃だった。
「不作法な管理者にふさわしい、特大の『焦げ付き』ですわ!」
私は怯んだハロルドの懐へ飛び込み、魔力で黄金色に輝くフライパンを、その「鉄の心臓(同期デバイス)」へ向かってフルスイングした。
ガァァァァァァァンッ!!!
アストラ・ネクサス全体が震えるほどの衝撃音が轟く。
ハロルドの胸元に装着されていた魔導核が粉々に砕け散り、彼と都市の接続が強制的に遮断された。
「……ば、馬鹿な。私の、完璧な、計算が……」
ハロルドは白目を剥き、そのまま力なく床に崩れ落ちた。
同時に、荒れ狂っていた回路の紫色の光が消え、王宮全体に穏やかな静寂が戻っていく。
「ふぅ。後片付けをしないシェフほど、タチの悪いものはありませんわね」
私はフライパンを回して腰に戻し、乱れた髪を整えた。
「……見事だ、アリシア。これで都市の防衛網は沈黙した」
ルイ様がハロルドの体を確認し、安堵の息をつく。
だが、戦いはまだ終わっていない。
イグニスが王宮のさらに奥、深い闇が続く階段を指差した。
「……アリシア、まだだ。この下に、あんたの『取り立て相手』が待っている……生きた人間の、濃厚な絶望の匂いがするぞ」
私は頷き、階段の先を見据えた。
「ええ、分かっていますわ。お父様、お母様。今すぐその高い『お代』を、回収しに伺いますわよ!」




