第22話 濁る魔力の脈動と、白亜の底に眠る地獄の産道
一時間後。
カフェ・ヴァレンタインのテラスには、先刻までの戦いの火屑の匂いを鮮やかに塗り替えるような、芳醇で濃密な香りが立ち込めていた。
冬の朝の澄んだ空気の中、テーブルの中央で白い湯気を立てているのは、お父様が「娘への屈辱」として送りつけてきた、一本で前世の年収分は下らないというヴィンテージ・白ワインを惜しげもなく使った一皿だ。
『銀氷魚と冬野菜の白ワイン蒸し』。
ワインの蒸気でふっくらと火を通された魚の身は、真珠のような輝きを放ち、その傍らには、旨みを吸い込んだ色鮮やかな冬野菜が宝石のように並んでいる。
そして、大皿に咲いた大輪の薔薇。
熟練の技で透けるほど薄く、けれど肉の繊維を壊さぬよう完璧にスライスされた『最高級生ハムの盛り合わせ』。
自家製の無花果のコンフィが添えられたその一片は、朝日に照らされて琥珀色に透き通り、見る者の食欲を否応なしに刺激した。
「……信じられませんわ。これほどの食材を、この短時間で完璧に仕上げるなんて」
カトリーナが、いつもの毒舌も忘れて感嘆の声を漏らす。
テラスを囲む面々の顔には、依然として「両親拉致」という重い事実が影を落としていたが、目の前に並んだ「命の輝き」そのもののような料理を前に、その瞳には次第に熱が灯り始めていた。
私は、最後の一杯となる温かなハーブティーをルイ様の前に置くと、エプロンを整えて凛と背筋を伸ばした。
「皆様、召し上がれ。これは単なる食事ではありません。王都アストライアという巨大な罠に踏み込むための、私たちの『燃料』ですわ。不作法なハロルドに、空腹で頭が回らないまま会うなんて、淑女として耐えられませんもの」
ルイ様が、ゆっくりとフォークを手に取った。
彼は銀氷魚の身を一口運び、その芳醇な香りに目を細めると、私の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……美味しいよ、アリシア。このワインの香りは、かつて白亜の王宮で開かれていた晩餐会のそれよりも、ずっと力強く、勇気を与えてくれる」
その言葉を合図に、バルトやテリオン、そして疲弊していた鉄衛騎士団の面々も、貪るように食事を口にし始めた。
沈黙の中に、カトラリーが皿を打つ小気味よい音だけが響く。
咀嚼するたびに、最高級の脂が、ワインのコクが、皆の体温を上げ、折れかけていた心を繋ぎ直していくのが分かった。
「さて、ルイ様。お腹が満たされたところで、本題に入りましょうか」
私は、テーブルの端に広げられたアストライアの地図を指先で叩いた。
「魔導提督ハロルド。都市そのものを自らの五感とするあの男の目をどう欺き、その喉元……白亜の王宮へと入り込むのか。その『レシピ』を聞かせてくださる?」
ルイ様が、飲み干したばかりのカップを置き、厳しい表情で地図を指し示した。
「アストライアは、街全体が巨大な『魔導回路』の集積体だ。私の持つ『太陽の紋章』は、都市にとって最大のエネルギー源であると同時に、侵入者を知らせる『警鐘』にもなる。私が一歩でも足を踏み入れれば、ハロルドは即座に私の位置を特定し、集光砲の照準を合わせるだろう」
「おーっほっほっほ! そこは私の出番ですわね、ルイ様」
カトリーナが扇子で地図の街灯が並ぶ大通りを指した。
「アストライアの回路は、あまりに『純粋』すぎるのですわ。だからこそ、私の得意とする不潔で禍々しい魔力の波長をルイ様に被せ、一時的に回路の認識を『エラー』に書き換えて差し上げますわ。ただし、もって数時間。それ以上はハロルドの検知網が異変に気づき、強制排除に動き出しますわよ」
「数時間か……十分だ」
影の中から、イグニスが音もなく一歩前へ出た。
彼は懐から、市販の地図には載っていない「地下構造図」を広げた。
「地上からの潜入は、カトリーナの変装があっても困難だ。ハロルド直属の魔導人形が、市民一人一人の魔力波長を常に照合している……狙うなら、ここだ」
イグニスが指差したのは、王宮へと続く巨大な「地下熱排管」だった。
「アストライアの魔導消費によって生じる莫大な熱を逃がすための地下導管だ。ここは常に高熱の蒸気が吹き出し、通常の人間なら数分と保たない『地獄の産道』……だが、ルイの障壁と、俺の道案内があれば、王宮の真下までハロルドの目を盗んで辿り着ける」
「あら、まるで『厨房の換気ダクト』を通って、こっそり冷蔵庫の中身を覗きに行くようなものですわね」
私の言葉に、テリオンが少しだけ顔を引き攣らせた。
「……随分と物騒な換気ダクトだな。だが、ハロルドが『完璧』を期して地上と空の警戒を強めているなら、その排熱処理という『汚れ役』のルートは、確かに奴の計算外かもしれない」
「ええ。そして王宮の地下に潜り込めば、そこはハロルドというシステムの『心臓部』……アストラ・ネクサスがありますわ。そこを叩けば、都市中の魔導人形も、集光砲も、ただのガラクタに成り下がります」
ルイ様が立ち上がり、私を見た。
その瞳には、もはや迷いはない。
「潜入ルートは決まった。地下導管から王宮最深部へ……そして、その先にある地下牢から君のご両親を救出し、ハロルドとの決着をつける」
「不作法な管理者に、キッチンの元栓を閉められる恐怖を教えて差し上げましょう。さあ、皆様。準備はよろしいかしら?」
私は愛用のフライパンを腰に差し、凛として微笑んだ。
「王都アストライアへ、最大級の『お代』を請求しに参りますわよ!」
◇
カフェ・ヴァレンタインを発って数日。
私たちはカトリーナの偽装魔法によって、薄汚れた「旅の商隊」へと姿を変え、ついにその場所へと辿り着いた。
目の前に広がるのは、大陸の魔導の心臓部。
王都アストライア。
切り立った崖の上に築かれたその都市は、まるで空へ向かって成長する巨大な水晶の群生体だった。
中心にそびえる『白亜の王宮』を核として、周囲には重力に逆らって滞空するいくつもの魔導尖塔が、静かに光の粒を零している。
「……ふむ。かつては太陽の光を浴びて白く輝いていたはずだが。今は、死臭を隠すための死装束のようにしか見えないな」
顔を深い帽子で隠したイグニスが、低く、研ぎ澄まされたナイフのような声で吐き捨てた。
彼の言う通り、都市の美しさは今、致命的な毒に侵されている。
白亜の壁面に血管のように張り巡らされた『魔力伝導路』。
本来ならルイ様の温かな黄金の魔力が流れるはずのその回路は、現在、カインの「黒い炎」の影響を受けて、どろりと濁った紫色に明滅していた。
街灯は不規則に瞬き、空中の回廊を滑るように進んでいたはずの魔法艇は、制御を失ったかのように不安定な軌道を描いている。
まるで、無理やり他人の血液を流し込まれた巨大な生命体が、悲鳴を上げながら拒絶反応を起こしているかのようだった。
「おーっほっほっほ! 見てご覧なさい、あの無様な魔力のノイズ! ハロルドも、あれほどのシステムを掌握しておきながら、火加減すらまともに調節できないなんて。あの方は提督ではなく、ただの『壊れた自動調理器』ですわね」
カトリーナが扇子で口元を隠し、嘲笑う。
だが、その瞳には強い警戒の色があった。
都市の至る所に設置された魔導センサーが、不可視の触手のように周囲をスキャンしている。
「……アリシア。ここから先は、私の『太陽の紋章』が最も敏感に反応する。カトリーナの偽装が解ければ、一瞬で都市そのものが牙を剥くだろう」
ルイ様が、マントの下で右手の紋章を強く握りしめた。
私たちは検問所を避け、人目を盗んで都市の下層部へと降りていく。
そこは華やかな上層とは対照的に、都市の排熱と魔力の残りカスが澱む、暗い石造りの迷宮だった。
「……ここだ。この風下、焦げた肉の匂いと腐った魔力が混じる場所」
イグニスが立ち止まり、壁面に隠された巨大な鉄格子の扉――『地下熱排管』の入り口を指差した。
格子からは、肌を焼くような熱風がゴォゴォと吹き出し、内部は視界を遮るほどの濃い蒸気が渦巻いている。
「この先は、アストライアという化け物の『食道』だ。地獄を見ることになるが、アリシア、そのフライパンで蒸し焼きになる覚悟はできているか?」
イグニスの鈍色の瞳が、品定めするように私を射抜く。
私は微笑み、腰のフライパンの柄に手をかけた。
「あら、イグニス。熱気と蒸気なんて、厨房では日常茶飯事ですわ。不作法な管理者に『お代』を請求するためですもの。少々暑苦しいくらいの歓迎、喜んでお受けいたしますわよ」
私たちは、一寸先も見えない熱波の渦へと、迷わず足を踏み入れた。




