第10話 牙を剥いたウサギと、銀の旋律
リザードマンのレゴとギラが、嵐のような騒がしさと共に去っていった。
彼らが残した「北の湿地の異変」という言葉が、重い澱のように店内に残る中、森は再び冬の終わりの静寂に包まれていた。
窓の外は、淡い夕闇が雪原を紫に染め始めている。
ルイ様は暖炉のそばで、エメラルドの瞳を伏せて思索に耽っていた。
時折、彼が右手の甲に目を落とすのを、私は見逃さない。
そこにはアストライア王家の血筋を証明する『太陽の紋章』が刻まれている。
今は旅装の袖に隠されているが、その輝きはルイ様の背負う運命そのもののようだった。
不意に、カフェの入り口にある呼び鈴が、力なく「チリン……」と鳴った。
「いらっしゃいま――」
出迎えようとした私の言葉が止まる。
扉の隙間から滑り込んできたのは、凍てつくような夜気と、一人の小さな影だった。
暗緑色の髪を切り揃え、トパーズのような瞳をした少年。
年齢は十二歳ほどだろうか。
体つきは細く、着古した外套に身を包んだ姿は、今にも冬の寒さに溶けて消えてしまいそうなほど儚げだった。
「あの、ごめんなさい。少しだけ、暖まらせてもらっても、いいですか?」
蚊の鳴くような、細い声。
彼は不安そうに、大きなトパーズの瞳を揺らしながら私を見上げた。
(あら。なんて可愛らしい、迷い子のウサギさんですこと)
私の心の内の「淑女スイッチ」が、音を立ててオンになる。
背後でテリオンが弓に手をかけ、ゾアが低く喉を鳴らして威嚇しているが、私はそれを手で制した。
こんなに怯えた顔をした子供が、あの恐ろしい魔物使いだなんて、誰が思うでしょう。
「ええ、もちろん。お好きな席へどうぞ。今、温かいスープをお持ちしますね」
私が案内すると、少年はカウンターの一番端の席に、縮こまるようにして腰を下ろした。
冷えた手をさすりながら、彼はふと顔を上げて、小さな声で言った。
「僕は、ジュリアン。お姉さん、急に押しかけてごめんなさい」
「いいえ、ジュリアン。こんなに寒い夜ですもの、気にしないでくださいな」
私は厨房へ急ぎ、たっぷりの根菜と、「黄金蓮」の残りを刻み込んだ、濃厚なポタージュを作った。
湯気が立つ皿を運ぶと、ジュリアンは震える手でスプーンを取った。
一口、スープが喉を通った瞬間、彼の頬が微かに赤らみ、安堵したように目を細める。
「美味しい! こんなに優しい味、食べたことないや。これなら、最後に食べても後悔しないかも……」
「最後?」
聞き返そうとした、その時。
――グオォォオォオッ!!
森の奥から、複数の獣が吠える不気味な咆哮が響いた。
地響きとともに、森の木々がなぎ倒される音が近づいてくる。
「――っ! 来たか!」
テリオンが窓から外を睨み、ゾアが戦斧を構える。
店の外を囲んだのは、巨大な「双頭の狼」の群れ。
通常、この森には生息していないはずの、狂暴な魔物たちだ。
ルイ様が静かに立ち上がり、ジュリアンを庇うように一歩前へ出た。
鮮やかな夕焼け色の髪が、外から差し込む月光に揺れる。
「下がっていなさい、ジュリアン! ここは私が守る!」
「……あ、ダメだよ。ルイ・ソル・アストライア様」
不意に、少年の声から「震え」が消えた。
ジュリアンはゆっくりと席を立ち、最後の一口のスープを飲み干すと、音もなくスプーンを置いた。
彼が顔を上げた時、そのトパーズの瞳からは、先ほどまでの「迷い子」の光が完全に消え失せていた。
「僕の『子犬たち』が、お腹を空かせちゃってるんだ……ごめんね、お姉さん。スープの代わりに、この人たちの命を、僕に頂戴」
ジュリアンが懐から一本の小さな銀の笛を取り出し、唇に寄せる。
その瞬間、彼の周囲の空気が、まるで意志を持つかのように凍りついた。
ぴぃ――。
鼓膜を突き刺すような、高く鋭い音。
すると、外で荒れ狂っていた魔物たちが、一斉に動きを止めた。
そして、まるで主人の足元に擦り寄る子犬のように、静かに、整然と隊列を組んで店を取り囲んだのだ。
「……さあ、始めてもいいかな。陛下」
少年の瞳が、トパーズから燃えるような琥珀色へと変わる。
大人しかった「ウサギ」が、牙を剥いた「支配者」へと変貌した瞬間だった。
ルイ様が右手の袖を捲り上げる。
そこには太陽の紋章が、青白い魔力の輝きを帯びて浮かび上がっていた。
「私の名を、どこで知った……刺客か、あるいはそれ以上のものか」
ルイ様の瞳が、静かに、しかし絶対的な威厳を持ってジュリアンを射抜く。
すると、ジュリアンはトパーズ色の瞳を細め、薄く、残酷な笑みを浮かべた。
「名前なんて、どうでもいいよ。僕が知っているのは、君を消せば、僕に『居場所』をくれる人がいるってことだけ」
そう呟くと、ジュリアンは手にしていた銀の笛を、一気に吹き鳴らした。
ぴぃぃ――ッ!!
鼓膜を貫くような鋭い高音が店内に響き渡った瞬間、衝撃波が同心円状に広がり、カフェの窓ガラスが一斉に震えて粉々に砕け散った。
それを合図に、外を囲んでいた双頭の狼たちが、砕けた窓から一斉に店内に躍り込もうとする。
「……させんッ!」
その時、粉砕された正面扉から、一筋の閃光が飛び込んできた。
王宮での隠密任務を終え、戻ったばかりのバルトだ。彼は状況を一瞬で把握すると、空中で腰の剣を引き抜き、逆の手から鋼のワイヤーを放った。
「陛下、お待たせいたしました! このバルト、たった今帰還いたしました!」
バルトが放ったワイヤーが蜘蛛の巣のように窓枠に張り巡らされ、侵入しようとしたオルトロスの巨体を絡めとる。
彼は着地と同時にワイヤーを引き絞り、身動きの取れない魔物の喉元を鋭い一突きで葬り去った。
「よく戻った、バルト!」
ルイ様が叫ぶ。
彼は旅装を脱ぎ捨てると、カウンターの奥に秘匿されていた白銀の長剣を手に取った。
太陽の紋章から溢れる魔力が剣身に伝わり、刀身がエメラルド色の炎を纏ったかのように輝く。
「ゾア、テリオン! 左右を頼む! バルトは背後を!」
「御意!」
「……チッ、注文の多い王様だ」
ゾアが重厚な戦斧を振り回して魔物を叩き伏せ、テリオンが二階の吹き抜けから正確無比な矢を放つ。
ルイ様自身も、王家秘伝の剣術で次々と魔物を斬り伏せていく。
その乱戦の最中。
私は、店内の調度品を守るべく、愛用の重い鉄製フライパンを握りしめた。
ジュリアンは、戦闘の喧騒の真ん中で、一人ポツンと立ち尽くしている。
(……あの子を止めれば、この笛の魔法は解けるはず……!)
私は、戦いの隙間を縫ってジュリアンの背後へと回り込んだ。
完璧な所作で距離を詰め、渾身の力でフライパンを振り上げる。
「ジュリアン、もうおやめなさい!」
――だが。
振り下ろそうとした瞬間、ジュリアンがゆっくりとこちらを振り返った。
そこには、先ほどまで私のスープを「美味しい」と笑って食べていた、幼い少年の面影が色濃く残っていた。
トパーズの瞳に宿る、どこか寂しげな光――。
(……この子は、ただ誰かに認められたくて、こんなことを……?)
ほんの一瞬――
私の腕に、料理人としての、そして人としての「迷い」が生じた。
「……甘いね、お姉さん」
ジュリアンの声が、氷のように冷たく響いた。
彼が指を鳴らした瞬間、私の背後の影から、巨大な魔物の爪が鎌のように突き出された。
「しまっ――」
回避は間に合わない。
死を覚悟したその刹那、目の前が眩い光に塗り潰された。
ガギィィィンッ! と、激しい金属音が鼓膜を叩く。
「……アリシア、下がれ!」
ルイ様だった。
彼は私と魔物の間に割って入り、長剣でその鋭い爪を真っ向から受け止めていた。
火花が散り、ルイ様の鮮やかな髪が衝撃で激しく舞う。
「ルイ様……っ! 私が不甲斐ないばかりに……!」
「いいんだ、アリシア。君のその『優しさ』まで守るのが、私の誇りだから」
ルイ様はエメラルドの瞳をさらに強く輝かせ、紋章の力を剣に収束させた。
「……退け、魔物使い。この店は、お前のような孤独な子供が壊していい場所ではない!」
王の咆哮と共に放たれた光の圧が、ジュリアンと魔物たちをまとめて吹き飛ばした。
吹き飛ばされたジュリアンは、壁に背を預け、荒い息をつきながら信じられないものを見るようにルイ様を凝視した。
「……どうして。その紋章の力、僕を殺すために使えばよかったのに」
「言ったはずだ。ここは私の大切な場所だと……アリシア、お代わりのスープはまだ残っているか?」
ルイ様は剣を引き、いつもの穏やかな笑みで私を振り返る。
私はフライパンを握り直し、深呼吸と共にスカートの裾を整えた。
「ええ、もちろん。冷めたスープほど、再教育に相応しくないものはありませんわ」
戦火の煙が漂う店内で、私たちは静かに、けれど確実に、この迷い子を迎える準備を整えた。




