第11話 生成りのエプロンと、迷い子の席
嵐は、嘘のように去っていった。
床に散らばる硝子の欠片と、焦げた木の匂い。
それでも、魔物たちの気配はもうない。
割れた窓から吹き込む夜風が、戦いの熱をゆっくりと冷ましていく。
ゾアとテリオンが残党の確認に出ていき、バルトは剣を納めて警戒するように店の外に控えた。
店内に残ったのは、私とルイ様、そして壁際に座り込んだままのジュリアンだけ。
彼は笛を取り落とし、膝を抱えて俯いている。
琥珀色だった瞳は再びトパーズの色に戻り、肩は小刻みに震えていた。
私は、ゆっくりと息を整えた。
まずは――やるべきことがある。
「少々、お待ちくださいませ」
そう告げてから、私は厨房へ向かった。
割れた皿を避け、鍋を火にかけ直す。
残っていたポタージュを温めながら、私は戸棚から小さな瓶を取り出した。
中に入っているのは、以前収穫して大切に漬け込んでおいた「蜂蜜に浸した香草」。
それを一滴だけ、温まったスープに落とす。
絶望で味覚が麻痺してしまった子には、ただ温かいだけでは足りない。
「自分を想って作られた味だ」と気づかせる、微かな、けれど確かな特別感が必要なのだ。
湯気の立つ椀を手に、私は微笑んでジュリアンの前にしゃがみ込んだ。
彼はびくりと肩を震わせたが、逃げなかった。
「熱いですから、気をつけて……今度は、少しだけ隠し味を入れましたの」
椀を差し出すと、ジュリアンはしばらく迷った末、そっと両手で受け取った。
一口すすると、ふわりと柔らかな、春の陽だまりのような甘い香りが鼻を抜ける。
「……さっきより、ずっと。なんだか、ホッとする味がします」
「ええ。頑張りすぎて心が凍ってしまったときには、この甘さが一番効くんですの」
ジュリアンは何も言わなかった。
けれど、ぽたりと一滴、椀の縁に雫が落ちた。
「ねえ、ジュリアン」
私は責める声を使わなかった。
叱るときよりも、ずっと静かな声。
「あなた、ここに『殺し』に来たのではありませんわね」
彼の指が、きゅっと椀を握り締める。
「……居場所が、欲しかっただけ」
絞り出すような声だった。
「言うことを聞けば、役に立てば、必要だって言ってもらえるって……そう、教えられたから。でも、僕……本当は、誰も傷つけたくなかったんだ」
ポロポロと、堪えきれなくなった涙がスープに落ちる。
私は、彼の震える小さな手を、そっと自分の手で包み込んだ。
「分かっておりますわ……料理人というものは、食べる方の表情を見れば、その方がどんな想いで皿に向き合っているか分かってしまうものですから。貴方がスープを飲んだ時のあの顔に、嘘はありませんでしたわよ」
ジュリアンは顔を上げ、驚いたように私を見た。
「ですから、そんなに怯えなくていいんですのよ。美味しいものを『美味しい』と思える心があるなら、やり直せないことなんてありませんわ」
ジュリアンの肩から、ようやく力が抜ける。
椀を抱えたまま、彼は小さく、嗚咽を漏らした
その涙がスープの熱に溶けていくのを、私はただ黙って見守った。
そこへ、ルイ様が静かに一歩、前に出た。
「ジュリアン。君の身柄は、私が預かる」
威厳のある、王の声。
けれど、その瞳に宿っているのは冷徹な審判ではなく、深い慈しみだった。
「選択を誤った子供を、斬り捨てるために私は王になったわけではない。君を道具として扱った者たちのために、君が命を捨てる必要はないのだ」
ジュリアンは、涙に濡れた目でルイ様を見上げ、そして――縋るように、私を見た。
「……でも、僕、ここを壊しちゃった。アリシアさんの、大切な場所を……」
「ええ、そうですわね」
私は割れた窓や倒れた椅子に目を向け、大げさにため息をついてみせた。
「修理代は、高くつきますわよ。ですから、逃げることは許しません。しばらくは、皿洗いと薪割りを覚悟なさいな」
「……え?」
「言ったはずですわ。謝れるなら、席はあると……ジュリアン、貴方は今日から、このカフェの見習い店員です」
私は棚から、予備の生成りのエプロンを取り出し、彼の膝の上に置いた。
まだ一度も使われていない布地は少し硬く、けれど確かな重みを持って少年の膝に収まる。
ジュリアンはそれを、震える手でそっと撫でた。
「……僕、頑張る。壊したところ、全部直すまで、逃げない」
「ええ。期待していますわよ」
ジュリアンの唇が、かすかに震えた。
それは、今日初めて見せる、子供らしい、けれど前を向こうとする表情だった。
(ふふ、この迷い子のウサギさん。まずは美味しいもので胃袋を重くして、逃げ出す気力なんて一欠片もなくして差し上げますわよ。調理師の「恩」という名の鎖は、鉄格子の何倍も頑丈なんですもの!)
心の中で不敵に微笑みながら、私はバルトに目配せをした。
彼はすべてを察したように頷き、予備の毛布を抱えて歩み寄る。
「さて、新人さん。初仕事は明日の朝からです。今夜はまず、泥のように眠るのが義務ですな」
バルトが優しく毛布をかけると、ジュリアンはエプロンを抱きしめたまま、こくりと頷いた。
緊張の糸が切れたのか、その瞳は今にも閉じそうだ。
ルイ様はそんな少年の様子を、暖炉の火に照らされながら静かに見守っていた。
その横顔には、王としての峻厳さと、一人の人間としての温もりが同居している。
私が淹れ直したハーブティーを差し出すと、ルイ様はエメラルドの瞳を和ませ、私へと視線を向けた。
「……アリシア。君は、やはり不思議な女性だな」
「あら、私はただの強欲な店主ですわ。腕の良い見習いを一人、手に入れただけですもの」
「そうか……なら、私もその『店主』に見捨てられないよう、せいぜい貢献しなくてはな」
ルイ様は悪戯っぽく笑い、温かなカップを口にした。
夜風が仮板の隙間からひゅうと鳴って入り込むけれど、不思議と寒さは感じない。
ゾアとテリオンも、武器を置いて壁際で仮眠を取り始めた。
バルトが窓際で静かに見守り、薪が爆ぜる音が店内の静寂を優しく埋めていく。
夜は、まだ深い。
けれど、暖炉の火は消えていない。
この店は今日も――
迷い子のために、灯りを落とさずにいる。
深い闇に包まれた冬の森の奥で、ここだけが小さな、けれど消えることのない黄金色の灯火として輝き続けていた。
そして。
今日、この店に。
新しい一人のための、確かな一席が増えた。
夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。




