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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第2章

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番外編 泥中のパンと、裏切りの価値

 王都グラン・ロア。

 そこはアリシアの実家であるヴァレンタイン公爵家が支え、数世紀にわたる繁栄を謳歌してきた大都市である。

 高くそびえ立つ白亜の尖塔、夜ごと石畳を琥珀色に染める贅沢な魔導灯の列。

 それはこの国の富と魔法文明の象徴であった。


 しかし、その光り輝く街並みのすぐ裏側には、湿った石畳と、行き場を失った溜息がよどむ迷宮が広がっている。

 降りしきる冷雨の中、若き日のセシルは泥を跳ね上げながら路地裏を走っていた。


「……あと、三日。これだけでは、あの子たちの腹は満たせない……」


 丸眼鏡の奥、鳶色の瞳が疲労に沈む。

 孤児院の運営を任されたばかりの彼女にとって、王都の冬はあまりに過酷だった。


 その時、霧の中から一人の男が浮き上がった。


「おやおや。情報屋の卵、セシル殿……君が喉から手が出るほど欲しがっている『オルフェウス男爵の不正証拠』、格安で譲りますが?」


 雨の霧の中から現れたその男――ユリウスを一目見た瞬間、セシルの背筋には冷たいものが走った。

 男の外套は高級な仕立てだが、ボタンの掛け方や袖口の汚れには、どこか「他人の目を欺くための隙」が計算ずくで配置されている。

 何より、インテリジェンスを感じさせる眼鏡の奥の瞳が、獲物を品定めする狐のように細められ、こちらを射抜いていた。


 セシルは丸眼鏡の結露を拭う間さえ惜しみ、男の重心の置き方、呼吸の間隔を観察して即座に結論を出した。


(この男……商人の皮を被っていますが、言葉に一切の熱がありませんわ。私と同じ、あるいはそれ以上に『裏側』に深く浸かった人間……)


「……詐欺師の言葉に、払える銀貨は持ち合わせていませんわ」


 セシルがそう断じた瞬間、背後の闇から冷徹な足音が響いた。


「セシル。この男の口車に乗ってはいけません。詐欺師の差し出す手は、常に毒が塗られているものですよ」


 そこに立っていたのは、クラリスだった。

 ヴァレンタイン公爵家に仕える前の、まだ何者にも縛られぬ身分。

 しかしその立ち振る舞いには、後に「完璧な侍女」と呼ばれることになる凛とした気品と、親友を案じる鋭い眼差しが同居していた。


「クラリス……なぜここに?」


「あなたが、自分の限界も忘れて無茶をしようとしているからです……私は、大切な友人を一人で死なせるほど薄情ではありませんわ」


 二人は、王都の片隅で支え合ってきた親友だった。


 孤児院の土地を狙う悪徳貴族、オルフェウス男爵。

 セシルは子供たちの家を守るため、男爵が地下倉庫に隠し持っているという「弱み」を奪う決意をしたのだ。


「ははっ、友情ごっこですか。ですが、男爵の金庫の鍵を開けられるのは、私くらいなものですよ……報酬は、金庫の中身の半分。これで手を打ちませんか?」


 ◇


 三人は、それぞれの想いを抱えて男爵の邸宅地下へと忍び込んだ。


 潜入は完璧だったはずだった。

 しかし、男爵の邸宅地下に足を踏み入れた瞬間、背後で重厚な石の扉が「死」を宣告するような重苦しい音を立てて閉ざされた。

 仕掛けられていた魔導封じの罠により、照明は消え、換気孔も閉じられた。

 残されたのは、肺を圧迫するような湿った闇と、わずかな酸素、そして死を待つための沈黙だけだった。


 ◇


 数時間が過ぎた。

 冷たい石の壁に背を預けたセシルは、指先一つ動かす気力さえ失いかけていた。

 三日間まともな食事を摂っていなかった体は限界を迎え、意識の端が暗闇に溶けていく。


「……セシル、しっかりしなさい。意識を手放しては駄目です」


 暗闇の中で、クラリスの震える声が響いた。

 彼女は爪が割れるのもいとわず、出口を求めて石壁の継ぎ目を探り続けていたが、その動きも次第に鈍くなっている。

 完璧な侍女の卵であった彼女でさえ、親友を救えない無力感にその心を削り取られていた。


 その時、不快な衣擦れの音を立てて、ユリウスが歩み寄った。

 彼は眼鏡を外し、眉間を指で押さえながら、自嘲気味な低い声で呟いた。


「……計算違いだ。死にかけのエージェントを抱えていては、脱出の確率は限りなくゼロに近い。効率が悪すぎる」


 ユリウスは懐から、上質な紙に包まれた「何か」を取り出した。

 それは彼が自分一人の生存率を上げるために隠し持っていた、最後の一片のパンだった。

 彼は迷うように一瞬そのパンを見つめたが、やがて乱暴にセシルの手元へ押しやった。


「おい、食え……勘違いするなよ。君のギルドの情報網がここで途絶えれば、私の将来的な利益が損なわれる。死にかけの『商品』ほど価値のないものはないんでね」


 差し出されたパンは、まだわずかに男の体温を宿していた。

 セシルは震える指でそれを掴む。

 香ばしい麦の香りが鼻腔をくすぐった瞬間、本能がそれを貪るように命じた。

 ……だが、彼女はその衝動を、丸眼鏡の奥に宿る強靭な精神で抑え込んだ。


「……毒、ですか?」


「ああ、最高の毒だ。これを食えば、君は一生この私を疑いきれなくなる。恩義という名の呪いに縛られる……詐欺師としては、これほど高くつく『嘘』もない」


 ユリウスはそう言い捨て、そのパンを自分の分として指の先ほどの小さな欠片だけをちぎり取ると、残りの大部分を――本来なら成人男性である彼が生き残るために必要だったはずの量を――無造作にセシルの掌へ押し付けたのだ。


「ユリウス、あなた……これでは自分の分が足りないのでは?」


「計算は済んでいる。私は詐欺師だ、自分の胃袋を騙すのなんて慣れっこさ。それに……死にかけの女二人の恨み言を聞きながら死ぬなんて、私の美学に反するんでね」


 ユリウスは眼鏡をかけ直し、わざとらしく壁の方へ顔を背けた。

 セシルは、そのまだ温もりの残るパンを愛おしむように見つめ、さらにそれを正確に二つに割った。そして、暗闇の中で彷徨うクラリスの手を引き寄せ、半分をその掌に載せた。


「セシル、何を……それはあなたが食べるべき……」


「食べてください、クラリス……これは、私の『我儘』です。親友であるあなたと、この不届きな詐欺師と一緒に……生きてここを出るための、契約ですわ」


 クラリスは息を呑み、掌のパンを見つめた。

 親友の温もりと、得体の知れない男の覚悟が混ざり合った、泥中の一片。


 三人は、ただ黙ってパンを口に運んだ。

 カサついた喉を通り、胃に落ちる確かな熱。

 ユリウスは隅で膝を抱えながら、わずかな欠片をいつまでも惜しむように咀嚼している。

 セシルとクラリスは、互いの肩の熱を感じながら、ゆっくりと、その慈悲深い味を嚥下した。


 それは単なる栄養補給などではなく、彼らの魂を繋ぎ止めるくさびとなった。

 打算で始まった協力関係が、暗闇の中で分かち合った一片のパンによって、鋼よりも硬い「絆」へと変質した瞬間だった。


 ◇


 翌朝。地下倉庫を揺るがす爆音が轟いた。


 ユリウスが潜入前に邸宅の外壁に仕掛けておいた「時限式の予備爆薬」が、計算通りに崩落を引き起こしたのだ。

 

 瓦礫の隙間から差し込む朝日は、あまりに眩しく、鋭かった。

 埃を払いながら外へ這い出した三人は、王都を照らす黄金の光に目を細めた。

 ユリウスは再び、どこか人を食ったような軽薄な笑みをその端正な顔に貼り付け直し、乱れた外套を整えた。


「さて、貸し借りはなしだ。セシル殿、君のギルドは私が『買収』するまで潰れてもらっちゃ困る……それからクラリス殿。君は、その完璧すぎる気質を活かせる『良い主人』を探すといい。私のような日陰者には、眩しすぎるくらいのね」


「ええ。次に会う時は、あなたのその安っぽい嘘を、私が最高の真実(情報)に変えて差し上げますわ、ユリウス」


 セシルは、汚れを拭った丸眼鏡を押し上げ、不敵に、そして深い信頼を込めて片目を瞑ってみせた。

 クラリスは、破れた袖口を隠すように背筋を伸ばし、去りゆく二人の背中を見据えた。


「……ご馳走様でした。そのパンの味、一生忘れることはありませんわ……親友として、そして、戦友として」


 ◇


 ――数年後。

 クラリスはヴァレンタイン公爵家に仕え、アリシアという一人の「光」のような令嬢に出会う。


 王都のどん底で結ばれたこの三人の絆は、誰に語られることもなく、胸の奥で静かに熱を帯び続けた。

 打算と裏切りが支配する街グラン・ロアで、たった一片のパンから始まった「契約以上の絆」。


 それが、後に森のカフェでアリシアを守る、最強の盾と矛になることを、三人はまだ知らなかった。

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