第8話 カメリアの残響、届かない指先
ユリウスとセシルが去り、森のカフェには静寂が戻った。
だが、冬の終わりは食材が最も乏しくなる時期でもある。
私は店の在庫を確認し、小さく溜息をついた。
「芽吹きの前の野草と、残りのジビエ。これではルイ様や皆に、満足な一皿を出せませんわね」
厨房で一人呟いていると、背後の窓がわずかに揺れた。
振り返ると、そこにはテリオンがいた。
彼は何も言わず、顎で外の森をしゃくってみせる。
「ついてこい、アリシア。この時期にしか取れない実が、北の崖にある」
それは、彼なりの協力の申し出だったのだろう。
私は防寒のケープを羽織り、彼の背中を追って深い森へと足を踏み入れた。
◇
森の中、テリオンの歩みは驚くほど速く、かつ静かだった。
雪解けでぬかるんだ地面を、彼は羽毛のように軽やかに進んでいく。
時折、私が躓きそうになると、彼は振り返りもせずに黒弓の端を差し出し、私を支えた。
目的の崖で、私たちは赤く凍りついたような「冬の雫」と呼ばれる木の実を収穫した。
作業を終え、ふと横を見ると、テリオンが崖下を見下ろしたまま動かずにいた。
「……どうかなさいましたか?」
私の問いに、彼はゆっくりとカメリアの瞳をこちらへ向けた。
その視線は、獲物を値沈みする狩人のそれよりも、もっと執拗で、けれど困惑を含んだ熱を帯びているように見えた。
「お前は、なぜここで笑う……あの汚職伯爵を追い払った後も、ルイの前で繕っている時も。どれが本当のお前だ」
「あら、どれも本当の私ですわよ。ただ、少しだけ『見せ方』を変えているだけで」
私が微笑んで答えると、テリオンは眉間に深い皺を寄せ、ふいと視線を逸らした。
「……お前の拍動は、理解しがたい。耳障りなノイズだ」
そう吐き捨て、彼はスタスタと歩き出した。
置いていかれそうになり、私が「ちょっと、待ってくださいまし!」と裾を掴んで追いかけると、彼は舌打ちをしながらも、歩幅を緩めて私の隣を歩き続けた。
◇
私は、収穫したばかりの「冬の雫」を丁寧に洗い、たっぷりの蜂蜜と少しのスパイスで煮詰めた。
真っ赤な実は熱を通すことで宝石のような透明感を帯び、甘酸っぱい香りが厨房いっぱいに広がる。
仕上げに、雪のように白いクリームを添えて――。
「皆様、お疲れ様ですわ。今日のおやつは『冬の雫のコンポート』です」
木の温もりが漂うテーブルに皿を並べると、ルイ様が真っ先に目を細めて微笑んだ。
「ほう、これは見事だ。冬の森にこんな鮮やかな赤が隠れていたとは。アリシア、君の魔法にはいつも驚かされるな」
ルイ様が優雅に銀のスプーンを動かし、ゾアが大きな手で器用に小ぶりな器を抱えて「美味い! これは力が湧くな」と喉を鳴らす中、私はそっとテリオンの様子を伺った。
テリオンは椅子に浅く腰掛け、目の前の皿をまるで得体の知れない罠でも見るような目で見つめていた。
「……テリオン? お口に合いませんかしら。貴方が見つけてくださった実ですのよ」
促すと、彼はわずかに肩を揺らし、不承不承といった様子でスプーンを手に取った。
一口、赤い実を口に運ぶ。
その瞬間、彼の端正な眉がピクリと跳ねた。
「……甘すぎる」
低く、突き放すような声。
けれど、次の瞬間にはもう彼の手は動いていた。二口、三口と、止まる気配がない。
蜂蜜の濃厚な甘みの後に、実の鋭い酸味が追いかけ、さらにクローブの香りが鼻を抜ける。
その複雑な味わいの連鎖に、彼の誇り高き舌が屈していくのが手に取るようにわかった。
彼は一口ごとに「甘すぎる」「森を汚すような味だ」と毒づきながらも、クリームの一滴、ソースの一筋すら残さない勢いでスプーンを動かし続けている。
その様子を斜め後ろから見守りながら、私は背筋をピンと伸ばし、完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
(『甘すぎる』と言いながら、皿の底が見えるまでガツガツ食べてるじゃないですの! これぞ調理師の完全勝利! 偏屈なダークエルフの胃袋、しっかり掴み取ってやりましたわ!!)
心の中でドレスの裾を振り回して踊り狂い、全力のガッツポーズを決める。
当のテリオンは、最後の一粒を飲み込むと、まるで負けを認めるのが癪だと言わんばかりに、音を立ててスプーンを置いた。
「……口直しが必要だ。夜の見回りに行ってくる」
彼は顔を背けたまま立ち上がり、逃げるように外の闇へと消えていった。
◇
その日の夜。
ルイ様やゾアが眠りにつき、店内には薪が爆ぜる音だけが響いていた。
私が一人カウンターで明日の仕込みをしていると、不意に表の扉が開き、テリオンが夜の見回りから戻ってきた。
彼はカウンターの端、最も暗い席に腰を下ろす。
「……まだ起きていたのか」
「ええ。明日のソースの煮込み具合を見ておきたくて……何か、お飲みになりますか?」
私は、温めたベリーの果実酒を差し出した。
テリオンは無言でそれを受け取り、一口だけ口に運ぶ。
立ち上る湯気が、彼の褐色の肌を湿らせ、長い睫毛を揺らした。
「アリシア……私は、お前のような人間を、今まで見たことがない」
グラスを置く音が、静かな店内に響く。
彼はカメリアの瞳を伏せ、まるで自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「お前の『裏側』を知るたびに、弓を引く指がわずかに鈍る……これは、あってはならないことだ」
絞り出すようなテリオンの言葉に、私は息を呑んだ。
指が鈍る? それはつまり、私の二面性が彼にとって、警護に支障をきたすほどの毒になっているということなのだろうか。
「……テリオン。もし私が、貴方の誇りを汚しているというのなら、それは――」
私が思わず身を乗り出した、その時だった。
テリオンがゆっくりと、カウンター越しにこちらへ手を伸ばしてきた。
大きな、弓の弦で硬くなった指先。
夜の闇を溶かしたような彼の手が、私の頬に触れようと近づいてくる。
テリオンの瞳は、まるで深い淵に沈んでいくような色を湛え、そこには隠しきれない困惑と、彼自身すら制御できていないような熱が揺らめいていた。
彼の指先が、私の前髪に触れるか触れないかという、ほんの数センチの距離。
テリオンの呼吸が、夜の静寂の中で不自然なほど近くに感じられた。
(えっ、何、なんですの……!? 私、何か顔についてますの!?)
私が戸惑いと緊張で身を硬くした、その刹那――。
「あら、こんな夜更けに二人きりで、一体何を密談していますの?」
階段の踊り場から、氷を鳴らすような冷ややかな、けれど楽しげな声が響いた。
カトリーナだ。
彼女は緩やかな寝衣の上にガウンを羽織り、扇子で口元を隠しながら、獲物を見つけた猫のような目でこちらを見下ろしていた。
「……っ!!」
テリオンの動きが、弾かれたように止まった。
彼は伸ばした手を、まるで火に触れたかのように素早く引き戻すと、瞳に一瞬で鋭い「狩人」の光を取り戻した。
「……何でもない。空気が淀んでいたから、正していただけだ」
テリオンは吐き捨てるようにそう言うと、カトリーナの視線から逃れるように、一言の挨拶もなく裏口から夜の森へと飛び出していった。
バタン、と乱暴に扉が閉まる音が店内に響く。
「あらあら。相変わらず、素直じゃないというか、余裕がないというか……ねえ、アリシア。貴女、自分が何をされたか分かっていますの?」
カトリーナが階段を降りてきて、面白そうに私を覗き込んでくる。
私はようやく止まっていた呼吸を再開し、首を大きく横に振った。
「分かりませんわ……ただ、テリオンの体調がひどく悪そうでしたわ。熱でもあったのでしょうか。あんなに顔を険しくさせて……」
私は、自分の胸の奥に残った奇妙なざわつきを、無理やり「心配」という言葉に置き換えて飲み込んだ。
テリオンが触れようとした瞬間の、あの射抜くような眼差し。
それが何を意味するのか、今の私にはまだ、答えを出すことができなかった。




