第14話 鉄錆の戦場と、生きた匂いのポタージュ
冬の朝の空気は、磨き上げられた硝子のように鋭く、透明だ。
雪を被った針葉樹が時折その重みに耐えかね、どさりと白い塊を地面に落とす。
舞い上がる細かな雪の粒が、斜めに差し込む陽光を反射して、静謐な森をきらきらと彩っていた。
カフェ・ヴァレンタインの煙突からは、朝食の準備を知らせる薪の煙が、冬空へ向かって真っ直ぐに昇っている。
私は、仮板の補修が終わったばかりの裏口から外へ出た。
手には小さな籠とシャベル。
冬の間に凍てついた土の状態を確認するため、庭の一角にある畑スペースへと足を向ける。
「あら……雪の下でも、逞しいものですわね」
厳しい寒さの中でも、生命は休まない。
冷たい土の間から、幾つかの雑草がしぶとく顔を出していた。
私はスカートの裾を汚さないよう器用にしゃがみ込み、指先でその根を丁寧に抜き取っていく。
手袋越しに伝わる土の冷たさが、料理人としての意識を心地よく覚醒させた。
ふと、シャベルを動かす手が止まる。
空を見上げると、流れる雲が冬の冷たさを物語っていた。
(……そういえば、イグニスを最近見ていませんわね)
アッシュグレーの長い髪を一つに編み、顔の半分を深い帽子で隠した、あの無愛想な男。
「死」に近い拒絶の空気を纏い、殺しや取り立てを平然とこなす裏社会の住人。
そんな彼が、この畑だけはこよなく愛していた。
血に汚れた手で不器用そうに土を弄り、森で一番「生きた」匂いがすると言っては、私の料理を無言で平らげる。
彼は前々から、突然入った「仕事」に出かけては、ふらりと帰ってくることが多かった。
けれど、今回の不在は少しばかり長すぎる。
(何か、苦戦しているのでしょうか……あのイグニスが、そう簡単に遅れを取るとは思えませんけれど)
一抹の不安を振り払うように、再び雑草に手を伸ばした。
しかしその時、森の結界を揺らすような、けたたましい鳥の鳴き声が響き渡る。
見上げれば、一羽の伝令鳥が必死の羽ばたきでカフェの屋根へと滑り込んできた。
その足には、アストライア王家の紋章が刻まれた緊急の伝令筒が結ばれている。
「アリシア! 大変だ!」
店内から飛び出してきたのは、ルイ様だった。
ルイ様のエメラルドの瞳は、これまでにないほど鋭く、焦燥に揺れている。
「ルイ様、どうしたのですか? そんなに顔色を変えて」
「イグニスからだ……西の国境付近で、ついに『奴』が現れた」
ルイ様の言葉に、私は息を呑む。
「奴」――それは、ルイ様の過去に深く関わり、その玉座と命を執拗に狙い続けてきた因縁の敵。
イグニスはその追跡の最中、敵の本隊と接触した。
現在は孤立無援の状態で、たった一人で軍勢を食い止める防衛戦を強いられているという。
「救援に向かわねばならない。だが、通常の馬では間に合わない距離だ。イグニス一人の力では、この数の軍勢は凌げない……!」
ルイ様の拳が、白くなるほど強く握り締められる。
その時、私たちの背後から、銀の笛を握りしめた少年が歩み寄ってきた。
「……僕なら、間に合わせられるかもしれない」
ジュリアンだった。
生成りのエプロンを風に揺らし、彼は迷いのない瞳で私たちを見つめる。
「昨日、ゾアさんたちには怒られちゃったけど……あの子なら、風を切って飛べるから。皆の大切な仲間を、助けに行こう」
ジュリアンが笛を唇に当て、ひときわ高く、澄んだ旋律を奏でた。
直後、森の木々を薙ぎ倒さんばかりの暴風が吹き荒れ、巨大な影が冬の太陽を遮る。
――ワイバーン。
昨日、庭を騒がせた古の竜が、主の呼びかけに応えて再びその巨体を地上へと降ろした。
「ジュリアン、貴方……」
「アリシアさん、僕も役に立ちたい。僕のことを守ってくれた皆のために」
私はルイ様と視線を交わした。
ルイ様は短く頷き、私の手を強く引く。
「行こう、アリシア。君を危険な場所へ連れて行くのは本意ではないが……君の力が必要になる気がするんだ」
「ええ、もちろんですわ、ルイ様。大切な仲間の危機に、フライパンを振らない理由はありませんもの」
( 空飛ぶトカゲさんで戦場へ急行だなんて、私の人生、ますますドラマチックになってきましたわね! イグニス、待っていなさいな。空腹で死を待つなんて無粋なこと、このアリシアが許しませんわよ!)
私たちは、ジュリアンの手助けでワイバーンの強靭な背へと飛び乗った。
巨翼が一度羽ばたけば、雪の積もったカフェの屋根が、瞬く間にミニチュアのように小さくなっていく。
雲を突き抜け、銀世界の遥か先へ。
カフェ・ヴァレンタインの一行は、凍てつく風を切り裂きながら、因縁の決戦場へと向かって加速した。
◇
眼下に広がるのは、白銀の世界を無惨に塗り潰した、鉄と血の濁った色だった。
西の国境付近、切り立った岩場に囲まれた盆地は、今や巨大な屠殺場と化している。
幾重にも重なる兵士の亡骸。
立ち昇る黒煙。
そこには、森のカフェに流れる穏やかな時間など、微塵も存在しなかった。
ワイバーンの背を打つ風が、鼻を突く死の臭いを運んでくる。
私は眉をひそめ、けれどその視線は、戦場の中心に立つ「一点」を捉えていた。
「いたわ……! 相変わらず、可愛げのない戦い方ですこと」
そこにいたのは、死神そのものだった。
アッシュグレーの長い髪を振り乱し、黒いロングコートを血に濡らしたイグニスが、押し寄せる軍勢の真っ只中で踊るように刃を振るっている。
彼の周囲には、もはや「物」と化した敵兵が積み上がり、鈍色の瞳だけが、感情を削ぎ落とした氷のように冷たく輝いていた。
「ジュリアン、あそこへ降ろしてちょうだい。最優先よ!」
「分かった……! いけ、相棒!」
ジュリアンの合図とともに、ワイバーンが急降下する。
凄まじい風圧が地上の煤を吹き飛ばし、敵の包囲網を強引に引き裂いた。
着地と同時に、ルイ様が真っ先に飛び降りる。
その手には既に、アストライア王家に伝わる魔力を帯びた剣が握られていた。
「イグニス、無事か!」
ルイ様の鋭い声が戦場に響く。
背後から迫る敵兵を一閃し、イグニスがゆっくりとこちらを振り返った。その顔の半分は返り血で汚れ、肩からは深い傷が血を流している。
「……遅いぞ。ルイ。それに、アリシア」
イグニスは、研ぎ澄まされたナイフのような声で毒づいた。
息は絶え絶え、膝も微かに震えている。
それでも、その指先は獲物を逃さない殺し屋の鋭さを保ったままだ。
「仕事の邪魔だと言いたいところだが……あいにく、胃袋が空で、これ以上の殺しは非効率だと思っていたところだ」
私はワイバーンから優雅に飛び降りると、立ち込める硝煙を追い払うように、手に持っていた特製のバスケットを掲げた。
「そのボロボロの姿で何を仰いますの。あの畑の管理人の管理も、店主である私の仕事ですわ!」
(まったく。死の匂いばかりさせて、私の大事な『生きた畑』の肥料にするには早すぎますわよ!)
私はイグニスの目の前に歩み寄ると、有無を言わせぬ勢いでバスケットを開いた。
中から溢れ出したのは、戦場の鉄臭さを一瞬で塗り替える、濃厚な肉汁とハーブの香り――特製ベーコンと、たっぷり野菜の「熱々ポタージュ」を注いだ魔法瓶だ。
「さあ、飲みなさい。死神の真似事をするのは、このスープで胃を温めてからにすることね……残したら、修理代と一緒に請求させていただきますわよ」
イグニスは一瞬、呆気に取られたように私を見た。
それから、ふっと口角を歪め、鈍色の瞳に微かな「生気」を宿す。
「……相変わらず、お前の料理は押し付けがましいな」
彼は血に汚れた手で椀を受け取ると、敵の怒号が響く中、それを一気に煽った。
熱いスープが喉を通るたび、彼の纏う「死」の空気が、少しずつ熱を帯びていく。
ルイ様が彼の背中を守るように立ち、ジュリアンがワイバーンの上で笛を構える。
「さて、ルイ様。お食事の邪魔をする無粋な輩は、一掃してしまいましょう。デザートの時間は、平和な森で迎えたいですもの」
「ああ……行くぞ、イグニス。アリシアの料理に泥を塗る奴らに、王の怒りを教えてやる」
ルイ様の宣言とともに、戦場の空気が一変した。
カフェ・ヴァレンタインの「最強の常連客」と、その店主。
地獄の淵で、最悪にして最高の反撃が始まった。




