第9話 黄金蓮のステーキと、湿地からの凶報
冬の終わり、森は一年で最も深い静寂に包まれていた。
窓の外には、春を待つ雪原がどこまでも白く、しんとして広がっている。
時折、枝から雪が落ちる音さえ、店内に響くほどに静かな午後だった。
私がカウンターを磨き、ルイ様が暖炉のそばで静かに書物に目を落としていた、その時。
――ズ……ズシン。
遠く、地面の底から伝わるような、重い振動が空気を震わせた。
雪崩の音ではない。
規則正しく、確実にこちらへ近づいてくる、巨大な「何か」が雪を蹴散らす音だ。
ゾアが鋭く目を光らせ、入り口の扉を背にするように立ちふさがる。
地響きは次第に大きくなり、ついにカフェの入り口で止まった。
ド、ド、ドンッ!
乱暴に扉が叩かれ、建付けの悪い蝶番が悲鳴を上げる。
次の瞬間、勢いよく開かれた扉から、冬の厳しい冷気と共に、二つの巨大な影が滑り込んできた。
「おう、ゾア! 息災にやってるか!」
店内に満ちたのは、野太い笑い声と、獣特有の強い匂い。
現れたのは、全身を鈍色の硬質な鱗で覆った、岩山のような体躯のリザードマンだった。名を、レゴ。
そしてその背後、巨大な戦斧を軽々と肩に担ぎ、鋭い眼光を放つ隻眼の戦士、ギラ。
かつて大陸中の戦場をゾアと共に駆け抜け、その武名を轟かせた歴戦の傭兵たちが、今、この小さなカフェに足を踏み入れたのだ。
「レゴにギラか。よくここが分かったな」
ゾアが低く唸るような声で応じる。
彼はいつものようにエプロンをつけた姿で、二人の旧友の前に立った。
かつての「死線の黒鱗」が、人間の女が営む店で、かいがいしく給仕をしている――そのあまりに平和な光景に、レゴは驚愕したように目を剥き、次の瞬間には龍のような顔を歪めて爆笑した。
「ハハハ! 噂は本当だったか! お前がこんな森の端で、おままごとでもしているのかと思ったぜ」
「笑うな……ここは、我の新しい戦場だ」
ゾアは真面目な顔でそう返すが、その尻尾の先がわずかに揺れている。
レゴは笑いすぎて腹を抱えながら、足元に置いていた大きな袋をカウンターに放り出した。
「まあいい、土産だ。北の湿地でしか獲れねえ『黄金蓮の根』を、道中で引っこ抜いてきてやったぜ」
ドサリと音を立てて置かれた袋から、泥を落としたばかりの、見事な黄金色の蓮の根が顔を出す。
それを見た瞬間、ゾアの尻尾が床をパシッ、パシッと叩いた。
……ゾア、隠せていませんわ。貴方、今ものすごく「甘いものへの期待」に溢れていますわ。
「……主、すまない。我の旧友たちが騒がしくしてしまった」
ゾアが申し訳なさそうに頭を下げたが、その視線はカウンターの上の「黄金蓮の根」に釘付けだった。
私はクスリと笑って、その大きな肩を叩く。
「いいえ、歓迎いたしますわ。ゾアの戦友なら、私の友人でもありますもの。さあ、その立派な手土産、さっそく調理させていただきますわね」
◇
私は厨房に入り、腕まくりをした。
黄金蓮の根は、泥を洗い流すと、その名の通り月光を閉じ込めたような淡い金色に輝き始めた。
ナイフを入れると、驚くほど身が詰まっており、断面からは糸を引くほど濃厚な蜜が溢れ出す。
(……ほう、これは素晴らしい食材ですわね。ただ焼くだけではもったいないわ)
私はまず、黄金蓮を二センチほどの厚切りにし、軽く下茹でをしてアクを抜いた。
それから鉄板にたっぷりの無塩バターを落とし、香ばしい香りが立ち上ったところで、蓮の根を並べる。
ジューッ、という小気味よい音が店内に響き渡る。
バターの塩気と、加熱されることで活性化した蓮の甘い香りが混ざり合い、リザードマンたちの鼻腔を直撃した。
カウンター越しに、三匹の巨大な尾が床を叩くドンドンという音が重なり、まるで太鼓の演奏のようだ。
「おいおい、ゾア……お前、毎日こんな美味そうな匂いに囲まれて暮らしてるのか?」
「我の主の腕は、大陸一だ」
誇らしげに胸を張るゾアの声を聞きながら、私は仕上げに取り掛かる。
表面に粗糖を振りかけ、強火で一気にキャラメリゼする。
黄金色の表面が焦げ茶色に色付き、カリカリとした飴状になったところで、砕いたアーモンドと、隠し味にほんの少しの岩塩を振りかけた。
仕上げにたっぷりのホイップを添えれば、完成だ。
「お待たせいたしましたわ。『黄金蓮の蜜焼きステーキ、雪山風クリーム添え』です!」
大皿に乗った豪快な料理が、レゴとギラの前に運ばれた。
「おおおおお!!」
二人は我先にと、その巨大な手でフォーク(というより、彼らにとっては爪楊枝のようなサイズだが)を握りしめた。
ガリッ、と表面の飴が砕ける音が響く。
続いて、中のホクホクとした身から、熱々の蜜が口内いっぱいに弾け飛んだ。
「――っ!! なんてこった、この甘さ! 暴力的なまでに美味いじゃねえか!」
「バターの塩気が蜜の甘みを引き立てて、いくらでも食える! ゾア、貴様だけこんな贅沢を……!」
レゴとギラは、皿に顔を突っ込まんばかりの勢いで完食し、すぐさま「おかわりだ!」と声を上げた。
ゾアもまた、仲間に負けじと、至福の表情で己の取り分を咀嚼している。
ルイ様は、そんな彼らの喧騒を少し離れた席から見守っていた。
王としての威厳を隠し、今はただの「若き店主の助手」として振る舞っているが、その瞳には常に冷徹な観察眼が宿っている。
やがて、三皿目のおかわりが空になり、リザードマンたちが満足げに腹をさすり始めた頃。
レゴがふと、窓の外の雪原に目を向け、声を低めた。
「……だがゾア。この甘い生活を、いつまで続けていられるかは分からねえぞ」
ゾアの金色の瞳が、鋭く細められた。
「……どういう意味だ、レゴ」
「北の湿地だ。最近、あそこの魔物共の様子がおかしい。本来、群れを作るはずのない異種の魔物たちが、まるで一つの軍勢のように統制されて動いてやがる」
ギラの隻眼が、不気味に光る。
「ああ。噂じゃ、西の方から腕利きの『魔物使い』が流れてきたらしい。そいつは笛の音一つで、最上位の魔物すら手駒のように扱うという。その『軍勢』が、いま、この森を囲むように南下してきているんだ」
「我を狙う刺客、あるいは……」
ゾアが言いかけ、視線をルイ様へと飛ばした。
ルイ様は静かに本を閉じ、その表紙を指先でトントンと叩く。
それは、彼が深い思考に入った時の癖だった。
「その魔物使いの目的は何だ。ただの領土拡大か?」
ルイ様が静かに問いかけると、レゴは首を振った。
「分からねえ。だが、そいつの背後には、妙な『紋章』を掲げた一団がいるって話だ。グラン・ロアの正規軍じゃねえ……もっとドロドロとした、金と執念で動く連中だ」
ルイ様を廃し、新たな操り人形を玉座に据えようとする不穏な勢力。
その影が、ついにこの静かな森にまで伸びてこようとしていた。
店内に、先ほどまでの甘い香りを塗り替えるような、刺すような緊張感が満ちる。
私は、空になった皿を片付けながら、ルイ様と視線を交わした。
「……主、我は」
ゾアが立ち上がろうとしたが、私はその肩を優しく、けれど強く押さえた。
「ゾア。お客様には、最後までゆっくりしていただくのがこの店のルールですわ。魔物使いでも、死神でも、お腹を空かせているのなら私の料理を振る舞うだけ……毒をたっぷり効かせて、ね」
私が完璧な淑女の微笑みを浮かべると、レゴとギラは一瞬だけ、ゾアよりも恐ろしいものを見たような顔をして身を竦めた。
冬の終わり。
湿地のざわめきと共に、新たな「獲物」が近づいている。
私は厨房の奥で、次の戦いのために包丁を研ぎ澄ませた。




