第2話 団結の食卓と、忍び寄る食客の影
伝令の叫び声に、和やかなテラスの空気は一瞬で凍りついた。
「陛下! 王都の地下牢より、カイン様を支持していた元貴族たちが集団脱獄いたしました! 彼らは『真の王を迎え入れる準備を整える』と不穏な声明を出しており、主犯格と思われる男がこの森の方向へ向かったとの情報が……!」
ルイ様の手の中で、ティーカップが微かに揺れた。
エメラルドの瞳が鋭く細められ、彼は即座に傍らのバルトへ視線を送る。
「……カインの独房には、私の紋章による封印を施してある。奴ら、直接カインを狙わず、先にその源である私を削りに来たか」
その時。
カフェを囲む森の木々が、ざわりと不自然に波打った。
茂みの奥からゆっくりと姿を現したのは、影そのものが形を成したかのような男だった。
漆黒の法衣は裾がボロボロに解れ、歩くたびに微かな灰が舞う。
深く被ったフードの隙間からは、病的なまでに青白い肌と、落ち窪んだ眼窩で爛々と輝く、濁った金色の瞳が覗いていた。
男は周囲の空気を凍らせるような歪んだ笑みを浮かべている。
ルイ様が鋭い視線で射抜くが、男はひるむどころか、陶酔したようにルイ様の手の甲に刻まれた太陽の紋章を、じりじりと舐めるような視線で見つめた。
「……何者だ。カインの残党か」
ルイ様の低い問いかけに、男は優雅に、けれどどこか冒涜的な所作で一礼してみせた。
「……お初にお目に掛かる、太陽を継ぐ器よ。我が名はエドラス。カイン様こそが真の王であると信じ、その影に仕える忠実な僕にございます」
自ら名乗ったその名は、ルイやバルトの記憶にはないものだった。
カインが表舞台の裏で、密かに育て上げていた狂信的な私兵団――その指導者。
「エドラスだと……? カインは既に罪を認め、地下深くに繋がれている。往き場を失った鼠が、今さら何の用だ」
バルトが剣の柄に手をかけ、威圧するように一歩踏み出す。
だがエドラスは、その威圧を心地よい風でも受けるかのように受け流した。
「鼠? くくっ、左様。地下に潜む鼠は、静かに、確実に、その根を噛み千切るもの。案ずるな、ルイ。我が主はまだあの暗い地下でお休みだ。だが、貴様が絶望に染まり、その紋章の輝きが消え失せる時、カイン様は真の王として自らあそこを歩み出されるのだ」
エドラスはそう言い捨てると、手をかざして不気味な黒い霧を撒き散らした。
「まずは……その温かな居場所から、影で塗り潰してやろう。次に会う時を楽しみにしておりますよ、偽りの王よ」
エドラスが細い指先を弾くと、テラスの床に落ちたルイ様の影が、生き物のように一瞬で膨れ上がった。
黒い棘のような影の刃が、足元からルイ様を貫こうと猛烈な勢いで伸び上がる。
「――ルイ様!」
私が叫ぶのと同時に、ルイ様の手の平から眩いばかりの光が溢れ出した。
彼が放った「極低温の白い炎」のような熱の波動が、迫りくる影を瞬時に焼き払い、テラスの空気を一気に爆ぜさせる。
「ほう。私の影を、ただの熱量だけで蒸発させるとは……流石は太陽を継ぐ器だ」
エドラスはそれすらも楽しげに眺め、自らの体を不気味な煙へと変えていく。
「ぬう。死した獣の腐肉のような匂いだ。不吉な術を使うな」
ゾアが斧を豪快に振り下ろしたが、刃は黒い煙を虚しく通り抜けるだけだった。
テリオンが放った三本の矢も、煙の向こう側の木々に力なく突き刺さる。
「くくっ……その光が、いつまで絶望を照らしていられるか……じっくりと、味見をさせていただくとしましょう」
嘲笑うような残響を残し、黒い煙は森の闇へと吸い込まれるようにして霧散していった。
「……逃げ足の速い奴だ。追うか? ルイ」
テリオンの問いに、ルイ様は静かに首を振った。
「いや、奴の狙いは私だ。深追いしてここを空けるわけにはいかない」
沈痛な面持ちで森を見つめるルイ様。
周囲の仲間たちも肩を強張らせる。
……せっかくの休日が、台無しだ。
◇
エドラスが去った後、テラスには言いようのない不浄な気配が沈殿していた。
エメラルドの瞳を険しく光らせ、森の闇を凝視し続けるルイ様に、私はそっと寄り添う。
「……すまない、アリシア。私の因縁に、君やこの店を巻き込んでしまった」
ルイ様の声は、いつになく沈んでいた。
太陽を継ぐ王としての責任感が、彼自身の心を削っているのが手に取るようにわかる。
私はわざとらしく、腰に手を当てて胸を張った。
「何を仰いますの、ルイ様。巻き込まれたなんて思っていませんわ。このお店は、ルイ様が守ってくださった私の『自由』そのものですもの!」
私の言葉に、ルイ様がふっと目元を緩める。
その僅かな変化を見逃さず、背後に控えていたゾアが巨大な斧を地面に突き立てた。
「ガオ! 主の言う通りだ。陛下、案ずることはない。これよりは我がこの店の周囲を巡回し、警備を固める。あの影法師が二度と敷居を跨げぬよう、このゾアが門番となってやろう」
「ふん。トカゲの鼻だけでは心許ないな」
テラスの欄干に音もなく飛び乗ったのは、テリオンだった。
彼は漆黒の羽根をあしらった矢の具合を確かめながら、宝石のようなカメリアの瞳を森へと向ける。
「木々の囁きを聞くのは、森の狩人の領分だ。鼠一匹、この敷地には通さない……ルイ、お前は陛下としてどっしりと構えていろ。私たちに任せておけ」
そう言って不敵に笑ったテリオンだが、すぐに言葉を継いだ。
「その代わり……我々の集中力を切らさないための『対価』が必要だな。アリシア、分かるだろう?」
「ええ、もちろんですわ! 腕によりをかけて、とっておきのお料理を用意しますわね。クラリス、カトリーナ、手伝ってくださいな!」
◇
今日作るメインディッシュは、香味野菜をたっぷりと添えたローストビーフだ。
まずは厨房の奥から、美しくサシの入った大きな牛塊肉を取り出す。
これに塩胡椒をきつめに振り、たっぷりのニンニクと共に表面を強火で一気に焼き上げる。
肉汁を閉じ込めるための、ジュウッという景気のいい音が厨房に響き渡る。
「カトリーナ! そちらのオーブンの温度、百八十度で安定させていただける?」
私が声をかけると、真紅の魔導衣を翻したカトリーナが、誇らしげに杖を掲げた。
「おーっほっほっほ! 王立魔導院首席の私に、温度調節なんて初歩中の初歩を命じるなんて不敬ですわよ! でも、仕方ありませんわね。私の魔力が生み出す完璧な熱源で、その肉を至高の芸術に仕上げてさしあげますわ!」
カトリーナの繊細な魔力操作により、最新式オーブンが理想的な熱を帯び始める。
その間、クラリスが庭で摘んできたばかりの新鮮なハーブを山のように抱えて戻ってきた。
「お嬢様、セロリにパセリ、それから香りの強いローズマリーとタイムです」
クラリスの手によって、手際よく野菜が刻まれていく。
刻まれた野菜は鍋に移され、弱火でじっくりと炒められた。
油をまとって艶を帯びはじめたところで、香草が加えられ、木べらで静かに混ぜ合わされていく。
ほどよく火が通ったところにワインが注がれ、野菜の旨味を溶かし込むように、ソースはゆっくりと煮詰められていった。
オーブンの中、野菜の甘い香りと肉の焼ける芳醇な匂いが混ざり合い、カフェ全体に広がっていく。
その匂いに釣られるように、いつの間にかカウンターの端に、一人の男が座っていた。
「……ふむ。死の臭いを上書きするには、十分すぎる香気だな」
イグニスだ。
彼は黒い帽子を目深に被ったまま、手元のダガーを研石で静かに研いでいる。
その研ぎ澄まされた刃の冷たさが、逆に今の厨房の活気を引き立てているようだった。
「イグニス、貴方も食べていかれますでしょう?」
「……当たり前だ」
相変わらずの不遜な物言いに苦笑しながら、私はオーブンから肉を取り出した。
薄い金属箔に包んで休ませた後、丁寧にナイフを入れると、中心部は美しい琥珀色がかったロゼ。
溢れ出す肉汁と、クタクタに火が通った香味野菜のソースが絶妙なハーモニーを奏でている。
テラスの大きなテーブルに、大皿に盛られたローストビーフが運ばれた。
「さあ、召し上がれ! アリシア特製『太陽を称える、琥珀のロゼ・ロースト』ですわ!」
テラスの円卓の中央にルイ様が座り、そのすぐ右脇をバルトが、左脇を私が固める。
ゾアはその巨体で椅子を軋ませて豪快に肉を見つめ、テリオンは欄干に背を預けたまま、隣の席で優雅にワインを傾けるカトリーナを冷ややかな、けれどどこか楽しげな瞳で眺めていた。
クラリスが給仕として私を完璧にサポートする中、少し離れた柱の影に置かれた小テーブルでは、イグニスが一人、研ぎ澄まされた刃のように静かにその身を休めている。
ルイ様が、琥珀色に輝く最初の一切れを口に運ぶ。
「……美味い! 野菜の旨味が肉の奥まで染み込んでいる。アリシア、君の料理にはいつも驚かされるな」
「陛下、私にもその野菜を! 肉との相性が抜群です!」
「ぬう! この肉、噛むほどに力が湧いてくるぞ!」
「……ふん。悪くない。弓を引く指が滑りそうになるほど脂が乗っているな」
みんなが笑顔で、あるいは自分なりの賛辞を送りながら、温かい料理を囲む。
エドラスが残した「絶望」の気配など、もうどこにもなかった。
私は、満足げに頬張るみんなの姿を見つめながら、ドレスの裾をギュッと掴む。
(影だか死神だか知らないけれど、私の料理を食べた人たちに指一本触れさせないんだから! 今はこの幸せな時間を、一秒でも長く噛み締めてやりますわ!)
森の奥には、まだ敵が潜んでいるかもしれない。
王宮からの圧力が、またかかるかもしれない。
けれど、温かい食事と笑い声がある限り、私たちは何度でも立ち上がれる。
それが、私がこの森で見つけた、何物にも代えがたい「自由」の証なのだから。
「ルイ様、おかわりはたくさんありますわよ!」
「ああ。明日からの戦いに向けて、しっかり蓄えておくとしよう」
沈む太陽の光が、テラスの仲間たちを黄金色に照らし出していた。
みんなの笑い声が森に溶け、一瞬、すべてが救われたような錯覚に陥る。
ふと、視界の端で何かが動いた気がした。
大皿の端にあった、肉汁滴るローストビーフの一切れ。それが誰の手も借りず、スルスルとテーブルの影へ引きずり込まれて消えたのだ。
(あら? 見間違いかしら)
皆の談笑に紛れ目を凝らすが、そこにはもう、肉の破片すら残っていない。
その時。森の闇の奥から、風に乗って掠れた、妙に切実な呟きが届いた気がした。
『……おのれ……絶望を刻むはずが、この……香味野菜の芳醇さ……ッ。これでは、呪いの言葉が、喉を、通らぬ……ではないか……』
漆黒の森のどこかで、エドラスが震える指で最後の一切れを口に運んでいる。
エドラス、貴方の絶望が私の料理に勝てるのか、見ものですわね。
私は勝利を確信し、明るい灯りの下へと戻っていった。




