第13話 銀世界の甘い魔法と、風が運んだ春の足音
深い藍色の夜が明け、冬の森に眩いばかりの陽光が差し込んできた。
昨夜の雪は止み、木々の枝に積もった粉雪が朝日に照らされて、まるで無数の宝石を撒き散らしたようにキラキラと瞬いている。
森の静寂を破るのは、どこか遠くで鳴く冬鳥の声と、仮板で補強された窓から漏れる暖炉の薪が爆ぜる音。
カフェの厨房には、清々しい冬の空気と、挽きたてのコーヒー豆の香ばしい匂いが満ちていた。
(……昨夜のことは、夢ではありませんわよね?)
私は手鍋に火をかけながら、ふとした瞬間に頬が熱くなるのを感じた。
耳元に残る、ルイ様のあの甘い吐息。引き寄せられた肩の温度。
完璧な淑女を目指す者として、朝からこのような弛んだ顔を見せるわけにはいきませんわ――そう自分に言い聞かせ、私は普段以上に背筋をピンと伸ばして野菜を切る。
そこへ、足音が一つ。
「おはよう、アリシア……今朝は一段と、コーヒーの香りがいいな」
現れたのは、ルイ様だった。
朝日を背負って立つその姿は、夕焼けを溶かし込んだような鮮やかな髪が黄金色に透け、エメラルドの瞳が優しく細められている。
「……っ! お、おはようございます、ルイ様。よく眠れましたかしら?」
「ああ。おかげさまで、かつてないほど心地よい目覚めだよ」
ルイ様がふいっと視線を合わせると、私は咄嗟に視線を逸らし、必死にスープの灰汁取りに集中するふりをした。
いつもの冷静な私なら「それは重畳ですわ」と優雅に返せるはずなのに、今は心臓の鼓動がうるさくて、喉の奥が引き攣るようだ。
「……おい。お前たち、朝から脈動が五月蝿いぞ。何か妙な『熱』を帯びている」
カウンターの影から、カメリアの瞳をしたダークエルフ――テリオンが幽霊のように姿を現した。
彼は鋭い嗅覚で何かを察知したのか、怪訝そうな表情で私とルイ様を交互に見つめ、眉間に深い皺を寄せた。
「テ、テリオン。何を仰いますの、それは火の熱気ですわよ! さあ、朝食の準備をしますわ。バルトやゾアも呼んでくださいな!」
私が少し上気した声でまくしたてると、テリオンは「フン……食欲を削ぐようなノイズだ」と毒づきながらも、椅子に腰を下ろした。
そこへ、もう一人の足音が聞こえた。
おずおずと、けれど確かな足取りでやってきたのは、生成りのエプロンをきゅっと結んだジュリアンだった。
「……おはようございます、アリシアさん。ルイさん、テリオンさんも」
「おはよう、ジュリアン。よく眠れたかしら?」
「はい。あんなに暖かいベッドで寝たの、初めてで……あの、僕、何をお手伝いすればいいですか?」
ジュリアンの瞳には昨夜までの刺々しさはなく、新しい場所に対する微かな期待が宿っている。
その様子に私は心から安堵し、彼にカトラリーの用意を任せた。
(よろしいですわ。こうして新しい「日常」が積み重なっていく。経営者として、これほど嬉しいことはありませんわね)
穏やかな朝食の時間が始まろうとした、その時だった。
コン、コン、と控えめながらも芯のあるノックの音が店内に響いた。
「あら、こんな朝早くにどなたかしら」
バルトが扉を開けると、そこには冬の森には少しばかり不釣り合いな、鮮やかで活気のある影が立っていた。
「ご無沙汰しております! アリシアさん、ルイさん、お元気でしたか?」
そこにいたのは、燃えるような赤銅色の髪を低いツインテールにまとめた、菓子職人見習いの少女――リルムだった。
背中には、相変わらず自分の体と同じくらい大きな革の道具鞄を背負い、若草色の瞳を輝かせている。
「リルム! まあ、こんなところまでお一人で?」
「ええ。近くまで材料の買い出しに来ていたんですけど、どうしてもアリシアさんに見ていただきたいものがあって!」
リルムは道具鞄をドサリと置くと、中から丁寧に布で包まれた小さな木箱を取り出した。
「実は、滅多に市場に出回らない希少な『雪結晶の砂糖』を手に入れたんです! アリシアさん、またあの時みたいに、これを使ってお菓子を作るところを見せていただけませんか? 今の私の全力も、またお二人に受け取ってほしいんです!」
職人らしい情熱を瞳に宿し、リルムが身を乗り出す。
昨夜の甘い余韻も、ジュリアンの新生活の緊張も、彼女の放つ明るいエネルギーに一気に塗り替えられていく。
(あら。希少な砂糖に、菓子職人の熱意……これはまた、私のシェフ魂を刺激してくださいますわね!)
私は腰に手を当て、不敵に、そして完璧な店主の微笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんですわ。その挑戦、喜んでお受けいたしますわよ、リルム!」
◇
厨房の空気は、一瞬にしてプロの現場へと様変わりした。
リルムが大切そうに開いた木箱の中には、まるで本物の雪の結晶をそのまま閉じ込めたような、透明度の高い大粒の砂糖が輝いている。
「……これが『雪結晶の砂糖』。極北の冷気が数十年かけて結晶化したという、伝説の甘味料ですわね」
私が指先で一粒触れると、指の熱で溶けるどころか、ピリリとした微かな冷気を感じた。
口にすると、驚くほど純粋な甘みが舌の上で弾けた。
「はい! 普通の砂糖と違って、この砂糖は『香り』を閉じ込める力が凄まじいんです。アリシアさん、私はこれを使って、この冬の森の記憶を閉じ込めたお菓子を作りたいんです!」
リルムが道具鞄から取り出したのは、自慢の菓子切り包丁と、年季の入った銅製のボウル。
彼女の瞳には、かつて砂糖細工を作ってくれた時以上の、職人としての「覚悟」が宿っていた。
(よろしいですわ。若き才能が全力でぶつかってくるのなら、店主として、そして一人の料理人として、最高級のステージを用意して差し上げますわよ!)
「ジュリアン、貴方はそこのミルクを弱火にかけて。決して沸騰させないように……バルト、テリオン。邪魔にならない場所で、この世紀の共演を見届けてくださいな」
私は完璧な指揮で厨房を差配した。
今回のテーマは、雪結晶の砂糖を活かした『冬の森の宝石ムース・ド・ネージュ』。
リルムは、雪結晶の砂糖を驚くほど繊細な手つきで砕き、泡立てたクリームに合わせていく。
彼女の動きに迷いはない。
かつての「技術しかない」と言われた少女の姿はどこにもなく、一振り、一混ぜに「誰かを喜ばせたい」という熱い想いが乗っているのが伝わってきた。
「アリシアさん、見ていてください。これが、今の私の全力です……!」
リルムが魔法のように砂糖を操ると、ムースの上に薄い氷のような飴細工が形作られていく。
そこへ私が用意した、冬のベリーの真っ赤なソースを忍ばせる。
白銀のムースと、情熱的な赤。
そして仕上げに、雪結晶の砂糖を粉雪のように振りかける。
「……できました。アリシアさん、ルイさん、召し上がってください!」
テーブルに並べられたのは、まるで冬の森の一場面を切り取ったような、儚くも美しい一皿。
ルイ様が優雅に銀のスプーンを動かし、一口。
テリオンが怪訝そうに、けれど興味を隠せずに一口。
そして、新入りのジュリアンも恐る恐る口に運ぶ。
「……っ! これは……口の中で、雪が溶けて春が来るような、そんな錯覚を覚えるな。リルム、君の腕はまた一段と上がったようだ」
ルイ様の賞賛に、リルムの若草色の瞳が潤んだ。
「……冷たいのに、喉を通るときは熱い。不思議な感覚だ。ノイズのない、純粋な甘みだな」
テリオンも、瞳を細めて皿を見つめている。完食までの速さが、彼の評価を何より物語っていた。
「……僕、こんなに綺麗なもの、食べたことありません……壊すんじゃなくて、作る力って、こんなにすごいんだ」
ジュリアンがぽつりと呟いた言葉に、リルムは今日一番の笑顔で頷いた。
「ええ、そうですわ、ジュリアン。リルム、貴方の全力、確かに受け取りましたわ。この『雪結晶の砂糖』、当店の冬の看板メニューとして正式に採用させていただきますわよ!」
(よしっ! 新メニュー確保! そしてリルムの才能の独占交渉権も継続ですわね。経営者として、これほど美味しい話はありませんわ!!)
心の中でドレスの裾を翻してガッツポーズを決めつつ、私は誇らしげなリルムのために、最高の一杯の紅茶を注ぎ足した。
◇
至福の試食会を終え、リルムは満足げに道具鞄を背負い直す。
その表情は、ここへ来た時よりもずっと晴れやかで、自信に満ち溢れていた。
「ありがとうございました、アリシアさん! 雪結晶の砂糖が、あんなにドラマチックな一皿になるなんて……私、もっともっと修行して、また新しい味を見つけたら飛んできますわ!」
「ええ、楽しみにしておりますわよ、リルム……あ、これ、道中のおやつに。昨夜焼いたクッキーの余りですけれど」
私が手渡した小さな包みを受け取り、リルムは満面の笑みで頷く。
そして、厨房の隅でまだ少し緊張していたジュリアンへ向き直った。
「ジュリアン君、貴方も頑張ってね! アリシアさんの下で働くのは大変だと思うけど――そこにあるのは、世界で一番温かい魔法なんだから!」
「あ……はい! 頑張ります、リルムさん!」
同年代の少女からのエールに、ジュリアンは照れくさそうに、けれどしっかりと答える。
バルトにエスコートされ、リルムは冬の森へと帰っていった。
彼女の赤銅色の髪が雪景色の中に消えていくまで、私たちはその背中を見送った。
静寂が戻った店内。
仮板の隙間から差し込む光が、まだ修復途中の床や壁を照らしている。
「……さて。感傷に浸る時間は終わりですわよ」
私はパン、と景気よく手を叩く。
「新メニュー『冬の森の宝石』の正式採用が決まりましたわ! ジュリアン、貴方は洗い物を。テリオンとゾアは資材の運び出しをお願いします……ルイ様?」
呼びかけると、窓際に立っていたルイ様が、エメラルドの瞳を優しく細めてこちらを振り返る。
「ああ。私も手伝おう……昨夜の続きは、この店が元通りになってからのお楽しみ、かな?」
「も、もう! 何をおっしゃいますの!」
耳元で囁かれたような錯覚に、私は慌てて厨房へと逃げ込む。
後ろでテリオンが「また耳障りな心音だ」と吐き捨てる声が聞こえた気がした。
(いいですわ、新メニューも手に入れたし、優秀な(?)魔物使いの店員も増えた。これなら修復費用なんて数日で元が取れますわよ!)
心の中で計算高い笑みを浮かべつつ、私は新しいエプロンを身に着けたジュリアンの背中を眺める。
窓は壊れ、壁は煤け、まだ完全ではないカフェ・ヴァレンタイン。
けれど、昨夜増えた「新しい一席」には、今日、確かに温かな光が落ちていた。
森はまだ深い冬の中。
けれど、この店に漂う甘い砂糖の香りは、どこか遠い春の足音を予感させていたのだった。




