第19話 黄金のハニーナッツタルトと、甘じょっぱい二人の距離
深い冬の眠りから覚めた森に、水晶のように透き通った光が降り注いでいた。
梢に溜まった昨夜の雪が陽光に解け、宝石の雫となって滴り落ちては、凍てついた下草を微かに濡らしている。
カフェの煙突からは、焼きたてのパンの香ばしさと薪が爆ぜる柔らかな匂いが、白く細い煙となって冬空に吸い込まれていった。
店内に満ちる、静かで、けれど昨日までとは決定的に違う「熱」を帯びた空気。
私はカウンターでコーヒー豆を挽きながら、昨夜のログハウスでの出来事を思い出し、思わず手元を狂わせそうになっていた。
(唇に残る、あの熱……あ、あああ! いけませんわ、アリシア! 今は開店準備に集中するのですわ!)
必死に扇子で顔を仰いでいると、背後から突き刺すような視線を感じた。
「おーっほっほっほ! 朝から随分と顔が赤いですわね、アリシア。まるで煮えたぎったトマトのようですわ」
カトリーナが、プラチナブロンドの縦ロールを揺らしながら、真紅の瞳を細めてニヤニヤと近づいてきた。
「昨夜、ログハウスから戻ってきた時のルイの顔、見たかしら? あんなに分かりやすく『牙を抜かれた獅子』みたいな腑抜けた顔をするなんて……一体、どんな『お代』を支払わせたのかしらね?」
「な、なな、何のことかしら! 私はただ、店主として真摯にお客様をお見送りしただけですわよ!」
「ええ、ええ。真摯に、ね……その割には、そっちの獣が朝から『猛毒』でも撒き散らしているような顔をしていて、空気が重くて堪らないのだけれど?」
カトリーナが視線を向けた先では、テリオンが乱暴に銀食器を磨いていた。
彼はカメリアの瞳を限界まで尖らせ、全身から「不機嫌」という物理的なオーラを放っている。
「……五月蝿い。朝から甘ったるいノイズが店中にこびり付いていて、鼻が曲がりそうだ……さっさと表の作業を済ませてくる」
テリオンは私の顔を一度も合わせることなく、逃げるようにテラスへと出ていった。
「あらあら、嫉妬の炎でお店が焼け落ちなくて良かったわ……さあ、ジュリアン! 私はこれから庭の魔力補強をしますわよ。貴方も手伝いなさいな」
「はーい! カトリーナさん、今行きます!」
◇
冬の柔らかな日差しが差し込む庭で、カトリーナとジュリアンの作業が始まった。
カトリーナは贅沢な杖を掲げ、カフェの周囲に結界を編み直していく。
ジュリアンはその傍らで、結界の起点となる石を運んでいた。
だが、その時だった。
「――あ、きゃっ!?」
短い悲鳴と共に、カトリーナが霜で滑りやすくなった切り株に足を獲られ、派手に転倒した。
「痛っ……! な、何よこれ、不潔な根っこが私の足を……!」
カトリーナが顔を顰め、捲れた魔導衣の裾から膝を覗かせる。
そこには鋭い岩角で切ったらしい生々しい傷口があり、鮮血が白い肌を伝って滴り落ちていた。
「カトリーナさん! 血が……!」
「いいわ、これくらい……生活魔法で止血するだけ……っ、く……」
強がろうとしたカトリーナだったが、魔力回路を損傷した身体には、細かな治癒魔法さえも今の瞬間は激痛が走るらしい。
「待って、今、助けます! お願い、癒やしの声を届けて!」
ジュリアンが懐から銀の笛を取り出し、唇に当てた。
冬の静謐な空気の中に、透き通るような旋律が流れ出す。
その音色は風に乗り、森の奥深くへと吸い込まれていった。
直後、眩い白光と共に、雪よりも白い毛並みと額に一本の角を持つ聖獣――ユニコーンが姿を現した。
ユニコーンは笛の音に導かれるようにカトリーナへ歩み寄ると、その角を彼女の傷口にそっと触れさせた。
淡い真珠色の光が膝を包み込み、傷跡さえも残さず消えていく。
「……えっ? う、嘘でしょ……ユニコーンを、その笛一つで……?」
カトリーナは真紅の瞳を見開き、呆然と目の前の聖獣を見つめた。
「ジュリアン……貴方、そんなこともできますの……?」
「わあ……咄嗟に呼んじゃいました! こんなこと、できたんですね……えへへ」
ジュリアンは照れ臭そうに笑い、ユニコーンの鼻筋を親しげになでた。
その無垢な笑顔と、伝説の聖獣を自在に操る少年の横顔。
普段は「不遜な詐欺師」だの「子供」だのと見下していたはずのカトリーナだったが、自分を真っ直ぐに助けてくれたその幼いヒーローの姿に、胸の奥が不自然に跳ねた。
「……な、なによ。礼なんて言わないわよ。当たり前のことをしただけですわ」
カトリーナは咄嗟に顔を背けたが、その白い頬は、真紅の瞳よりも深く、鮮やかに染まっていた。
彼女は動揺を隠すように髪を弄り、小声で付け加える。
「……でも、まあ。その笛の音だけは、不潔じゃなかったわ」
「えへへ、ありがとうございます、カトリーナさん!」
この森に集う者たちが、単なる「訳ありの居候」ではないことを、冬の朝の小さな奇跡と、少女の秘めた熱が物語っていた。
◇
厨房は、甘美な香りと熱気で満ちていた。
リニューアル後の目玉となる「新作スイーツ」の試作。
私はエプロンをきりりと締め直し、二人の頼もしい助っ人を見上げる。
「いい、二人とも。今回のコンセプトは『冬の森の秘宝』ですわ! 極上の蜂蜜と、香ばしいナッツ、そして隠し味に……」
「……岩塩、ですね。お嬢様」
「ぬう。我らリザードマンが誇る、魂を震わせる黄金の組み合わせよ」
淡々とボウルを回すクラリスと、巨大な手でナッツを丁寧(かつ豪快)に砕くゾア。
この巨躯の戦士が「脳がとろけるような甘露」を求めている姿は、いつ見ても微笑ましい。
「その通りですわ。ゾア、砕き具合は完璧ですわよ。クラリス、生地の寝かせ具合はどうかしら?」
「……万全です。お嬢様の情熱という名の『カロリー』が、生地にしっかりと馴染んでおりますわ」
「あら、一言余計ですわよ!」
笑い声が混じる中、オーブンからは堪らない香りが漂い始める。
焦がしバターの深み、蜂蜜の濃厚な甘さ、そして絶妙な塩気が混ざり合い、カフェ全体を幸福な予感で包み込んだ。
◇
一時間後。
陽光が優しく降り注ぐテラスで、臨時のお茶会が始まった。
テーブルには、冷えた冬の空気に湯気を立てる新作の『結晶塩のハニーナッツタルト』が並んでいる。
「……ふむ。これはまた、罪深い味がするな」
ルイ様が一口食べ、エメラルドの瞳を満足げに細めた。
その隣では、テリオンが不機嫌そうに(けれど食べる手は止めずに)フォークを動かしている。
「……甘ったるい。だが、この塩気だけは認めよう。脳の奥が少しは静かになる」
「素直じゃありませんわね……あら?」
ふと視線を向けると、テラスの端で並んで座る二人の姿が目に入った。
ジュリアンが、自分の取り皿に乗った大きなタルトの一切れを、大切そうにカトリーナの方へ差し出している。
「カトリーナさん、ここのナッツが一番カリカリしてて美味しいですよ。はい、どうぞ!」
「……な、なによ。私、そんなに食いしん坊に見えて?」
カトリーナはプラチナブロンドを揺らし、不機嫌そうに吊り目を尖らせる。
けれど、その頬は今朝のユニコーンの件からずっと、微かな熱を帯びたままだった。
彼女はジュリアンの笑顔に気圧されるように、受け取ったタルトを上品に口に運ぶ。
「……っ……不潔じゃないわね。むしろ、王立魔導院のカフェテリアで出されるものより、数段マシだわ」
「本当ですか!? よかった! カトリーナさん、さっきの怪我のところ、もう痛くないですか?」
「だ、誰のせいでこんな心配までされなきゃならないのよ……もう、痛くないわよ。貴方の『不作法な笛』のおかげでね」
カトリーナはそっぽを向いたが、その指先はジュリアンの袖をほんの少しだけ、所在なさげに掴んでいた。
無垢に笑う少年と、高慢な仮面が崩れかけている天才魔導師。
その微妙で、けれど確実な変化に、私はクラリスと目を見合わせ、意味深な笑みを交わし合う。
「……お嬢様。どうやら新作の出来以上に、実りの多い朝となったようですわね」
「そのようですわね。愛のスパイスは、お料理をさらに美味しくしますもの」
ルイ様が私の手をそっと握り、私たちは冬の午後の穏やかな空気の中、賑やかな仲間たちの姿を見守り続けた。
新しい拠点。新しい絆。
そして、灰の中から芽吹いた『太陽』の光が、今日という日を優しく、そして甘く照らしていた。




