第16話 有能すぎる従者たちのお買い物と、広場の掃き掃除
カフェ・ヴァレンタインの朝は、一滴の無駄もない動きから始まる。
カチリ、と正確な音を立ててバルトが時計のネジを巻く。
同時刻、クラリスが寸分の狂いもなくリネンを整え、カウンターに磨き上げられた銀の食器を並べる。
私は厨房の入り口で、その光景を眺める。
ルイ様やイグニス、テリオンといった癖の強い「常連」たちが揃うと、どうしてもそちらに意識を奪われがちだ。
けれど、この店を文字通り「拠点」として支えているのは、間違いなくこの二人である。
(私の誇る侍女と執事ですわ。その辺の王宮の従者など、彼らの足元にも及びませんわよ!)
私は心の中で得意げに胸を張る。
しかし、そんな完璧な二人の間に、わずかな空気の揺らぎが生じた。
「……バルト。あちらの棚の奥、わずかに『埃』の気配を感じますが」
クラリスが、白緑の瞳を険しく光らせて呟く。
手には使い古されているはずなのに、なぜか抜身の刃のような威圧感を放つ雑巾。
「おや、クラリス。私としたことが……昨夜、ルイ様へ剣術の稽古をつけた疲れが出てしまったようですな」
バルトが眼鏡の縁を指で直し、群青色の瞳を細める。
彼は分厚い銀のトレイを、盾か何かのように優雅に構え直した。
「言い訳は不要です。お嬢様をこのような不衛生な環境に置くなど、侍女の誇りが許しません。直ちに『お掃除』を開始しましょう」
「承知いたしました……おや?」
バルトの動きが、唐突に止まる。
棚の影から、一匹の小さな、カサカサと動く「黒い影」が這い出してきたのだ。
森ではよく見かける、ごく普通の、けれど足の多い虫。
その瞬間、完璧な老紳士の顔から血の気が引いた。
「な……ななな、なんですか、あの、不潔で、節足動物然とした……生理的に受け付けない造形のクリーチャーは……!」
バルトの地響きのような低音が、微かに震える。
彼はワイヤーを仕込んだ指先をわななかせ、銀のトレイを顔の前まで掲げて防御姿勢を取った。
「バルト、情けない。たかが虫の一匹で取り乱すとは……どきなさい、私が消去します」
クラリスが冷徹なトーンで言い放ち、指先をパチンと鳴らす。
簡単な生活魔法――。けれど、彼女が放つそれは、もはや「風圧による粉砕」に近い。
シュパッ、という鋭い音と共に、虫がいた場所の埃ごと、影が消滅した。
「お見事……しかしクラリス、魔法に頼りすぎではありませんかな。掃除の基本は、やはり自らの手で汚れを拭い去ることにありますぞ」
「……バルト。貴方にだけは言われたくありません。虫を見てトレイの裏に隠れる執事が、どの口で基本を語るのですか」
静かな、けれど苛烈な火花が散る。
私は苦笑しつつ、二人の間に割って入った。
「二人とも、そこまでになさいな……ちょうどいいわ。今日は新しく手に入れた茶葉の『目利き』をお願いしようと思っていたのです。プロの意見を聞かせてちょうだい」
私の言葉に、二人は即座に背筋を伸ばし、深々と一礼した。
「「承知いたしました、アリシアお嬢様」」
先ほどまでの言い合いが嘘のように、完璧な主従の姿に戻る。
私は、バルトが淹れた最高の一杯と、クラリスが用意した完璧な茶菓子を前に、ルイ様と共に席についた。
「バルト、クラリス。君たちがいてくれるから、私は心置きなく王としての仕事に邁進できる。感謝しているよ」
ルイ様が穏やかに微笑む。
バルトは感極まったように眼鏡を曇らせ、クラリスは頬をわずかに染めて視線を伏せた。
「ルイ様。もったいなきお言葉。私めはただ、アリシアお嬢様とルイ様、そしてこの『居場所』をお守りしているだけにございます」
「……お嬢様。雑巾の予備が足りませんわ。午後は少し、買い出しの許可をいただけますか?」
(結局、掃除の話に戻りますのね。でも、そんな二人が大好きですわよ!)
冬の朝陽が差し込む店内。
完璧すぎる従者たちが織りなす、日常という名の贅沢な時間。
今日もカフェ・ヴァレンタインは、彼らの誇りによって、隅々まで美しく磨き上げられていた。
◇
二人の背中を見送る。
行き先は、森を抜けた先にある宿場町グレンディル。
目的はクラリス待望の「予備の雑巾」と、イグニスの快復を祝うための特別な茶葉の買い出しだ。
「……お嬢様。日没までには戻ります。ルイ様をよろしくお願いいたしますわ」
クラリスが、白緑の瞳で私を真っ直ぐに見る。
その視線には、護衛としての鋭さと、主人の安否を気遣う侍女の情愛が混ざっていた。
「分かっていますわ。バルト、クラリスを頼みますわよ」
「はっ。この老骨、お嬢様の命とあらば、露払いの一兵卒として励む所存にございます」
バルトが燕尾服の裾を翻し、優雅に一礼する。
二人は並んで歩き出し、冬の木漏れ日の中に消えていった。
◇
宿場町グレンディルの市場は、活気に満ちていた。
……はずだった。
だが、広場の中央で、下卑た笑い声が響く。
「おい、爺さん。この最高級の茶葉、全部タダで置いてけと言ってるんだ。この辺りの『掃除』をしてやってるのは、俺たち自警団(という名のゴロツキ)様なんだからよ!」
黒い鎧を不格好に纏った男たちが、馴染みの老商人を囲んでいる。
ゼノの残党か、あるいは混乱に乗じた小悪党か。
周囲の客たちは関わりを恐れ、遠巻きに眺めることしかできない。
そこへ、二つの影が落ちる。
「……バルト。聞こえましたか? 『掃除』などという言葉を、あのような不潔な者たちが口にするとは」
クラリスが、低く冷徹な声で呟く。
彼女の視線の先では、男の一人が汚れた靴で、商人が大切に並べた茶葉の袋を蹴り飛ばそうとしていた。
「ええ。耳の汚れを落としたくなるほど、不快な騒音ですな。クラリス、お嬢様から預かった時間は有限です。迅速に『片付け』を済ませましょう」
バルトが眼鏡の縁を指で直し、懐から細い銀のワイヤーを滑らせる。
「おい、なんだテメェらは! どけっ、死にたいの……」
男が叫び終わるより早く、銀の閃光が走る。
バルトが手首をわずかに返した瞬間、男たちの得物が、まるで吸い込まれるように銀のトレイに弾き飛ばされた。
「ゴミは、ゴミ箱へ……それが教育の基本にございます」
地響きのような低音が、路地裏まで響く。
逆上した男たちが一斉に襲いかかる。
だが、クラリスは一歩も引かない。
「……不浄です。立ち去りなさい」
彼女が指先を鳴らす。
簡単な生活魔法――『洗浄』。
本来は衣類の汚れを落とす程度の魔法だが、彼女が極限まで圧縮して放ったそれは、物理的な衝撃波となって男たちを広場の噴水まで吹き飛ばした。
「ぐ、あああ!? なんだ、この女……!」
「お嬢様の侍女、クラリスです……貴方たちの魂にこびり付いた垢まで落とすには、少々、魔法の出力が足りなかったようですわね」
クラリスは無表情のまま、懐から予備の雑巾(先ほど買ったばかりの最高級品)を取り出した。
それを指先に巻き付け、逃げようとしたボスの男の首根っこを、魔法の補助による驚異的な身体能力で押さえつける。
「ヒッ、助け……!」
「静かに……街の美観を損ねた罪は、その身体で贖っていただきますわ。バルト、縛りなさい」
「承知いたしました」
数分後。
広場には、銀のワイヤーで亀甲縛りにされ、見事なまでに整列させられた「ゴミの山」が出来上がっていた。
◇
夕暮れ時。
カフェ・ヴァレンタインの扉が開く。
「ただいま戻りました、アリシアお嬢様」
クラリスとバルトは、出発時と何ら変わらぬ完璧な佇まいで戻ってきた。
髪一本の乱れもなく、燕尾服に塵一つ付いていない。
「お帰りなさい……お買い物は、順調でしたかしら?」
「ええ。良い茶葉が手に入りました……道中、少々『清掃』が必要な場所がありましたが、問題ありませんわ」
クラリスが淡々と答え、籠の中から丁寧に包装された茶葉を取り出す。
バルトも、眼鏡の奥の群青色の瞳を和ませ、ルイ様のために極上のパンを取り出した。
「ルイ様、お待たせいたしました。グレンディルで一番の職人が焼いた、白パンにございます」
「ああ、ありがとう……なんだか、街の方が少し騒がしかったようだが?」
ルイ様が不思議そうに窓の外を見る。
バルトは平然とした顔で、銀のトレイを掲げた。
「おや、左様で。おそらく、季節外れの大掃除でも始まったのでございましょう」
(……絶対に何かやらかしてきましたわね、この二人。でも、持ってきた茶葉の香りは本物ですわ。今夜は、賑やかなお茶会になりそうですわね!)
私は二人の完璧すぎる仕事ぶりに苦笑しつつ、最高の一杯を淹れる準備を始めた。




