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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第2章

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第16話 有能すぎる従者たちのお買い物と、広場の掃き掃除

 カフェ・ヴァレンタインの朝は、一滴の無駄もない動きから始まる。


 カチリ、と正確な音を立ててバルトが時計のネジを巻く。

 同時刻、クラリスが寸分の狂いもなくリネンを整え、カウンターに磨き上げられた銀の食器を並べる。


 私は厨房の入り口で、その光景を眺める。

 ルイ様やイグニス、テリオンといった癖の強い「常連」たちが揃うと、どうしてもそちらに意識を奪われがちだ。

 けれど、この店を文字通り「拠点」として支えているのは、間違いなくこの二人である。


(私の誇る侍女と執事ですわ。その辺の王宮の従者など、彼らの足元にも及びませんわよ!)


 私は心の中で得意げに胸を張る。

 しかし、そんな完璧な二人の間に、わずかな空気の揺らぎが生じた。


「……バルト。あちらの棚の奥、わずかに『埃』の気配を感じますが」


 クラリスが、白緑びゃくろくの瞳を険しく光らせて呟く。

 手には使い古されているはずなのに、なぜか抜身の刃のような威圧感を放つ雑巾。


「おや、クラリス。私としたことが……昨夜、ルイ様へ剣術の稽古をつけた疲れが出てしまったようですな」


 バルトが眼鏡の縁を指で直し、群青色の瞳を細める。

 彼は分厚い銀のトレイを、盾か何かのように優雅に構え直した。


「言い訳は不要です。お嬢様をこのような不衛生な環境に置くなど、侍女の誇りが許しません。直ちに『お掃除』を開始しましょう」


「承知いたしました……おや?」


 バルトの動きが、唐突に止まる。

 棚の影から、一匹の小さな、カサカサと動く「黒い影」が這い出してきたのだ。

 森ではよく見かける、ごく普通の、けれど足の多い虫。

 その瞬間、完璧な老紳士の顔から血の気が引いた。


「な……ななな、なんですか、あの、不潔で、節足動物然とした……生理的に受け付けない造形のクリーチャーは……!」


 バルトの地響きのような低音が、微かに震える。

 彼はワイヤーを仕込んだ指先をわななかせ、銀のトレイを顔の前まで掲げて防御姿勢を取った。


「バルト、情けない。たかが虫の一匹で取り乱すとは……どきなさい、私が消去します」


 クラリスが冷徹なトーンで言い放ち、指先をパチンと鳴らす。

 簡単な生活魔法――。けれど、彼女が放つそれは、もはや「風圧による粉砕」に近い。

 シュパッ、という鋭い音と共に、虫がいた場所の埃ごと、影が消滅した。


「お見事……しかしクラリス、魔法に頼りすぎではありませんかな。掃除の基本は、やはり自らの手で汚れを拭い去ることにありますぞ」


「……バルト。貴方にだけは言われたくありません。虫を見てトレイの裏に隠れる執事が、どの口で基本を語るのですか」


 静かな、けれど苛烈な火花が散る。

 私は苦笑しつつ、二人の間に割って入った。


「二人とも、そこまでになさいな……ちょうどいいわ。今日は新しく手に入れた茶葉の『目利き』をお願いしようと思っていたのです。プロの意見を聞かせてちょうだい」


 私の言葉に、二人は即座に背筋を伸ばし、深々と一礼した。


「「承知いたしました、アリシアお嬢様」」


 先ほどまでの言い合いが嘘のように、完璧な主従の姿に戻る。

 私は、バルトが淹れた最高の一杯と、クラリスが用意した完璧な茶菓子を前に、ルイ様と共に席についた。


「バルト、クラリス。君たちがいてくれるから、私は心置きなく王としての仕事に邁進できる。感謝しているよ」


 ルイ様が穏やかに微笑む。

 バルトは感極まったように眼鏡を曇らせ、クラリスは頬をわずかに染めて視線を伏せた。


「ルイ様。もったいなきお言葉。私めはただ、アリシアお嬢様とルイ様、そしてこの『居場所』をお守りしているだけにございます」


「……お嬢様。雑巾の予備が足りませんわ。午後は少し、買い出しの許可をいただけますか?」


(結局、掃除の話に戻りますのね。でも、そんな二人が大好きですわよ!)


 冬の朝陽が差し込む店内。


 完璧すぎる従者たちが織りなす、日常という名の贅沢な時間。

 今日もカフェ・ヴァレンタインは、彼らの誇りによって、隅々まで美しく磨き上げられていた。


 ◇


 二人の背中を見送る。

 行き先は、森を抜けた先にある宿場町グレンディル。


 目的はクラリス待望の「予備の雑巾」と、イグニスの快復を祝うための特別な茶葉の買い出しだ。


「……お嬢様。日没までには戻ります。ルイ様をよろしくお願いいたしますわ」


 クラリスが、白緑の瞳で私を真っ直ぐに見る。

 その視線には、護衛としての鋭さと、主人の安否を気遣う侍女の情愛が混ざっていた。


「分かっていますわ。バルト、クラリスを頼みますわよ」


「はっ。この老骨、お嬢様のめいとあらば、露払いの一兵卒として励む所存にございます」


 バルトが燕尾服の裾を翻し、優雅に一礼する。

 二人は並んで歩き出し、冬の木漏れ日の中に消えていった。


 ◇


 宿場町グレンディルの市場は、活気に満ちていた。


 ……はずだった。


 だが、広場の中央で、下卑た笑い声が響く。


「おい、爺さん。この最高級の茶葉、全部タダで置いてけと言ってるんだ。この辺りの『掃除』をしてやってるのは、俺たち自警団(という名のゴロツキ)様なんだからよ!」


 黒い鎧を不格好に纏った男たちが、馴染みの老商人を囲んでいる。

 ゼノの残党か、あるいは混乱に乗じた小悪党か。

 周囲の客たちは関わりを恐れ、遠巻きに眺めることしかできない。


 そこへ、二つの影が落ちる。


「……バルト。聞こえましたか? 『掃除』などという言葉を、あのような不潔な者たちが口にするとは」


 クラリスが、低く冷徹な声で呟く。

 彼女の視線の先では、男の一人が汚れた靴で、商人が大切に並べた茶葉の袋を蹴り飛ばそうとしていた。


「ええ。耳の汚れを落としたくなるほど、不快な騒音ですな。クラリス、お嬢様から預かった時間は有限です。迅速に『片付け』を済ませましょう」


 バルトが眼鏡の縁を指で直し、懐から細い銀のワイヤーを滑らせる。


「おい、なんだテメェらは! どけっ、死にたいの……」


 男が叫び終わるより早く、銀の閃光が走る。

 バルトが手首をわずかに返した瞬間、男たちの得物が、まるで吸い込まれるように銀のトレイに弾き飛ばされた。


「ゴミは、ゴミ箱へ……それが教育の基本にございます」


 地響きのような低音が、路地裏まで響く。

 逆上した男たちが一斉に襲いかかる。

 だが、クラリスは一歩も引かない。


「……不浄です。立ち去りなさい」


 彼女が指先を鳴らす。

 簡単な生活魔法――『洗浄クリーン』。

 本来は衣類の汚れを落とす程度の魔法だが、彼女が極限まで圧縮して放ったそれは、物理的な衝撃波となって男たちを広場の噴水まで吹き飛ばした。


「ぐ、あああ!? なんだ、この女……!」


「お嬢様の侍女、クラリスです……貴方たちの魂にこびり付いた垢まで落とすには、少々、魔法の出力が足りなかったようですわね」


 クラリスは無表情のまま、懐から予備の雑巾(先ほど買ったばかりの最高級品)を取り出した。

 それを指先に巻き付け、逃げようとしたボスの男の首根っこを、魔法の補助による驚異的な身体能力で押さえつける。


「ヒッ、助け……!」


「静かに……街の美観を損ねた罪は、その身体であがなっていただきますわ。バルト、縛りなさい」


「承知いたしました」


 数分後。

 広場には、銀のワイヤーで亀甲縛りにされ、見事なまでに整列させられた「ゴミの山ゴロツキたち」が出来上がっていた。


 ◇


 夕暮れ時。

 カフェ・ヴァレンタインの扉が開く。


「ただいま戻りました、アリシアお嬢様」


 クラリスとバルトは、出発時と何ら変わらぬ完璧な佇まいで戻ってきた。

 髪一本の乱れもなく、燕尾服に塵一つ付いていない。


「お帰りなさい……お買い物は、順調でしたかしら?」


「ええ。良い茶葉が手に入りました……道中、少々『清掃』が必要な場所がありましたが、問題ありませんわ」


 クラリスが淡々と答え、籠の中から丁寧に包装された茶葉を取り出す。

 バルトも、眼鏡の奥の群青色の瞳を和ませ、ルイ様のために極上のパンを取り出した。


「ルイ様、お待たせいたしました。グレンディルで一番の職人が焼いた、白パンにございます」


「ああ、ありがとう……なんだか、街の方が少し騒がしかったようだが?」


 ルイ様が不思議そうに窓の外を見る。

 バルトは平然とした顔で、銀のトレイを掲げた。


「おや、左様で。おそらく、季節外れの大掃除でも始まったのでございましょう」


(……絶対に何かやらかしてきましたわね、この二人。でも、持ってきた茶葉の香りは本物ですわ。今夜は、賑やかなお茶会になりそうですわね!)


 私は二人の完璧すぎる仕事ぶりに苦笑しつつ、最高の一杯を淹れる準備を始めた。

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