第4話 初雪の調べと、白銀の来客
朝。
森は、息を呑むほど澄み渡った光に包まれていた。
空からひらひらと舞い落ちてきたのは、この冬初めての雪。
私は、ほかほかと湯気を立てるスープと、焼きたてのパンをトレイに乗せて外へ出た。
庭の木々はうっすらと白く縁取られ、踏みしめるたびに雪が小さく鳴る。
吐く息は白く、静けさの中で薪のはぜる音だけが遠くに聞こえた。
そのまま、離れのログハウスへ向かう。
「ルイ様、朝食をお持ちしましたわ」
扉を開けると、そこには優雅な休息とは程遠い光景が広がっていた。
広い机を埋め尽くすのは、王宮からバルトが「ついで」と称して運び込んだ膨大な書類の山。
ルイ様は眉間に皺を寄せ、凄まじい速度でペンを走らせている。
「……ああ、アリシア。すまない、すぐ片付ける」
「無理はなさらないでくださいませ。王宮へ戻られたときに激務で倒れられたら、私、フライパンを持って抗議に行かなくてはなりませんわ」
私の冗談に、ルイ様はふっと表情を緩め、ペンを置いた。
◇
ルイ様をログハウスに残し、私は開店準備のために母屋へと戻る。
庭では、かつてお父様の部下だった騎士たちが、慣れない手つきでテラスの椅子を拭いていた。
彼らも「陛下の守護」という名目で、今では立派なカフェの従業員(仮)だ。
「クラリス、そちらの準備は終わりました?」
「はい、お嬢様。テーブルの設え、並びにカトラリーの点検、すべて完了しております。いつお客様がいらしても、完璧な状態でお迎えできますわ」
クラリスは無表情のまま、けれど流れるように優雅な動作でスカートの端を摘まみ、一礼してみせた。
その落ち着いた佇まいは、ここが深い森の中であることを忘れさせるほどに洗練されている。
隣ではカトリーナが杖を一振りし、オーブンを最適な温度に暖めていた。
ふと庭に目を向けると、イグニスが黙々と土をいじっている。
取り立て屋としての鋭い気配を消し、今は冬の根菜を収穫しているようだが、その無表情さが逆に騎士たちを戦慄させていた。
テリオンとゾアは、朝一番で森の深部へと見回りに出かけている。
そんな時だった。
静かな森の奥から、鈴を転がすような、けれど懐かしい調べが聞こえてきたのは。
「驚いたわ。初雪と共に訪れれば、少しは静かになっているかと思ったけれど……以前にも増して、命の輝きが強まっているのね」
庭の柵の外に、白銀の髪をなびかせたエルフの女性――セレスティアが立っていた。
彼女は、庭を警護する騎士たちや、一心不乱に土を弄るイグニスに視線を向けると、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「太陽がこの森に留まっているのは、奇跡のような巡り合わせだと言ったけれど……どうやらその輝きは、絶えるどころか、より多くの命を惹きつけてしまったようね。この日、森に初雪が降る。でも、太陽があるから凍えたりはしないわね……」
彼女の翠色の瞳が、イグニスが抱えた泥だらけの立派なカブを射抜く。
「その男からは、あまり芳しくない『血の匂い』がするけれど。でも、彼が育てている野菜たちは、驚くほど純粋な喜びに満ちているわ。不思議な場所ね」
「セレスティア、お久しぶりですわ! さあ、中へどうぞ。ちょうど、初雪にぴったりの温かいお料理をご用意しようと思っていたところなんです」
私は彼女をテラスの一等席へ案内した。
「今日のご馳走は、『初雪の根菜ポタージュと、森の恵みの温サラダ』ですわ。イグニスが収穫したばかりの、大地の滋養をたっぷり詰め込んで差し上げますわね」
セレスティアは、空から降る雪がカフェの暖かな空気に触れて、キラキラと光の粒に変わる様子を眺めながら、静かに微笑んだ。
「ええ。この森の奇跡、存分に味あわせてもらうわ」
◇
厨房に戻った私は、イグニスが泥を落として届けてくれたばかりの野菜を手早く調理し始めた。
カブ、ニンジン、それに少しのジャガイモ。
冬の寒さに耐えて甘みを蓄えた根菜たちをバターでじっくりと炒め、琥珀色のスープで煮込んでいく。
「カトリーナ、仕上げをお願い。温度はセレスティアの喉を潤すのに最適な、心地よい微温で」
「おーっほっほっほ! 任せなさい! 私の魔法をかければ、雪の結晶でさえ溶けずに残るほど、完璧な微温に仕上げてあげますわ!」
カトリーナが杖を振ると、スープの表面に微かな銀色の輝きが宿った。
私はそれを、クラリスが点検し終えたばかりの白磁の器に注ぎ、テラスへと運んだ。
「お待たせいたしました、セレスティア様。『初雪の根菜ポタージュ、雪の結晶を添えて』ですわ。それと、イグニスのグリルサラダもご一緒に」
セレスティアは、目の前に置かれた料理から立ち上る香りに、そっと目を細めた。
彼女がスプーンを運び、一口含んだ瞬間。テラスを舞っていた初雪が、まるで意思を持っているかのように彼女の周りで円を描いて踊りだした。
「……信じられない。このカブの甘み……大地を無理やり切り拓くような暴力的な味ではないわ。土と語り合い、一粒の種が持つ『生きたい』という願いを、ただ静かに見守り、助けた者だけが引き出せる慈愛の味だわ」
彼女の視線の先には、相変わらず無表情で畑の隅を耕しているイグニスの姿がある。
セレスティアは苦笑を漏らし、サラダの葉を愛おしそうに眺めた。
「『血の匂い』のする男が、これほどまでに『生』に寄り添う料理の素材を作るとはね。アリシア、あなたの周りでは、毒さえも甘い蜜に変わるのかしら」
「毒だなんて、滅相もありませんわ。彼はただ、少しばかり……手が早いだけですの」
私が冗談めかして微笑んでいると、ログハウスの方からゆっくりとした足音が近づいてきた。
休憩を兼ねてテラスへやってきたルイ様だ。
バルトが背後に控え、王としての威厳を纏いながらも、その表情はアリシアを見つけて柔らかく緩んでいる。
「……おや。美しい客人が来ているようだな」
ルイ様が歩み寄ると、セレスティアは優雅に立ち上がり、エルフ独特の古風な礼を捧げた。
「アストライアの太陽王……やはり、この森の光が強まったのは、あなたがここに根を下ろそうとしているからなのね」
「森の賢者、セレスティアか。私の名はルイだ。今はただ、この店の最高の料理に魅了された一人の客に過ぎないがね」
ルイ様はセレスティアの向かいに腰を下ろした。
王とエルフ。
その二人が並ぶ姿は、まるで古い叙事詩の一場面のようだ。
セレスティアは、空から降る雪を見上げながら、ポツリと呟いた。
「ルイ。太陽が地上に留まれば、影はより色濃く、深く伸びるわ。あなたがここに居続ける限り、追い出されたはずの『闇』は、飢えた獣のようにこの温もりを奪おうとするでしょう……でも、心配はいらないわね」
彼女は、チラリと私の腰元――ではなく、厨房に置いてきた「フライパン」のあった場所へ視線を向け、悪戯っぽく微笑んだ。
「この森の主は、あなたでもバルトでもない。この柔らかな手で、闇さえも美味しく料理してしまう……彼女こそが、この奇跡の守護者なのだから」
セレスティアが再びスプーンを口に運ぶ。
初雪が降り積もる森の中で、カフェ・ヴァレンタインは今日もまた、世界のどこよりも暖かな光を放ち続けていた。
◇
セレスティアは最後の一口を惜しむように飲み干すと、音もなく席を立った。
「ごちそうさま、アリシア。この雪が溶ける頃、森の命運は一つの答えを出すでしょう……太陽の輝きを信じているわ」
彼女が森の奥へと消えていくのと入れ替わるように、庭の影が不自然に長く伸びた。
見回りから戻ったテリオンが、泥のついたブーツのままテラスの縁に足をかけ、不敵な笑みを浮かべてルイを見下ろした。
「おい、アストライアの王。のんびり茶をしばいている暇があるなら、今のうちに逃げる準備でもしたらどうだ……エドラスの奴、こないだの『鉄板焼き』が余程お気に召したらしい。王宮の包囲網を食いちぎって、より強い『熱』を求めてこの店へ真っ直ぐ向かってきているぞ」
ルイ様は不遜な態度を咎めることもなく、冷徹な王の瞳でテリオンを見据えた。
「……逃げる必要などない。先日の味では、まだ懲りなかったというわけか。私を狙うだけでなく、この店そのものを飲み込もうというのだな」
私は、空の器をトレイにまとめ、ルイ様へ向けて完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
「あら、熱烈なおかわり希望ですわね。ルイ様、今夜は一段と冷えますわ。エドラスの『下処理』が終わる頃には、冷えた体によく効く、とびきり辛いジンジャーティーを用意しておきますわね」
ルイ様は私の言葉に、信頼の入り混じった不敵な笑みを返した。
「ああ。奴には、二度と立ち上がれぬほどの『特注の火加減』を味わわせてやろう」
ルイ様の緑玉の瞳が、静かに、けれど激しく燃え上がる。
初雪が積もる静寂の中、決戦の気配が確実にカフェを包み込み始めていた。




