第12話 魔物使いの初仕事、空を舞う資材搬入
冬の朝の森は、静謐という名の宝石のようだった。
吸い込む空気は肺の奥まで凍てつくほどに澄み渡り、枝に積もった雪は朝陽を浴びてダイヤモンドの粉のように瞬いている。
昨夜の嵐のような乱戦が嘘のように、世界はただ白く、美しい。
――けれど、カフェの厨房は朝から戦場のごとき熱気に包まれていた。
(さあ、まずはこの冷え切った胃袋たちに、朝の火を灯して差し上げますわよ!)
私は完璧な手際で、厚手の鉄鍋に無塩バターを落とした。
ジワリと溶け出したバターの香ばしい匂いが厨房に広がる中、飴色になるまで炒めた玉ねぎと、昨夜からじっくり煮込んでおいた鶏のブイヨンを注ぎ入れる。
そこへ、滋養たっぷりの黄金蓮の根と、塩漬けにした猪肉の端切れを投入。
コトコトと煮えるスープの音は、まるで新しい一日の鼓動のようだ。
仕上げに、表面をカリカリに焼き上げた厚切りのパンを添え、たっぷりの蜂蜜を垂らしたホットミルクを用意する。
「お待たせいたしましたわ……ジュリアン、冷めないうちに召し上がれ」
カウンターの隅で、借りてきたシャツに埋もれるように座っていたジュリアンの前に、湯気の立つ器を置いた。
彼は昨夜とは打って変わった「店主」の顔をした私を、おずおずと見上げた。
「……僕、本当に、食べていいんですか?」
「もちろんですわ。これからしっかり働いてもらうのですもの。燃料切れで倒れられては、店主として管理能力を疑われてしまいますわ」
私がにっこりと(心の中では、しっかり元を取ってもらいますわよと計算しながら)微笑むと、彼は震える手でスプーンを取った。
一口。スープを喉に流し込んだ瞬間、ジュリアンのトパーズの瞳が大きく見開かれた。
じっくり煮込まれた根菜の甘みと、猪肉の濃厚な旨味が、彼の細い体の隅々にまで染み渡っていくのが分かる。
「……あったかい。力が、奥の方から湧いてくるみたいです」
「朝食は一日の活力。それを疎かにする者に、良い仕事はできませんわ」
ジュリアンは夢中で皿を空にした。
最後の一滴までパンで拭って食べるその姿に、ようやく少年らしい血色が戻ってくる。
「……ごちそうさまでした、アリシアさん。とっても、美味しかったです」
ジュリアンが深々と頭を下げた。
空っぽになった器と、ほんのりと赤みが差した少年の頬。
それを見届けた瞬間、私の胸の内にあった「店主としての使命感」が、温かな満足感へと変わる。
(ふふん、やはり「食事」こそが最高の癒やしですわ。これでもう、この子は私の味なしでは生きていけませんわね。胃袋の完全掌握、完了ですわ!)
淑女の微笑みを浮かべつつ、心の中で勝利のガッツポーズを決める私を余所に、ルイ様が静かに立ち上がった。
「さて、腹ごしらえが済んだなら、始めようか」
ルイ様のその言葉を合図に、嵐の後の修復作業が幕を開けた。
「ぬう。我らリザードマンの戦士が、まさか大工の真似事をするとはな」
深緑の鱗を鈍く光らせ、巨躯を屈めて倒木を片付けていたゾアが、黄金の瞳を細めて笑った。
「文句を言うな、ゾア。昨夜の熱狂の代償だ……それに、アリシアの飯に認められた客なら、この程度は当然の対価だろう」
テリオンがカメリアの瞳で鋭く庭を射抜きながら、黒弓を背に軽やかに屋根へと飛び移る。
彼は高い位置から全体の損壊具合を確認しているようだ。
「あの、アリシアさん! 僕も、自分にできることをやります!」
エプロンをきゅっと結び直したジュリアンが、銀の笛を唇に当てた。
昨日までの攻撃的な旋律ではない。
穏やかで、規律正しい、不思議な音色が森に響き渡る。
すると、森の奥からカサカサと音がして、体長一メートルはある「フォレスト・スパイダー」の群れが現れた。
「ひっ、蜘蛛か!?」
バルトが反射的にワイヤーに手をかけるが、ジュリアンが慌てて制止する。
「大丈夫です! この子たちの糸は、鋼より強くて粘りがあるんです。窓枠の補強や、資材の固定に使わせてください」
ジュリアンの指揮に従い、蜘蛛たちは器用に糸を吐き、崩れかけた壁を魔法のネットで支え始めた。
さらには、地中から「アース・モール(土モグラ)」を呼び出し、昨夜の衝撃でデコボコになった庭の整地まで一瞬で終わらせていく。
「ほう……我の怪力でも半日はかかる作業を、これほど手際よく」
ゾアが感心したように、太い腕を組んで唸った。
「……フン。道具としての使い道は心得ているようだな。悪くない手際だ」
テリオンも、屋根の上から珍しく肯定的な言葉を吐き捨てた。
二人の猛者に認められたことが、よほど嬉しかったのだろう。
ジュリアンの頬が誇らしげに上気し、琥珀色の瞳がキラキラと輝き始めた。
「もっと、もっと役に立てます! 大きな資材の運搬なら……この子を!」
調子に乗ったジュリアンが、笛に深く息を吹き込み、ひときわ高く、鋭い旋律を奏でた。
その瞬間。
森の鳥たちが一斉に飛び立ち、辺りが急激に暗転した。
「……おい、なんだ? 雲か?」
ゾアが怪訝そうに空を見上げ、テリオンが咄嗟に黒弓を構える。
上空から降りてきたのは、巨大な、あまりに巨大な翼を広げた古の竜――ワイバーンだった。
バサァッ!! と激しい風圧が吹き荒れ、せっかく蜘蛛たちが整えたばかりの資材が派手に舞い上がる。
「「――ッ!?」」
「あ、あの……! 屋根の重い石を運ぶのにいいかなと思って呼んじゃいました……えへへ」
頬を染めて笑うジュリアンとは対照的に、庭にいた最強の守護者たちの顔が引きつった。
「ジュリアン、貴様ッ! 何を呼び出している!!」
テリオンが瞳を限界まで見開き、絶叫に近い声を上げる。
「小僧! あれは労働の範疇を超えている! 戦だ、それはもう戦の規模だぞ!!」
巨躯のゾアですら、獲物を見る目ではなく「とんでもない災害」を見る目でワイバーンを仰ぎ見ていた。
(あら。資材運搬にドラゴン……これは、工期が劇的に短縮できそうですわね)
一人、厨房の窓からその光景を眺めていた私は、パチンと指を鳴らした。
「バルト、呆けていないで指示を出しなさいな。ドラゴンさんの駐竜スペースの確保、急いでちょうだい!」
「アリシアお嬢様、本気ですか……!?」
戦慄する男たちを余所に、カフェ・ヴァレンタインの「史上最も物騒な修復作業」は、加速の一途をたどるのだった。
◇
ワイバーンによる「過剰な」修復作業がどうにか一段落し、騒がしかった森にようやく夜の帳が下りた。
ゾアとテリオン、そして疲れ果てたジュリアンが眠りにつき、店内には薪が爆ぜる音だけが静かに響いている。
私は淹れたてのハーブティーをトレイに乗せ、奥のログハウスへと向かった。
扉を開けると、そこには机に向かうルイ様の姿があった。
暖炉の火に照らされた鮮やかな髪が、さらりと揺れる。
彼は私の気配に気づくと、瞳を和ませ、そっとペンを置いた。
「ルイ様……お疲れではございません?」
「ああ、アリシア。ちょうど一区切りついたところだよ。ありがとう」
私はルイ様の隣に座り、温かなカップを差し出した。
ルイ様はふと、窓の外……昨夜の爪痕が消え、見事に整地された庭に目を向けた。
「それにしても、ジュリアンには驚かされたな。まさかドラゴンまで『使役』して庭を整えるとは」
「ええ。少し……いえ、かなり刺激的でしたが、あの子なりに一生懸命役に立とうとしてくれましたわ」
「ああ……だが、それほどの才能を持つ子供を暗殺者として送ってきた背後が、どうしても気になる。西のベリウス公国……あるいは、国内の反ルイ派か」
ルイ様の右手の甲に刻まれた『太陽の紋章』が、魔力の残光で淡く輝いている。
王としての重責を背負う彼の横顔に、私はそっと手を添えたい衝動を抑え、微笑んで首を横に振った。
「きっと、そのうち話してくれますわ。今はあの子の胃袋を掴んで、この店の味に染めて差し上げている最中ですもの」
「ふふ、君に胃袋を掴まれたら、もう逃げ道はないからな……私も、その一人だ」
ルイ様が悪戯っぽく笑い、机の上に広げられた膨大な書類の山に視線を戻した。
王宮から届けられた機密文書や、新体制に向けた通達の数々。
臨時王宮と化したこのログハウスの現状に、私は思わず苦笑を漏らした。
「これでは、ゆっくりする暇もなさそうですわね。明日もまた、次から次へと新しい難題が届くのでしょう?」
「私を甘く見てもらっては困るな、アリシア」
ルイ様がふいに椅子を回し、私の顔をじっと覗き込んだ。至近距離で見つめるエメラルドの瞳に、私は思わず息を呑む。
「本気を出せば、こんな書類仕事はすぐに終わらせられる……ただ、今はわざとゆっくり書いているだけなんだ」
「……わざと、ですの?」
「ああ。こうして書類が山積みの方が、君が心配して夜食を届けてくれるだろう? 今は、せっかくの君と二人きりの時間だからな。一分一秒でも長く、引き延ばしたいだけなんだ」
そう言って、ルイ様は私の手をそっと取り、指先に柔らかな唇を寄せた。
昼間の威厳ある王の顔ではなく、ただ一人の男としての、熱を帯びた眼差し。
「ルイ様、そんな……皆様が起きてしまったらどうなさいますの」
「皆、昨日の戦いと今日の修復作業で泥のように眠っているよ……アリシア。少しの間だけでいい、君を独り占めさせてくれないか」
引き寄せられた肩から、ルイ様の心地よい体温が伝わってくる。
書類の山も、西の陰謀も、今は遠い世界の出来事のよう。
暖炉の火が二人の影を壁に長く落とし、静寂の中でルイ様の甘い吐息だけが、私の耳元を優しく掠めていった。




