第20話 静寂を乱す鼓動と、闇を切り裂く銀の刃
冬がその最後の溜息を吐き出すような、冷たくも柔らかな朝だった。
木々の梢に積もった雪は水分を含んで重みを増し、陽光を浴びては水晶のような雫となって地面を叩いている。
凍てついた森の奥から、微かに土の匂いと目覚め始めた芽吹きの気配が漂ってくる。
季節がゆっくりと、その重い腰を上げようとしていた。
私が店先で看板を整えていると、背後に気配もなく、影が落ちた。
「……アリシア。準備はいいか」
振り返ると、そこには背中に巨大な黒弓を背負ったテリオンが立っていた。
カメリアの瞳を少しだけ細め、いつになく真剣な表情を浮かべている。
「おはようございます、テリオン。あら、準備とは……?」
「忘れたのか。冬の終わり、氷が解け始めるこの数日にしか姿を現さない希少な魚――『銀氷魚』を獲りに行くと言ったはずだ。お前の店のメニューに、必要だろう」
ぶっきらぼうな物言いだったが、彼の長く伸びた耳が微かに震えている。
テリオンがわざわざ私を誘うのは、彼なりの「貢献」の形なのだろう。
私は令嬢としての完璧な微笑みを浮かべ、頷いた。
「ええ、もちろん覚えていますわ。最高の一皿を作るためですもの。喜んでお供いたしますわ」
◇
私たちは、まだ深い雪が残る渓谷へと向かった。
道なき道を進むのは慣れているつもりだったが、春を待つ雪は脆い。
「足元に気をつけろ。この時期の雪は、見た目以上に――」
テリオンが警告を発した瞬間、私の右足がグシャリと崩れた雪の下へ飲み込まれた。
そこは、渓流へと続く切り立った崖の縁だった。
「あっ……!?」
身体が宙に浮く。重力に引かれ、視界が激しく揺れた。
だが、衝撃が来るより早く、強靭な腕が私の腰を力強く引き寄せた。
「――っ、馬鹿者が!」
テリオンが咄嗟に私を抱きかかえ、そのまま雪原の上へと転がり込む。
気がついた時、私はテリオンの腕の中にいた。
月夜を溶かし込んだような褐色の肌が、目の前にある。
彼の鋭い切れ長の瞳が、至近距離で私を見開いていた。
静寂が訪れる。
聞こえるのは、森の静寂をかき乱すような、テリオンの激しい鼓動だけだ。
「……テ、テリオン?」
私の問いかけに、彼はハッとしたように顔を赤く染めた。
夕焼けよりも鮮やかな赤が、その褐色の頬を覆っていく。
彼は私を離すべきだと分かっているはずなのに、抱きしめた腕にどう力を込めていいのか、あるいは抜いていいのか分からない様子で、固まってしまった。
「…………すまない。だが、離すと、また落ちそうだからな」
消え入るような声で紡がれた言い訳。
あまりの近さに、私は心臓が跳ねるのを感じた。
気まずさと羞恥心に耐えかね、私はそっと彼の腕から抜け出した。
「……ありがとうございます、テリオン。おかげで助かりましたわ。さあ、行きましょうか」
「……ああ。そうだな」
ドギマギしながら歩き出した私たちの間に、奇妙な沈黙が流れる。
テリオンは何度も首筋をさすり、視線を泳がせていた。
目的地である清流に着く頃には、ようやく息が整っていた。
水底で銀色に輝く魚たちを、テリオンは鮮やかな手並みで射抜き、私はそれを丁寧に籠へと収めていく。
必要な数を揃え、私たちは並んでカフェへの帰路についた。
◇
店に戻ると、厨房にはちょうど誰もいなかった。
私は獲れたての銀氷魚をまな板に並べ、包丁を握る。
「テリオン、せっかくですから、貴方も手伝ってくださる? この魚、下処理が肝心なのですわ」
「……ああ。獲った責任があるからな」
いつもは一人で、あるいはクラリスとこなす作業だが、今日は隣にテリオンがいる。
彼は大きな弓を置くと、驚くほど繊細な手つきで魚を捌き始めた。
狩人としてのナイフ捌きが、調理にも活かされているらしい。
「ふふ、上手ですわね」
「……お前が横で見てるから、手元が狂いそうだ」
そう言って不機嫌そうに口を尖らせるテリオンの耳は、やはり赤いままで。
私たちは二人で、冬の終わりを告げる特別な魚料理を仕上げていった。
香ばしく焼き上がる魚の匂いが、少しずつ私たちの間の「ノイズ」を、温かな余韻へと変えていく。
最高の一皿が完成する頃、窓の外では夕闇が訪れようとしていた。
◇
厨房に満ちていた香ばしい匂いが、今度はダイニング全体を支配していた。
大きな大皿に並べられたのは、テリオンと共に獲り、共に捌いた『銀氷魚』の香草焼きだ。
氷の下で身を引き締めていた魚は、火を通すことで驚くほどふっくらと膨らみ、ナッツのようなコクのある脂が表面でパチパチとはじけている。
「さあ、皆様。冬の終わりを告げる最高の一皿ですわよ!」
私が皿を置くのと同時に、待ち兼ねていた面々の手が動いた。
「ほう……川魚特有の泥臭さが一切ない。むしろ、森の朝露をそのまま閉じ込めたような清涼感だ。アリシア、テリオン、見事なものだな」
ルイ様が上品に身を解し、感嘆の息を吐く。
その隣では、カトリーナが「おーっほっほっほ!」と高らかに笑いながら、フォークを突き立てていた。
「不潔な泥の中に、こんな宝石のような味があるなんてね。認めざるを得ないわ、この店の目利きだけは一流だって……ねえジュリアン、貴方も遠慮せずに食べなさいな」
「はい! わあ、身が真っ白だ……! テリオンさん、これ、捕まえるの凄く大変だったんでしょう?」
ジュリアンの無垢な瞳を向けられ、テリオンはふいっと視線を逸らして、無造作にパンを口に放り込んだ。
「……別に。弓があれば造作もない。崖から落ちそうになる『ノイズ』さえなければ、もっと早く終わっていた」
「あら、それを言わないでくださいまし……でも、本当に助かりましたわ、テリオン」
私が微笑みかけると、テリオンの長い耳の先がぴくりと跳ねた。
彼はそれ以上何も言わず、黙々と魚を口に運び続けたが、そのカメリアの瞳にはどこか穏やかな熱が宿っているように見えた。
バルトが完璧な所作で注ぎ足すワイン。
クラリスが焼いた付け合わせの温野菜。
ゾアが「肉にも勝る滋味よ」と笑い、イグニスが影の中で静かにその味を噛み締める。
カフェ・ヴァレンタインの夜は、優しく、そして満ち足りた時間の中に溶けていった。
◇
宴が終わり、片付けを終えた私は、少し火照った顔を冷ますためにテラスへと出た。
夜風はまだ冷たいが、そこには春の訪れを予感させる、わずかに湿った土の香りが混じっている。
手摺りに寄りかかり、星空を仰いでいる影があった。
テリオンだ。
彼は夜の闇に溶け込むような褐色の肌を月光に晒し、弓を傍らに置いて、ただ静かに森を見つめていた。
「テリオン、ここにいらしたのね」
「……アリシアか。寝るにはまだ、空気が騒がしい」
彼は振り返らずに答えた。
私は彼の隣に並び、一緒に深い森の影を見つめる。
「今日のことは、本当に感謝していますわ。貴方がいなければ、私は今頃……」
「……あんなところで死なれては、私の食事がなくなる。それだけだ」
いつもの突き放すような言葉。
けれど、今の私にはそれが彼の照れ隠しであることを知っていた。
テリオンはふいに自分の掌を見つめた。
今日、崖際でアリシアの細い腰を抱きしめた時の、あの確かな感触。
柔らかな体温と、驚きに跳ねた彼女の鼓動の音。
ダークエルフの鋭すぎる感覚は、常に世界を「音」として捉える。
彼にとって、他人との接触は本来、耐え難いほどの雑音を伴う不快なものだった。
だが、あの日――彼女を腕の中に収めた瞬間、彼の世界からすべてのノイズが消え去ったのだ。
代わりに響いたのは、自分の胸の奥で爆発するように高鳴る、熱い、熱いリズム。
(……私は、この女の音を……失いたくないと思っているのか)
獲物を追う狩人としての執着ではない。
この場所を、この味を、そしてこの微笑みを。
誰にも汚させず、自分の腕の中に閉じ込めておきたいという、独占欲に近い激情。
テリオンがカメリアの瞳を微かに揺らし、隣に立つアリシアの方へゆっくりと手を伸ばそうとした、その時だった。
――ヒュッ!!
夜の静寂を切り裂き、鋭い風切り音が響く。
テリオンの身体が、思考よりも早く動いた。
彼はアリシアの肩を掴んで地面に伏せさせると、同時に傍らの黒弓をひったくり、一本の矢を番える。
ガッ!!
テラスの柱に、深々と突き刺さったのは一本の投げナイフだった。
その柄には、不気味な銀色の烏の羽が結びつけられている。
「……チッ。無粋なノイズが混じり込んだようだな」
テリオンの瞳から温度が消え、冷酷な狩人のそれへと変貌する。
森の境界線、月光の届かない闇の中から、カチャリと金属が擦れ合う音がした。それも一つではない。
十……二十。統制された、殺意を孕んだ足音。
「おーっほっほっほ! 誰かしら、私の美しい夜を邪魔する不潔な輩は!」
異変に気づいたカトリーナが、杖を手に飛び出してきた。
続いてルイ様、バルト、ゾアも、それぞれの武器を手にテラスへと集結する。
闇の向こうから、一人の男がゆっくりと姿を現した。
その胸元には、あのゼノの私兵団であることを示す、歪んだ紋章が刻まれている。
「……見つけたぞ、太陽の落ち武者。そして、王の首を隠し持つ不遜なカフェの連中。ゼノ様からの言付けだ。――『今夜、この森ごと灰にしてやる』と」
森の奥から、松明の火が次々と灯っていく。
一時の安らぎを焼き尽くそうとする、鉄錆と血の匂いを纏った軍勢。
カフェ・ヴァレンタインに、かつてない危機が迫っていた。




