第3話 交わる熱と、鉄鍋の洗礼
食卓を彩った「太陽を称える、琥珀のロゼ・ロースト」は、すっかり皆の胃袋へと収まっていた。
テラスを包むのは、上質な肉の脂とハーブの香りが混じり合った、温かくも安らかな空気。
ゾアは満足げに喉を鳴らして巨体を椅子に預け、テリオンは食後の葡萄酒をゆっくりと揺らしている。
イグニスもまた、影の中でその鋭い気配をわずかに緩めていた。
だが、その和やかさの底には、先ほどまでこの場所を汚していたエドラスの冷たい「死の匂い」が、澱のように沈んでいる。
ルイ様は最後の一口を飲み干すと、ナプキンで口元を拭い、そっと視線を上げた。
そのエメラルドの瞳には、食事中の穏やかさとは異なる、鋭く深い光が宿っている。
「……皆、聞いてくれ。明朝、私は一度アストライアへ戻る予定だったが、これを取りやめる」
その一言で、テラスの空気がピリリと引き締まった。
私は驚きに目を丸くし、ルイ様の横顔を見つめる。
彼は、私の手をテーブル越しに優しく、けれど離さないという強い意志を込めて握った。
「カインの残党……エドラスと言ったか。あのような卑劣な影がこの森を狙い、あろうことかアリシアにまでその汚らわしい指を向けようとしている。王として、そして、一人の男として、これを放置して帰るなど到底できそうにない――バルト、構わないな?」
背後に控えていたバルトが、眼鏡の奥の瞳を冷徹な守護者のものへと変え、深々と一礼した。
「御意のままに、陛下。不潔な塵を片付けるのは私の役目です。陛下が戻られた際、仕事に集中できるよう、今のうちに外の『汚れ』はすべて、私がこの世から消しておきましょう」
バルトの言葉には、エドラスに対する容赦ない抹殺の意思が籠もっていた。
ルイ様は満足げに頷き、再び私の方へ向き直る。
「と、いうわけで、アリシア。今日からまた世話になる……いいかな?」
王様としての威厳ある問いかけ。
けれど、その握られた手のひらからは、私を独りにしておきたくないという、熱い執着が伝わってきた。
私は淑女の微笑みを崩さず、静かに、けれど力強くルイ様の手を握り返した。
「もちろんですわ、ルイ様。この店に指一本触れさせるような野暮な真似、私がフライパン……いいえ、全力で阻止して差し上げますわ」
◇
夕食後のテラスには、穏やかな時間が流れていた。
テリオンは闇に溶けるように森の見回りに、ゾアは裏手の警備に。
バルトはと言えば、店周辺の落ち葉一つ残さない徹底的な庭掃除に没頭している。
「……アリシア。少し、場所を変えないか。ここでは風が冷たすぎる」
ルイ様の静かな誘いに、私は小さく頷いた。
私たちが立ち上がると、庭掃除をしていたバルトが一瞬だけこちらに視線を向けた。
彼は何も言わず、ただ深く優雅に一礼すると、そのまま気配を消すように森の闇へと去っていった。
離れのログハウスへ足を踏み入れると、木の香りとルイ様が纏う白檀の香りが混じり合い、一気に濃密な空気に包まれる。
一週間ぶりの再会だというのに、先ほどまでは騒動続きで、まともに言葉を交わす余裕もなかった。
「……アリシア。ずっと、こうして君と二人きりになりたかった」
ルイ様の優しい声に、胸の奥で心臓が跳ねた。
私は気持ちを落ち着かせるように、彼のために淹れ直した温かな紅茶をそっとテーブルに置く。
そして、冗談めかして微笑んだ。
「戻られた後に激務で倒れてしまわれては困りますわ、ルイ様。エドラスには、できるだけ早めに決着をつけていただかないと」
言葉とは裏腹に、本心が滲んでいたのかもしれない。
ルイ様はふっと苦笑を漏らすと、伸ばした私の手を、両手で包み込んだ。
大きな手の温もりが伝わり、張り詰めていた緊張が、静かに溶けていく。
「厳しいな。だが、本当のことを言えば……エドラスという口実を得て、もう少し長く君と一緒にいたいというのが、私の本音なんだ」
ルイ様の顔が近づき、私たちの距離が縮まる。月明かりに透けるエメラルドの瞳が熱を帯びて揺れ、真っ直ぐに私を射抜いた。
「……一週間。長かった。王宮で書類を片付けている間も、ずっと君の笑顔を思い出していた。もう、君を遠ざけておくのは限界だ」
ルイ様が私の肩を引き寄せ、頬に温かな手が添えられる。彼の体温が伝わるにつれ、私の思考は白く塗りつぶされていった。
「……いいかい、アリシア」
答えを待つまでもない、切実な問いかけ。
私は微かに震える声で「……はい」とだけ応じた。
重なったのは、羽毛のように優しく、けれど確かな独占欲を孕んだ口づけだった。
(………………っ!!)
ルイ様の髪から漂う白檀の香りと、唇から伝わる熱さに、脳内が多幸感でふわふわと浮き立っていく。
ルイ様はゆっくりと顔を離すと、満足げな、けれど、どこかまだ我慢できないといった様子で微笑んだ。
「……本当は、これだけでは足りないのだが……今は、もう少しだけこうさせてくれ」
そう言って、ルイ様は私の肩に顔を埋め、深く、深く息を吐き出した。
このまま、静かな夜が過ぎていくのだと、誰もが思っていた。
――その時。
静寂を破る、ズルリ……という不快な湿った音。
ルイ様の肩に顔を埋め、その温もりに浸っていた私の意識は、一瞬で「店主モード」へと切り替わった。
(この不潔な気配。さては、さっきのローストビーフに味を占めて、おかわりをねだりに来ましたわね?)
ログハウスの窓枠を汚らわしく這い上がってくる、エドラスの影。
ルイ様の腕の中で、私は完璧な淑女の微笑みを崩さないまま、傍らの荷物袋へと音もなく手を伸ばした。
そこにあるのは、慣れないログハウスでの生活を案じ、「念のため」に母屋から持参していた、使い慣れたピカピカの鉄製フライパンだ。
「……アリシア? どうしたんだい」
ルイ様が異変に気づき、顔を上げたその瞬間。
私は彼の腕をすり抜け、優雅かつ電光石火の速さで窓際へと躍り出た。
「せっかくの素敵な夜を、泥棒猫さんに汚させるわけにはいきませんもの……ちょっと、手が滑りますわね?」
窓を勢いよく開放すると同時に、私は手首のスナップを利かせ、渾身の力で鉄塊――もとい、愛用のフライパンを振り下ろした。
――ガインッッッ!!!!!
夜の森に、金属が影を物理的に磨り潰す、凄まじい衝撃音が響き渡る。
「ギ、ア……ッ!? バ、バカな……実体のない我が影を、ただの調理器具で……ッ!?」
窓枠に指をかけていた「影の腕」が、文字通りぺしゃんこにひしゃげ、火花を散らして悶絶している。
私はフライパンを握り直すと、冷徹なまでの笑顔で、這い蹲る影を窓越しに見下ろした。
「無銭飲食におかわりまでねだるとは、強欲な鼠さんですこと……お引き取りくださいませ!!」
ドスッ! ゴンッ!!
逃げようとする影の頭を、フライパンの底で正確に叩き潰す。
一撃ごとに、エドラスの「ヒッ、アガッ!?」という情けない悲鳴が森の奥へと吸い込まれていった。
「なっ……」
背後でルイ様が、見たこともないような呆然とした顔で絶句している。
はっ、と我に返った私は、血の気の引いた影が霧散するのを見届けてから、ゆっくりとフライパンを下ろした。
「失礼いたしました、ルイ様……少々、虫が騒がしかったようですわ」
私は何事もなかったかのようにフライパンを背後に隠し、完璧な淑女の微笑みで振り返った。
ルイ様は戸惑ったように、けれどどこか感心したような面持ちで、私が背後に隠した「念のための鉄塊」を見つめている。
「……アリシア。君は、その……護身用の装備も、なかなか独創的なのだな」
「お恥ずかしいところをお見せしましたわ。ですがルイ様、料理人にとってフライパンは己の腕の延長。最高の料理を作る道具で、最高に不潔な影を払う。これこそ、お店の鮮度を守るための『下処理』ですわ」
「……なるほど。あのアクの強そうな影も、君にかかれば調理の対象というわけか」
私の言葉に、ルイ様は一瞬きょとんとした後、心底楽しそうに声を上げて笑った。
「ふふっ……ははは! 全くだ。やはり、ここを私の拠点にすると決めて正解だった。これほど頼もしいパートナーの側なら、どんな難敵が相手でも、私は退屈せずに済みそうだ」
ルイ様は再び歩み寄ると、私の手からフライパンをそっと取り上げてテーブルに置き、今度は優しく両手で私の顔を包み込んだ。
「改めて言わせてくれ。エドラスを討つまで、私は君のそばを離れない。この店を私の王宮とし、君の料理を私の力の源とさせてもらうよ」
夕食後に皆の前でした宣言を、今度は二人きりの誓いとして。
私は幸せな熱を帯びたまま、静かに頷いた。
「もちろんですわ、ルイ様。次にあのような影が現れても、私が最高の火加減で叩き伏せて差し上げますわ」
窓の外、森の奥では、フライパンで文字通り「物理的な味」を教え込まれたエドラスが、頭を抱えて震えていた。
王様が常駐し、店主が最強の武器(調理器具)を構える――世界で一番物騒で、世界で一番美味しい「移動王宮」の夜は、こうして甘やかに更けていくのだった。




