第7話 招かれざる伯爵と、浄化の激辛
森の静寂を切り裂いて止まった豪華な馬車。
そこには私の母国グラン・ロアの紋章ではなく、猛々しい獅子を象ったアストライア王国の紋章が刻まれていた。
降りてきたのはアストライアの重鎮、シャールカン伯爵だ。
彼はエルデニアの牢にいるカインと密かに通じ、現国王であるルイ様を「無能」として廃立に追い込むため、わざわざ国境を越えてやってきた。
「……ふん。ここが、我が国の王が逃げ込んだという掃き溜めか」
シャールカンは泥除けのついた靴で、私のカフェの扉を無作法に蹴り開けた。
店内に漂う香りに一瞬鼻を動かしたが、すぐに傲慢な表情を作り直す。
「ルイ陛下! どこにいらっしゃる! おや、そこにいるのはユリウスではないか。詐欺師が王の側近気取りとは、アストライアの民が泣きますぞ」
その言葉に、ユリウスが眼鏡を指で押し上げ、肩をすくめて応じた。
「これは心外ですね、伯爵。私はただの『味』に認められた客ですよ……もっとも、貴方のような脂ぎった欲に塗れた方には、一生理解できない高尚な価値観でしょうが」
「貴様……! 以前、オルフェウスの時と同じように上手くいくと思うなよ!」
シャールカンが顔を赤黒く染めて一歩踏み出した。かつてユリウスに弱みを握られた盟友、オルフェウス男爵の名を出し、敵意を剥き出しにする。
不穏な空気が店を満たし、ルイ様やゾアが身構えた。
けれど、私は手にしていた重厚なフライパンを握り締め、彼らの前に一歩踏み出した。
「アストライアの貴族様でしょうか……お生憎様ですが、この店で一番偉いのは王様でも伯爵様でもなく、店主であるこの私ですわ」
私が毅然と言い放ったその瞬間、背後からスッと冷たい風が通り抜けた。
そこにはテリオンが音もなく立っていた。
月夜を溶かし込んだような褐色の肌。
彼は私を追い越すことはせず、けれど私の斜め後ろ、守るに最も適した位置で背中の黒弓に手をかけた。
「……五月蝿いな。アリシアの言葉を遮ってまで、その汚い口を動かしたいか」
テリオンの声は低く、地を這うような威圧感を伴ってシャールカンに突き刺さった。
宝石のように冷たく、けれど燃えるような赤みを帯びたカメリアの瞳。
その鋭い視線が、一瞬だけ私の背中を静かに射抜いたような気がした。
「貴様……ダークエルフか! どけ、我々は陛下に用が……」
「その図体、邪魔だと言っている。それとも、その贅肉ごと串刺しにしてやろうか」
テリオンの指が、黒弓の弦にかかる。
私は、彼の頑なな横顔を意識の外へ追いやり、再び伯爵に向き直った。
「ルイ様を連れ戻したいのでしたら、まずは私の料理を完食していただくこと……もし残すようなことがあれば、テリオンの矢が飛ぶ前に、私のフライパンでその無礼な頭を叩き直して差し上げますわ」
私は騒ぎ立てる伯爵を無視し、厨房へと踵を返した。
◇
厨房に入り、カウンター越しに客席が見えなくなった瞬間、私は拳を固く握りしめた。
ドレスの裾を乱暴に掴み上げ、肺の底から声を出す。
(面白くなってまいりましたわーーー!! アストライアの汚職伯爵? 受けて立ってやりますわよ! 私の料理で、そのブヨブヨの胃袋ごと浄化して差し上げますわ!!)
声にならない叫びを吐き出し、私は最高の笑みを貼り付けてフライパンを強火にかけた。
さて、この不届き者の腹を黙らせる「対価」として、相応しい一皿を用意して差し上げなくては。
◇
厨房に戻った私は、すぐさま冬の保存食が並ぶ棚へと手を伸ばした。
この季節、外は雪に閉ざされているが、土の中で栄養を蓄えた根菜たちは、どんな宝石よりも力強い生命力を秘めている。
「クラリス。地下で寝かせていた、雪下ニンジンのグリルと、あの『辛味大根』を持ってきて。それから、昨日仕留めたばかりの鴨肉も」
「かしこまりました、お嬢様。雪下ニンジンの甘みで油断させ、大根の刺すような刺激で本音を抉り出す……最高に皮肉な冬のメニューですわね」
私は、厚手の鉄鍋に脂の乗った鴨肉を並べた。
皮目からじっくりと脂を引き出し、その黄金色の旨味の中で、甘みの強い雪下ニンジンと、ゴロゴロと大きく切った冬のカブを焼き上げる。
仕上げに、すりおろしたばかりの「辛味大根」をベースにした、特製の和風ソースをたっぷりと。
さらに、血行を促進し、胃を強制的に活性化させる薬膳のスパイスを隠し味に忍ばせた。
名付けて――『冬の静寂と、燃える氷土の鴨肉グリル」』!!
数分後。
私は完璧な微笑みを携え、再び不穏な空気が渦巻く客席へと戻った。
「お待たせいたしました、シャールカン伯爵。アストライアの冷たい冬に負けないよう、芯から『温まる』一皿をご用意いたしましたわ」
テーブルに置かれた皿からは、食欲をそそる香ばしい鴨の脂の香りと、対照的にツンと鼻を突く大根の鋭い香りが立ち上っている。
シャールカンは、ルイ様やクラリス、そして背後で黒弓を構えるテリオンの視線を跳ね返すように、乱暴にナイフを動かした。
「ふん……見た目だけはそれらしいが、所詮は辺境の料理だ」
彼が厚切りの鴨肉と、ソースをたっぷり纏ったニンニクのようなニンジンを口に運んだ、その瞬間。
「…………っ!?」
シャールカンの顔は、もはや赤を通り越して土気色に変わっていた。
雪下ニンジンの濃縮された甘みに油断したところへ、辛味大根と薬膳スパイスの「熱」が、爆弾のように彼の腹の中で弾けたのだ。
「が、はっ……! あ、熱い、喉が、胃が焼ける……!」
シャールカンは喉を押さえ、椅子から転げ落ちんばかりに身を悶えさせた。
胃袋を強制的に洗浄されるような感覚に、これまで溜め込んできた贅肉と、その奥に隠していた「やましい心」が耐えきれなくなったのだろう。
彼は荒い呼吸を繰り返しながら、懐をまさぐり、一枚の封書をテーブルの上に叩きつけた。
「水だ……水をくれ! この料理は毒だ! こんな……こんな苦しみの中で、カイン様との密約を守り通せるわけが……あ、ああっ!?」
自分の口から飛び出した言葉に、シャールカンが凍りついた。
だが、もう遅い。
テーブルの上に放り出されたのは、アストライアの王印を模したカインの偽印が押された、ルイ様廃立の実行計画書。
そして、協力する貴族たちの名簿だった。
店内の空気が、一瞬で真冬の湖底のように冷え切る。
ユリウスが音もなくその書状を拾い上げ、眼鏡を光らせて内容を確認した。
「……なるほど。オルフェウス男爵の名前もしっかり入っていますね。これは『詐欺師の嘘』ではなく、伯爵自らが差し出した『最高の真実』だ」
ルイ様が静かに立ち上がった。
その双眸には、慈悲など微塵も感じられない、王としての冷徹な輝きが宿っている。
「シャールカン。余がこの地で何も知らずに遊んでいるとでも思ったか? その書状、確かに受け取った」
「あ、陛下……これは、その……辛さのあまり、口が勝手に!」
「アリシアの料理に嘘はつけない。お前の胃袋が、不実を拒絶したのだ」
ルイ様の言葉に、シャールカンはもはや声も出せず、床に這いつくばった。
背後で黒弓を構えていたテリオンが、ふんと鼻で笑い、弓を矢筒に戻す。
「……呆れたものだ。この程度の『熱』で本音を吐くとはな。アリシア、この男にはその皿の残りが相応しい。一粒残さず、その汚れた腹に詰め込ませるべきだろう」
テリオンが私に投げかけた視線は、依然として鋭かった。
だが、その瞳の奥には、伯爵への蔑みとは違う、もっと静かで深い「何か」が揺らめいているように見えた。
私は、手袋を直したクラリスと視線を交わし、完璧な微笑みで床の伯爵を見下ろした。
「あら、伯爵。お水が欲しいのでしたら、まずはそのお皿を完食してからですわ……店主との約束、忘れたとはおっしゃいませんわよね?」
◇
嵐は去った。
シャールカン伯爵は自らがぶちまけた「計画書」という名の毒を飲み込み、兵士たちと共にアストライアの闇へと連行されていった。
ルイ様の統治を揺るがそうとした企みは、アリシアの料理一つで、その根底から崩れ去ったのだ。
私は、嵐の後片付けをクラリスに任せ、一人裏口へと抜け出した。
冷たい冬の夜気が火照った頬に心地よい。
誰もいないことを確認して、私は――
(大・勝・利! ざまあみやがれですわ! 私の料理を侮るからそうなるんですのよ! ああ、清々しましたわ!!)
ドレスの裾を思い切り掴み上げ、冬空に向かって全力でガッツポーズを決める。
淑女の仮面を脱ぎ捨て、自由を全身で謳歌するこの瞬間。
だが、背後でパサリと、厚手の布がはためく音がした。
「……相変わらず、その『裏側』は鮮烈ですわね、アリシア様」
凍りついたように動きを止めた私の視線の先に、旅支度を整え、仕上げに防寒の上着を肩に羽織ったセシルが立っていた。
セシルはいたずらっぽく微笑むと、一歩近づいて私の手を取った。
「ルイ様の方も、ひとまずは落ち着くでしょう。私はこれからグラン・ロアへ戻り、伯爵が残した情報の処理をしてきますわ。アリシア様、貴女が作る料理が、いつまでもこの森の光でありますように……また、お腹を空かせたら戻ってきますわね」
セシルは霧の中へと消えていった。
その隣には、当然のように足取り軽く並ぶユリウスの姿があった。
「ルイ陛下。あの書状を元に、王宮に蔓延る『毒』を少しばかり中和してまいりますよ。お嬢様、次に私が戻る時まで、私の分のサンドイッチを忘れないでくださいね」
ユリウスは食えない笑みを浮かべて軽く手を振ると、セシルの影を追うように森の奥へと消えていった。
二人の「情報のスペシャリスト」が動く以上、アストライアの王宮にはこれから凄まじい冬の嵐が吹き荒れることになるだろう。
私は、彼らの背中が見えなくなるまで見送り、それから少しだけ乱れた髪を整え、再び「完璧な店主」の仮面を被り直した。
振り返り、店内に戻ろうとした時だ。
軒先で、テリオンが腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「……騒がしい連中だ。嵐が去ったというのに、一人で何を戦っている」
テリオンの声は相変わらず低く、突き放すような冷たさがあった。
彼は瞳を細め、私のすぐ横を通り過ぎる。
そこにあるのは、理解しがたい生き物を見るような、あるいは獲物の呼吸を計るような、狩人特有の鋭い観察眼だ。
けれど、彼が私の横を追い抜く瞬間、漆黒の矢羽根が私の肩に微かに触れ、冬の冷気とは違う微かな熱が流れた気がした。
テリオンは振り返ることなく、そのまま影に溶けるように厨房の入り口へと立ち去った。
「……本当、騒がしいのはどっちかしら」
私は小さく溜息をつき、温かな光が漏れるカフェの扉を押し開けた。




