第18話 祝祭の夜と、太陽へ捧げる不作法な口付け
朝日が、磨き上げられた大窓を真っ直ぐに突き抜けてきた。
仮板が完全に外されたカフェ・ヴァレンタインの店内は、新調された木材の芳醇な香りと、蜜蝋ワックスの艶やかな光沢で満ちている。
煤けていた壁は白く塗り直され、焼け焦げていた床板も、バルトとゾアの執念によって、以前よりも遥かに美しく蘇っていた。
私は、純白のエプロンの紐をキリリと締め直す。
手には、開店を告げるための真鍮のベル。
「完璧ですわ。これこそが、私の愛する『拠点』の真の姿ですわね!」
厨房ではクラリスが、寸分の狂いもない動作でスコーンを焼き上げている。
バルトは銀のトレイを脇に抱え、客席のわずかな傾きをミリ単位で調整し、ゾアは駐竜スペースの隅々まで完璧に掃き清めていた。
テリオンは「騒がしくなる」と毒づきながらも、看板の微調整を手伝い、カトリーナは「不潔な店が少しはマシになったかしら」と高慢に微笑んでいる。
準備は整った。
私は勢いよく扉を開け、冬の澄んだ空気の中にベルを響かせた。
「カフェ・ヴァレンタイン、本日リニューアルオープンですわ!」
その日は、一日中お祭り騒ぎだった。
再建を祝うため、私は腕によりをかけて最高のご馳走を用意した。
特大のローストビーフに、採れたてハーブを練り込んだ自家製パン。
カトリーナが魔法で冷やした極上の果実酒が振る舞われ、ゾアが「肉の塩気と蜂蜜の取り合わせは、我らリザードマンの最高の贅沢よ」と喉を鳴らす。
ジュリアンはワイバーンに特製の干し肉を振る舞い、イグニスもまた、隅の席で静かに、けれど確実に皿を空にしていった。
笑い声と、食器の触れ合う音。
一度は壊れかけたこの店が、前よりもずっと力強い熱気に包まれている。
私はその光景を、胸がいっぱいになる思いで見つめていた。
◇
賑やかな宴が終わり、夜の静寂が戻る。
私は離れのログハウスへと移動し、先に休んでいたルイ様の元へとお茶を運んだ。
暖炉の火が爆ぜる音だけが響く室内。
ルイ様は窓の外の星空を眺めていたが、私の気配に気づくと、優しく目を細めた。
「お疲れ様、アリシア。今日は最高の、そして美しい一日だった」
「ええ、ルイ様……でも、ふふ。この光景を見ていると、あの日を思い出しますわ」
私は琥珀色の紅茶を差し出し、対面に腰を下ろした。
「あの日……貴方が初めてこの店に辿り着いた、あの夕暮れ時のことですわ」
あの日、まだ看板も出していない扉を、ルイ様は控えめに叩いた。
現れたのは、夕焼けを溶かし込んだような鮮やかな髪を持つ、ひどく疲れ切った青年。
私は令嬢としての完璧な仮面を被り、彼を招き入れた。
「貴方が召し上がっている間、私が裏で何をしていたか、ご存知なくて? キッチンに入った瞬間、私は音を立てずに全力で喜びのステップを踏んでいたのですのよ。初のお客様ゲットですわー! って」
「ステップを? はは、それは初耳だ」
「驚きましたわ。だって、貴方が置いていったお代の金貨、あれにはアストライア王室の意匠が刻まれていたのですもの。超・上客ですわー! なんて喜んでいたところをお母様が見ていたら、間違いなく先祖代々の墓の前で卒倒していたでしょうね」
私の告白に、ルイ様は堪えきれないといった様子で噴き出した。
それから、そっと自分の右手の甲に目を落とす。
そこには、王家の血筋が受け継ぐ『太陽の紋章』が、暖炉の光を受けて静かに浮かび上がっていた。
「……君は、あの日からずっと不作法で、最高に魅力的な人だ。あの日、私は全てに絶望していた。聖域の力を巡る争いに疲れ、太陽の火と共にすべてを無に帰して消えようと、死に場所を探して彷徨っていたんだ」
ルイ様の瞳に、わずかな翳りが過る。
けれど、彼はすぐに私の手を、温かな熱を帯びた手で包み込んだ。
「だが、ある不作法な令嬢に、フライパンで現世へと叩き起こされてしまったんでね……あの時、君がくれたスコーンの温かさと、その後ろで密かに踊っていたという君の生命力こそが、私を灰の中から救い出したんだ」
「当然ですわ。私の店に死に場所を求めてくるなんて、最高の無粋。そんなお客様、フライパンでお仕置きして差し上げるに決まっていますわ」
私は真っ赤になりながらも、高らかに笑って見せた。
ルイ様の手に刻まれた『太陽の紋章』。
それは王国の宿命そのものだ。
灰に帰そうとした過去は消えないけれど、この店が元通りになったように、ルイ様の心もまた、新しい光を芽吹かせ始めている。
「……アリシア。君はやはり、私が見つけた最高の宝物だ」
暖炉の中で、パチパチと爆ぜる薪の音だけが響いていた。
冷え切ったはずの指先が、ルイ様の掌に包まれて、火傷しそうなほどに熱い。
「君はあの日、私を『超・上客』だと言って喜んだと言ったね」
ルイ様が、ふっと体温を感じる距離まで顔を近づけた。
磨き上げられたエメラルドの瞳が、至近距離で私の瞳をじっと射抜く。
その視線の熱に、喉の奥が震えた。
「え、ええ……金貨一枚で、半年は安泰だと思いましたもの。私は計算高い女ですのよ?」
強がりを言って扇子を広げようとしたが、空いた方の手もルイ様に優しく絡め取られた。
逃げ場を失い、私の背中が椅子の背もたれに深く沈む。
「ならば、私はもっと多くの対価を支払わねばならない……金貨だけではない。私の残りの人生も、アストライアの未来も、この右手に宿る太陽の輝きさえも、君一人のために捧げたいと思っているんだ」
「ル、ルイ様……何を仰って……」
「君が私を、灰の中から救い出してくれたからだ。君の焼くスコーンの温かさが、不作法なフライパンの音が、私の凍てついた心を溶かした……私は今、かつてないほどに、生きたいと願っている。君の隣で、この店のパンの香りを嗅ぎながら」
ルイ様の吐息が、私の頬を掠める。
いつもならここでテリオンが「ノイズがうるさい」と毒づくはずだが、今は誰もいない。
ただ、私の心臓が不作法な早鐘を打ち、静寂をかき乱しているだけだ。
「アリシア。私は、不作法な男だろうか」
「……ええ。とんでもなく、不作法な『上客』ですわ」
私は観念して、重い瞼を閉じた。
次の瞬間、柔らかく、けれど確かな熱を帯びたものが私の唇に触れた。
お茶の香りと、薪の匂い。
そして、ルイ様という一人の男が持つ、生命の熱量。
それは、どんな極上のスイーツよりも甘く、私の理性を呆気なく溶かしていく。
令嬢としての仮面も、計算高い店主の矜持も、今はどこか遠い場所へ消え去っていた。
唇が離れると、ルイ様は愛おしげに私の額に自分の額を寄せた。
「……お代としては、まだ足りないかな?」
「も、もう……! 貴方という方は! これ以上は、ヴァレンタイン家の家名が真っ赤になって燃え尽きてしまいますわ!」
私は真っ赤な顔で叫び、今度こそ扇子で顔を隠した。
けれど、隠しきれない口角が、幸せな形に緩んでしまうのを止めることはできなかった。
窓の外では、月が静かに私たちを見守っている。
灰の中から芽吹いた小さな光は、今、確かな熱を持って、私たちの未来を照らし始めていた。




