第4話 鉄壁の守護者と、震える羽虫
「……ルイ様? そちらの書類は一体……」
手紙を読み終え、微かに震えていた私の手に、ルイ様がそっと別の紙束を差し出してきた。
そこには、この森一帯の土地権利書、そして見たこともないほど重厚な「警護依頼書」の束が並んでいた。
「羽虫が騒がしいと言ったね。ならば、この森ごと私が管理下に置こう。そうすれば、不届き者がこの店の敷居を跨ぐには、私の許可が必要になる」
「は……? 森ごと……?」
あまりのスケールの大きさに、淑女の微笑みが引き攣る。
彼はエメラルドの瞳を真っ直ぐに私に向け、その綺麗な指先で私の手の甲を優しく包み込んだ。
「君の自由も、君が焼く菓子の香りも、私が守る……いや、守らせてほしい。君が望まない者は、王子だろうと誰だろうと、私が全力で排除しよう」
その言葉は、甘く、けれど拒絶を許さないほどに力強かった。
私はどうにか「ありがとうございます、頼もしいですわ」とだけ返し、ふらふらとキッチンの奥へ退避した。
そして――視線が外れた瞬間、私はドレスの裾をがばっとたくし上げ、誰もいない廊下を音もなく全力で駆け抜けた。
(最強のボディーガードがついたわーーー!! って、やりすぎよルイ様! 森ごと買うって何!? あなた本当に何者なのよーーー!!)
凄まじい安心感と、それを上回る「正体不明の男に森ごと守られる」という異常な状況へのパニック。
私は声にならない歓喜を爆発させ、心の中で拳を突き上げた。
(でも……ふふっ、これであの馬鹿王子もお父様もお母様も、手出しはできないわ。ざまあみなさい!)
ひとしきり無言のステップで喜びを噛みしめると、私はスッと真顔に戻り、シワ一つないスカートを整えた。
再びホールへ戻る私の足取りは、先ほどよりもずっと軽やかで、けれどどこか「とんでもない人を常連にしてしまった」という予感に震えていた。
◇
ルイ様が「森を管理下に置く」と言ったのは、決して冗談ではなかった。
翌日から、カフェの周囲には「旅人」を装った、けれど明らかに鍛え上げられた体つきの男たちがさりげなく配置された。
彼らは皆、私の焼くクッキーを一枚差し出すだけで、恐縮したように背筋を伸ばして礼を言う、礼儀正しい人々だった。
そんな鉄壁の守りを誇る我が店に、ついに「その時」が訪れた。
カラン、と。
ドアベルが鳴り、現れたのは豪華な装飾が施された騎士服を纏った男――実家のヴァレンタイン家に仕える、見覚えのある従騎士だった。
「――アリシア様。お迎えに上がりました」
彼は誇らしげに胸を張り、仰々しく一礼した。
私はゆっくりと、手に持っていたティーカップをソーサーに置いた。カチャリ、と一点の曇りもない清らかな音が響く。背筋をこれ以上ないほど美しく伸ばし、私は慈愛と哀れみが混ざり合った、完璧な「聖女の微笑み」を浮かべた。
「お久しぶりですわ。ですが、お引き取りください。今の私は、この店の店主に過ぎませんもの」
「何を仰いますか! お父上が……お父上様が、貴女の帰還を心待ちにしておられるのです。ライオネル殿下も、貴女との再会を望んでおいでです!」
(——はあああああ!? どの口がそれを言うのかしら、この厚顔無恥な羽虫めが!!)
内心では、握りしめた麺棒で、その傲慢な鼻先をぴしゃりと叩き出してやりたい衝動に駆られていた。
お父様とお母様、そしてあの馬鹿王子。
私をゴミのように捨てた連中が、自分たちの都合が悪くなったからといって、どの面を下げて「お迎え」などと言えるのか。
「……困りましたわ。私はもう、あの屋敷の敷居を跨ぐつもりはございませんの。お父様には、そうお伝えください」
「聞き入れられません! 強引にでもお連れしろと仰せつかって……!」
従騎士が私の腕を掴もうと一歩踏み出した、その時。
「——私の店主に、何か用かな?」
冷ややかな、氷の刃のような声が響いた。
奥の席で静かにお茶を飲んでいたルイ様が、ゆっくりと立ち上がる。エメラルドの瞳は先ほどまでの穏やかさが嘘のように、底知れない威圧感を放っていた。
「な……貴様は……!?」
「彼女は今、私の保護下にある。ヴァレンタイン家の法も、王族の我が儘も、この森では一切通用しない」
ルイ様がスッと私の前に立ち、その広い背中で私を覆い隠す。
「ルイ様……! もう、それくらいになさってください。彼らも仕事なのですから」
震える声を演じながらルイ様の袖を掴むと、彼は一瞬で毒気を抜き、私を愛おしそうに見つめた。
「……君がそう言うなら。だが、二度とこの店に足を踏み入れないことだ」
エメラルドの瞳に見据えられた従騎士は、蛇に睨まれた蛙のように震え、這々の体で逃げ出していった。
ルイ様の影に隠れ、遠ざかる背中を見送りながら、私はそっと口角を吊り上げた。
(ふふっ、お見事ですわルイ様! あんな情けない姿、お父様やお母様に見せてあげたかったくらい!)
もし、完璧な淑女たる教育を施したはずの愛娘が、震えるフリをしながら内心で「ざまあみなさい!」と快喝を叫んでいると知ったら、お父様たちはショックのあまり寝込んでしまうだろう。
私がルイ様の袖を掴む指先に込めたのは、恐怖ではなく、自分の手で掴み取った勝利への、確かな手応えだった。




