第17話 銀嶺の星空と、黒鱗に刻まれた記憶
西日に照らされた店内は、琥珀色の光で満たされていた。
バルトとクラリスが買い出してきた最高級の茶葉「銀嶺の滴」が、急須の中でゆっくりと開き、冬の森を丸ごと煮詰めたような清涼な香りを放つ。
暖炉では薪がパチパチと爆ぜ、新しく張り替えられたばかりの床板が、その熱を反射して艶やかに光っていた。
戦場の鉄臭さはもうどこにもない。
そこにあるのは、ただ穏やかで、贅沢な静寂だった。
「……良い香りだ。アリシア、君の淹れる茶は、どうしてこうも心を解きほぐすのだろうな」
私の隣に座るルイ様が、白磁のカップを口に運び、目を細めた。
夕陽を透かしたルイ様の髪は、まるで上質な絹糸が燃えているように美しい。
「当然ですわ、ルイ様。最高級の茶葉と、私の完璧な抽出技術。美味しくないはずがありませんわ!」
私は動揺を隠すように扇子で顔を仰いだ。
だが、ルイ様はふいにカップを置くと、椅子を引いて私の方へと身を乗り出した。
至近距離で見つめてくる、磨き上げられたエメラルドの瞳。
「技術だけではないはずだ……君の慈しみが、隠し味になっているのだろう?」
ルイ様の手が、私の頬に触れようとする。その指先の熱が、まだ少し肌寒い店内の空気の中で、驚くほど鮮明に伝わってきた。
「ル、ルイ様……! 顔が、顔が近すぎますわよ!」
私は真っ赤になってのけぞった。
完璧な淑女を目指す者として、これほど取り乱すなどあってはならない。
けれど、ルイ様の優しい微笑みを前にすると、私の冷静さは冬の雪のように呆気なく溶けてしまう。
「……チッ。朝っぱらから心音が五月蝿いと言ったはずだ。甘ったるい匂いまで混じって、鼻が曲がりそうだぞ」
カウンターの隅で、テリオンが不機嫌そうに舌打ちをした。
彼はカメリアの瞳を鋭く尖らせ、乱暴にカップをテーブルに叩きつける。
どうやら、私とルイ様の距離感が、彼の繊細な神経を逆撫でしているらしい。
「テリオン、そんなに不服そうな顔をするなら、蜂蜜を瓶ごと足して差し上げましょうか? その渋面が少しは甘くなりますわよ」
「……やめろ。これ以上、甘ったるい気配を増やすな」
テリオンはふいっと視線を逸らしたが、その耳の先が微かに赤くなっている。
彼にとって、私とルイ様が醸し出す「甘い雰囲気」そのものが、耳障りで落ち着かない「ノイズ」なのだ。
そんな私たちのやり取りを、少し離れた席から「ニヤニヤ」という擬音が聞こえてきそうなほど愉しげに眺めている影があった。
「おーっほっほっほ! 相変わらずお熱いですわね、アリシア。それにルイも」
カトリーナは真紅の瞳を細め、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。
彼女は頬杖をつきながら、まるで極上の喜劇でも鑑賞しているような顔で、私とルイ様、そしてテリオンを交互に見つめている。
「私から見れば、どいつもこいつも家名を汚す出来損ないか、不器用な獣にしか見えませんけれど……まあ、この茶葉の品質だけは認めてあげてもいいわ」
高慢な釣り目の奥で、好奇心の火が揺れている。
彼女にとって、このカフェの人間模様は、宮廷魔導師としての退屈な生活では決して味わえない最高の娯楽なのだろう。
「カトリーナ! 変な茶々を入れないでちょうだい。私はただ、店主として大切なお客様を接遇しているだけですわ!」
「ええ、ええ。接遇、結構なことですわ……テリオン、あんまり睨むとせっかくの顔が台無しよ? まあ、せいぜいこの『不潔な店』で繰り広げられる痴話喧嘩を、私は特等席で楽しませてもらうわ」
カトリーナはさらにニヤリと笑い、優雅に紅茶を啜った。
バルトが完璧な所作で注ぎ足すお茶。
クラリスが静かに添える、手作りのスコーン。
イグニスもまた、隅の席で無言のまま、けれどどこか満足げにその熱を享受している。
窓の外では、夜の帳がゆっくりと下りようとしていた。
けれど、カフェ・ヴァレンタインの中には、戦火すら消せなかった温かな灯火が、今夜も明るく、そして騒がしく灯り続けている。
◇
賑やかだったお茶会が終わり、夜の帳が完全に森を包み込んだ。
ルイ様は「少し片付けなければならない仕事がある」と言って、護衛のバルトと共にログハウスの方へ戻られた。
一人になった私は、火照った頬を冷ますため、厚手のショールを羽織ってテラスへと出た。
一歩外へ出れば、そこは凛とした冷気の世界だ。
空を見上げると、冬の星座たちが、まるで零れた宝石のように鋭い光を放っている。
その美しさに息を呑んでいると、テラスの隅に、月光を弾いて鈍く光る巨影があることに気がついた。
「あら、ゾア。貴方も夜風に当たりに来たの?」
深緑の鱗を夜露に濡らし、手摺りに寄りかかっていたのはゾアだった。
二メートルを超える巨躯、腰に下げた巨大な斧。
彼がそこにいるだけで、テラスが少し狭く感じられる。
黄金の瞳がゆっくりとこちらを向き、彼は窮屈そうに身を揺らした。
「……主か。我はただ、この冷気が心地よかっただけだ。我らリザードマンの鱗は、戦いの熱で乾きすぎる」
ゾアは再び空を見上げた。その鋭い牙が、星の光を受けて白く光る。
「ゾアの故郷では、こんな星空は見られたのかしら?」
「故郷、か。我らのいた湿地帯は、常に泥と血の臭いに満ちていた。空を見上げる余裕など、戦士にはない……あるのは、己の渇きだけだ」
ゾアが低く、地響きのような声で語り始める。
かつて彼は、部族最強の戦士として、止まない戦いの中にいた。
リザードマンの理は単純だ。
勝てば喰らい、負ければ朽ちる。
そんな日々の中で、彼らが唯一「生」を実感できるのが、戦いの後に喉を焼くような甘露――肉の塩気と、溢れんばかりの蜂蜜を啜る瞬間だったという。
「戦いの中で死ねば、星になれるという伝承があった。だが、我はそれを信じなかった。死んで光るより、生きて甘いものを食らいたい……そんな我を、部族の長は『贅沢者』と笑ったがな」
ゾアの大きな手が、手摺りの木をぎり、と鳴らす。
「だが、今ならわかる。我の求めていたのは、ただの糖分ではない……戦いの虚無を埋める、この店のような『体温』だったのだと」
黄金の瞳が、優しく私を射抜く。
彼は不器用な手つきで、テラスの隅に置かれた掃除用の箒を手に取った。
「主よ。明日の朝、この駐竜スペースは我が『お掃除』しておこう。ワイバーンの奴が散らかした鱗の一枚も残さぬ……それが、この場所を愛でる我の戦いだ」
「頼もしいですわね、ゾア。期待していますわよ」
私は努めて明るく笑い、彼の分厚い背中を頼もしげに見上げた。
かつて戦場を蹂躙した巨爪は、今、この小さなカフェを守るための柔らかな力に変わっている。
夜はまだ深い。
けれど、明日になればまた、この店には香ばしいパンの香りと、騒がしくも愛おしい日常がやってくる。
私はゾアと共に、もうしばらくの間、静かな夜の空を見上げ続けた。




