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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第2章

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第13話 銀世界の甘い魔法と、風が運んだ春の足音

 深い藍色の夜が明け、冬の森に眩いばかりの陽光が差し込んできた。


 昨夜の雪は止み、木々の枝に積もった粉雪が朝日に照らされて、まるで無数の宝石を撒き散らしたようにキラキラと瞬いている。

 森の静寂を破るのは、どこか遠くで鳴く冬鳥の声と、仮板で補強された窓から漏れる暖炉の薪が爆ぜる音。


 カフェの厨房には、清々しい冬の空気と、挽きたてのコーヒー豆の香ばしい匂いが満ちていた。


(……昨夜のことは、夢ではありませんわよね?)


 私は手鍋に火をかけながら、ふとした瞬間に頬が熱くなるのを感じた。

 耳元に残る、ルイ様のあの甘い吐息。引き寄せられた肩の温度。

 完璧な淑女を目指す者として、朝からこのような弛んだ顔を見せるわけにはいきませんわ――そう自分に言い聞かせ、私は普段以上に背筋をピンと伸ばして野菜を切る。


 そこへ、足音が一つ。


「おはよう、アリシア……今朝は一段と、コーヒーの香りがいいな」


 現れたのは、ルイ様だった。

 朝日を背負って立つその姿は、夕焼けを溶かし込んだような鮮やかな髪が黄金色に透け、エメラルドの瞳が優しく細められている。


「……っ! お、おはようございます、ルイ様。よく眠れましたかしら?」


「ああ。おかげさまで、かつてないほど心地よい目覚めだよ」


 ルイ様がふいっと視線を合わせると、私は咄嗟に視線を逸らし、必死にスープの灰汁取りに集中するふりをした。

 いつもの冷静な私なら「それは重畳ちょうじょうですわ」と優雅に返せるはずなのに、今は心臓の鼓動がうるさくて、喉の奥が引き攣るようだ。


「……おい。お前たち、朝から脈動が五月蝿うるさいぞ。何か妙な『熱』を帯びている」


 カウンターの影から、カメリアの瞳をしたダークエルフ――テリオンが幽霊のように姿を現した。

 彼は鋭い嗅覚で何かを察知したのか、怪訝そうな表情で私とルイ様を交互に見つめ、眉間に深い皺を寄せた。


「テ、テリオン。何を仰いますの、それは火の熱気ですわよ! さあ、朝食の準備をしますわ。バルトやゾアも呼んでくださいな!」


 私が少し上気した声でまくしたてると、テリオンは「フン……食欲を削ぐようなノイズだ」と毒づきながらも、椅子に腰を下ろした。


 そこへ、もう一人の足音が聞こえた。

 おずおずと、けれど確かな足取りでやってきたのは、生成りのエプロンをきゅっと結んだジュリアンだった。


「……おはようございます、アリシアさん。ルイさん、テリオンさんも」


「おはよう、ジュリアン。よく眠れたかしら?」


「はい。あんなに暖かいベッドで寝たの、初めてで……あの、僕、何をお手伝いすればいいですか?」


 ジュリアンの瞳には昨夜までの刺々しさはなく、新しい場所に対する微かな期待が宿っている。

 その様子に私は心から安堵し、彼にカトラリーの用意を任せた。


(よろしいですわ。こうして新しい「日常」が積み重なっていく。経営者として、これほど嬉しいことはありませんわね)


 穏やかな朝食の時間が始まろうとした、その時だった。

 コン、コン、と控えめながらも芯のあるノックの音が店内に響いた。


「あら、こんな朝早くにどなたかしら」


 バルトが扉を開けると、そこには冬の森には少しばかり不釣り合いな、鮮やかで活気のある影が立っていた。


「ご無沙汰しております! アリシアさん、ルイさん、お元気でしたか?」


 そこにいたのは、燃えるような赤銅色の髪を低いツインテールにまとめた、菓子職人見習いの少女――リルムだった。

 背中には、相変わらず自分の体と同じくらい大きな革の道具鞄を背負い、若草色の瞳を輝かせている。


「リルム! まあ、こんなところまでお一人で?」


「ええ。近くまで材料の買い出しに来ていたんですけど、どうしてもアリシアさんに見ていただきたいものがあって!」


 リルムは道具鞄をドサリと置くと、中から丁寧に布で包まれた小さな木箱を取り出した。


「実は、滅多に市場に出回らない希少な『雪結晶の砂糖』を手に入れたんです! アリシアさん、またあの時みたいに、これを使ってお菓子を作るところを見せていただけませんか? 今の私の全力も、またお二人に受け取ってほしいんです!」


 職人らしい情熱を瞳に宿し、リルムが身を乗り出す。

 昨夜の甘い余韻も、ジュリアンの新生活の緊張も、彼女の放つ明るいエネルギーに一気に塗り替えられていく。


(あら。希少な砂糖に、菓子職人の熱意……これはまた、私のシェフ魂を刺激してくださいますわね!)


 私は腰に手を当て、不敵に、そして完璧な店主の微笑みを浮かべた。


「ええ、もちろんですわ。その挑戦、喜んでお受けいたしますわよ、リルム!」


 ◇


 厨房の空気は、一瞬にしてプロの現場へと様変わりした。


 リルムが大切そうに開いた木箱の中には、まるで本物の雪の結晶をそのまま閉じ込めたような、透明度の高い大粒の砂糖が輝いている。


「……これが『雪結晶の砂糖』。極北の冷気が数十年かけて結晶化したという、伝説の甘味料ですわね」


 私が指先で一粒触れると、指の熱で溶けるどころか、ピリリとした微かな冷気を感じた。

 口にすると、驚くほど純粋な甘みが舌の上で弾けた。


「はい! 普通の砂糖と違って、この砂糖は『香り』を閉じ込める力が凄まじいんです。アリシアさん、私はこれを使って、この冬の森の記憶を閉じ込めたお菓子を作りたいんです!」


 リルムが道具鞄から取り出したのは、自慢の菓子切り包丁と、年季の入った銅製のボウル。

 彼女の瞳には、かつて砂糖細工を作ってくれた時以上の、職人としての「覚悟」が宿っていた。


(よろしいですわ。若き才能が全力でぶつかってくるのなら、店主として、そして一人の料理人として、最高級のステージを用意して差し上げますわよ!)


「ジュリアン、貴方はそこのミルクを弱火にかけて。決して沸騰させないように……バルト、テリオン。邪魔にならない場所で、この世紀の共演を見届けてくださいな」


 私は完璧な指揮で厨房を差配した。

 今回のテーマは、雪結晶の砂糖を活かした『冬の森の宝石ムース・ド・ネージュ』。


 リルムは、雪結晶の砂糖を驚くほど繊細な手つきで砕き、泡立てたクリームに合わせていく。

 彼女の動きに迷いはない。

 かつての「技術しかない」と言われた少女の姿はどこにもなく、一振り、一混ぜに「誰かを喜ばせたい」という熱い想いが乗っているのが伝わってきた。


「アリシアさん、見ていてください。これが、今の私の全力です……!」


 リルムが魔法のように砂糖を操ると、ムースの上に薄い氷のような飴細工が形作られていく。

 そこへ私が用意した、冬のベリーの真っ赤なソースを忍ばせる。

 白銀のムースと、情熱的な赤。

 そして仕上げに、雪結晶の砂糖を粉雪のように振りかける。


「……できました。アリシアさん、ルイさん、召し上がってください!」


 テーブルに並べられたのは、まるで冬の森の一場面を切り取ったような、儚くも美しい一皿。


 ルイ様が優雅に銀のスプーンを動かし、一口。

 テリオンが怪訝そうに、けれど興味を隠せずに一口。

 そして、新入りのジュリアンも恐る恐る口に運ぶ。


「……っ! これは……口の中で、雪が溶けて春が来るような、そんな錯覚を覚えるな。リルム、君の腕はまた一段と上がったようだ」


 ルイ様の賞賛に、リルムの若草色の瞳が潤んだ。


「……冷たいのに、喉を通るときは熱い。不思議な感覚だ。ノイズのない、純粋な甘みだな」


 テリオンも、瞳を細めて皿を見つめている。完食までの速さが、彼の評価を何より物語っていた。


「……僕、こんなに綺麗なもの、食べたことありません……壊すんじゃなくて、作る力って、こんなにすごいんだ」


 ジュリアンがぽつりと呟いた言葉に、リルムは今日一番の笑顔で頷いた。


「ええ、そうですわ、ジュリアン。リルム、貴方の全力、確かに受け取りましたわ。この『雪結晶の砂糖』、当店の冬の看板メニューとして正式に採用させていただきますわよ!」


(よしっ! 新メニュー確保! そしてリルムの才能の独占交渉権も継続ですわね。経営者として、これほど美味しい話はありませんわ!!)


 心の中でドレスの裾を翻してガッツポーズを決めつつ、私は誇らしげなリルムのために、最高の一杯の紅茶を注ぎ足した。


 ◇


 至福の試食会を終え、リルムは満足げに道具鞄を背負い直す。

その表情は、ここへ来た時よりもずっと晴れやかで、自信に満ち溢れていた。


「ありがとうございました、アリシアさん! 雪結晶の砂糖が、あんなにドラマチックな一皿になるなんて……私、もっともっと修行して、また新しい味を見つけたら飛んできますわ!」


「ええ、楽しみにしておりますわよ、リルム……あ、これ、道中のおやつに。昨夜焼いたクッキーの余りですけれど」


 私が手渡した小さな包みを受け取り、リルムは満面の笑みで頷く。

 そして、厨房の隅でまだ少し緊張していたジュリアンへ向き直った。


「ジュリアン君、貴方も頑張ってね! アリシアさんの下で働くのは大変だと思うけど――そこにあるのは、世界で一番温かい魔法なんだから!」


「あ……はい! 頑張ります、リルムさん!」


 同年代の少女からのエールに、ジュリアンは照れくさそうに、けれどしっかりと答える。


 バルトにエスコートされ、リルムは冬の森へと帰っていった。

 彼女の赤銅色の髪が雪景色の中に消えていくまで、私たちはその背中を見送った。


 静寂が戻った店内。

 仮板の隙間から差し込む光が、まだ修復途中の床や壁を照らしている。


「……さて。感傷に浸る時間は終わりですわよ」


 私はパン、と景気よく手を叩く。


「新メニュー『冬の森の宝石ムース・ド・ネージュ』の正式採用が決まりましたわ! ジュリアン、貴方は洗い物を。テリオンとゾアは資材の運び出しをお願いします……ルイ様?」


 呼びかけると、窓際に立っていたルイ様が、エメラルドの瞳を優しく細めてこちらを振り返る。


「ああ。私も手伝おう……昨夜の続きは、この店が元通りになってからのお楽しみ、かな?」


「も、もう! 何をおっしゃいますの!」


 耳元で囁かれたような錯覚に、私は慌てて厨房へと逃げ込む。

 後ろでテリオンが「また耳障りな心音ノイズだ」と吐き捨てる声が聞こえた気がした。


(いいですわ、新メニューも手に入れたし、優秀な(?)魔物使いの店員も増えた。これなら修復費用なんて数日で元が取れますわよ!)


 心の中で計算高い笑みを浮かべつつ、私は新しいエプロンを身に着けたジュリアンの背中を眺める。

 窓は壊れ、壁は煤け、まだ完全ではないカフェ・ヴァレンタイン。

 けれど、昨夜増えた「新しい一席」には、今日、確かに温かな光が落ちていた。


 森はまだ深い冬の中。

 けれど、この店に漂う甘い砂糖の香りは、どこか遠い春の足音を予感させていたのだった。

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