第5話 影の終焉と、深夜の淑女会
その時、森の温度がさらに急激に下がった。
舞い落ちる雪が不自然に黒く染まり、どろりと重い闇がカフェの敷地を這うように包み込んでいく。
「来ましたわね、下処理の必要な食客が……」
私はトレイをクラリスに手渡すと、エプロンの紐をきつく締め直し、腰に下げた「念のためのフライパン」を抜き放った。
庭の暗がりに、無数の赤い瞳が浮かび上がる。エドラスが自身の影を切り分けて生み出した、異形の魔物たちだ。
「ゾア、テリオン! 獲物は十分に揃っていますわ。存分に喰らいなさい!」
私の声が響くと同時に、銀色の矢が闇を貫いた。
闇の奥から、低く澄んだ声が返る。
「……動くな。私の獲物だ」
続けて、ゾアが巨大な戦斧を振り回し、凍った大地を砕きながら影の軍勢を薙ぎ払う。
「ガオッ! 主よ、ここは任せろ。お前の店は、鱗の一枚に代えても守る!」
二人の援護を背に、私は目の前に迫った影の塊へ、一切の迷いなくフライパンを叩きつけた。
ガインッッッ!!!
影が私の愛用する鉄塊に触れた瞬間、火花を散らして霧散する。
「調理前の下処理は、迅速かつ正確に! これ、鉄則ですわ!」
右から迫る影をフライパンの底で押し潰し、左からの攻撃を側面で弾き飛ばす。
私の「フライパン無双」は、もはや一つの演武のようだった。
しかし、闇の根源であるエドラスの本体が、嘲笑うようにカフェの屋根に降り立つ。
「くかか……やはりお前だ、アリシア! その熱、その魂、私がすべて飲み干して――」
「黙れ、卑小な影が」
その声が響いた瞬間、凍てつく空気が爆ぜた。
ルイ様がテラスの端に立ち、右手を天に掲げている。
その姿はもはや一人の客ではなく、この国の頂点に立つアストライアの真王そのものだった。
「我が領土を侵し、我が愛する者の安らぎを乱す不届き者よ――光に焼かれ、土に還るがいい」
ルイ様から溢れ出した黄金の魔力が、極夜の森を真昼のように、いや、それ以上の熱量で照らし出した。
それは降り積もる雪さえも一瞬で蒸発させるほどの、純粋で絶対的な王の権能。
「信じられませんわ! 術式も詠唱もなしに、これほど純度の高い魔力を展開するなんて……!」
厨房の窓からその光景を見ていたカトリーナが、驚きに目を見開いて呟く。
真理を追究する彼女ですら、ルイ様の放つ、理を捻じ伏せるような「王の光」には感嘆の色を隠せなかった。
「ぎ、あああああッ!? 熱い、熱すぎる……! 光が、我が存在を消し去っていく……ッ!!」
エドラスは断末魔の叫びを上げながら、光の奔流に飲み込まれていく。
私は最後の一撃として、空高く飛び上がり、光に焼かれ弱体化したエドラスの核へとフライパンを振り下ろした。
ドゴォォォンッ!!!!!
凄まじい衝撃音と共に、エドラスの影は完全に霧散し、森には再び静寂と、ルイ様の魔力の名残でキラキラと輝く雪の結晶だけが残された。
◇
店内では、薪ストーブがパチパチと音を立てて燃え、スパイスの香りが満ちている。
私は、たっぷりとおろした生姜に、森の蜂蜜と数種類のスパイスを合わせた、とびきり辛くて温まるジンジャーティーを皆に振る舞った。
「……ふん、悪くない。喉が焼けるようなこの辛さ、戦いの後の対価としては合格点だ」
テリオンが不遜ながらも満足そうにカップを傾ける。
その隣で、ゾアも大きな鱗の手で丁寧にカップを持ち、熱いお茶を一口ずつ噛みしめるように飲んでいた。
「ルイ様の魔法、本当にお見事でしたわ。カトリーナがこれほど驚くなんて、滅多にないことですのよ?」
私の言葉に、カトリーナは少し気恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、深く頷いた。
「ええ……あれほどの魔力を無詠唱で……ルイ、その紋章が持つ『真の王の力』、私が思っていた以上に厄介で、そして強大ですわ」
カトリーナの言葉に、ルイ様はジンジャーティーの湯気越しに、少しだけ険しい表情を浮かべた。
エドラスを倒しても、彼の紋章――「王の証」を狙う勢力は国内外に数多く存在する。
その筆頭が、弟であり、今は対立しているカインだ。
「……ああ。エドラスは消えたが、奴を裏で操り、私の紋章を狙っていた連中はまだ潜んでいる。それに、カインもこのまま引き下がるとは思えん」
ルイ様はふう、と息をつくと、いたずらっぽく私を見つめた。
「だからこそ、決めたのだ。アリシア、悪いが私の『アストライア帰還』は当分先になりそうだ。エドラスを討ったことで、この森の防衛力は証明された。私はここを正式な『出張執務室』として使い、紋章を巡る争いをここで終わらせることにする」
「……はい? 出張、執務室?」
「そうだ。バルトには、明日から王宮の重要書類をすべてここへ運ぶよう命じた。君には引き続き、陛下の『専属料理人』として、胃袋の管理を頼みたい」
それは、私の平穏な隠居生活が、国家規模の勢力争いに完全に巻き込まれた瞬間だった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいませ! 陛下がここにいらっしゃり続けるということは、これからもいつ刺客が来てもおかしくないという……」
「そういうことだ。だが安心してくれ。君の料理とフライパンがあれば、どんな刺客も返り討ちだろう?」
ルイ様は何も言わずに微笑み、まるで当然のように私を見る。
私は大きなため息をつきつつも、どこか誇らしげなテリオンやゾア、そして呆れ顔のカトリーナを見て、覚悟を決める。
(よろしいですわ。こうなったら、世界で一番物騒で、世界で一番美味しい『王の隠れ家』として、徹底的に経営して差し上げますわ!)
外では雪が止み、ルイ様の魔力の名残が、夜の森を琥珀色に優しく照らし出していた。
◇
ルイ様たちがログハウスへ戻り、ようやく店内に静寂が訪れた頃。
私は、クラリスとカトリーナを誘って、閉店後の厨房のテーブルを囲んでいた。
「皆様、本当にお疲れ様でした。冷えた体に、今度は『眠りのお茶』を用意しましたわ」
私が淹れたのは、カモミールをベースにしたリラックスティーだ。
クラリスは、いつものように無表情ながらも優雅な所作で、お茶の香りを胸いっぱいに吸い込み、ふうと小さな吐息をついた。
「お嬢様。本日のフライパン捌き、実にお見事でしたわ。公爵閣下にお見せしたら、きっと感涙のあまり庭を三周ほど走り回られたことでしょう」
「もう、クラリスったら。あれはただの『調理』の延長ですわ」
私が照れ隠しに笑うと、カトリーナが贅沢な杖をテーブルに立てかけ、プラチナブロンドの縦ロールを指で弄りながら、高慢に顎を上げた。
「おーっほっほっほ! 本当に、家名を汚す出来損ないの令嬢かと思えば、とんだ野蛮な料理人ですわね! あんな不潔な影の塊を、物理的に叩き潰すなんて……首席卒業の私でも、さすがに計算外ですわ!」
カトリーナはそう言って笑うが、その瞳にはアリシアへの確かな信頼が宿っている。
「でも、本当に驚いたのは陛下の魔力よ。アリシア、あなたはあの方の『紋章』の本当の意味を知っているの?」
カトリーナの真紅の瞳が、魔導師としての真剣な光を帯びる。
「あの紋章は、アストライアの魔力の源泉そのもの。陛下がここに留まれば、カイン様をはじめとする勢力は、それを手に入れるために手段を選ばなくなるわ。彼らにとって、この店はもはやただのカフェではなく、奪うべき『宝物庫』なのよ」
「宝物庫ですって? 困りますわ。ここにあるのは、美味しい食材と、居心地の良い椅子くらいですのに」
「あら、それが一番の贅沢だってことに気づかないのかしら? この鈍感なところも『出来損ない』と言われる所以ですわね、おーっほっほ!」
カトリーナの毒舌混じりの笑い声に、クラリスが静かに茶菓子を差し出しながら口を開いた。
「お嬢様、カトリーナ様の仰る通りです。王宮では、陛下が『森の魔女』にたぶらかされているという噂まで流れているとか……バルト様が仰るには、近いうちにカイン様派の貴族たちが、直接この店を『査察』しに来る可能性が高いそうです」
「魔女に査察……賑やかになりそうですわね。でも、ここを汚させはしませんわ」
私は窓の外、雪に覆われた静かな庭を見つめた。
テリオンが残した足跡、イグニスが耕した畑。そして何より、ルイ様が守ろうとしたこの場所。
「よろしいですわ。どなたがいらしても、美味しい料理と……失礼な方には、精一杯の『フライパンによるおもてなし』を差し上げますわ!」
「頼もしいことです。ではお嬢様、明日の朝食は、王宮からの『ネズミ』たちがいつ現れてもいいように、少しばかり腹持ちの良いものにいたしましょう」
クラリスが静かに頷き、カトリーナが再び「おーっほっほ!」と夜の静寂を揺らす。
私たちは、冷えた指先を温かなお茶で溶かしながら、これから訪れるであろう激動の日々に想いを馳せ、静かに夜を深めていった。




