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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第2章

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第1話 王様の休日と、父王の遺言

 穏やかな木漏れ日が、カフェのテラスを黄金色に染めている。


 アストライアの王座を巡る激動の日々が落ち着き、ルイ様が正式に即位してから数ヶ月。

 彼はどれほど多忙であっても、週に一度、執事のバルトを伴ってこの森を訪れる。

 それは、彼が「王」という重責を脱ぎ捨て、ただの隣人に戻るための大切な約束の時間だった。


 森の奥から、二頭の馬が並んで駆けてくる軽やかな蹄の音が聞こえてくる。

 先頭を行くその姿は、豪奢な王の正装ではなく、出会った頃と同じような動きやすい旅装だった。


「やあ、アリシア。一週間ぶりだね。この森の空気が恋しかったよ」


 馬から飛び降りたルイ様が、いたずらっぽく笑いながらテラスに足を踏み入れる。

 続いて馬を降りたバルトが、静かに歩み寄って完璧な角度で一礼した。


「アリシア殿、ご無沙汰しております。本日も主がお世話になります」


「バルト、こちらこそ。いつもルイ様を支えてくれてありがとう」


 私が挨拶を返すと、バルトは「執事の務めですから」と短く応じ、主の後ろで静かに控えた。

 その隙のない立ち居振る舞いは、ただそこにいるだけで周囲の空気が清まるような気品がある。


 そして、私は腰に手を当てて、最高に「不作法」で「親愛」の籠った微笑みを浮かべた。


「いらっしゃいませ、ルイ様。さあ、今日のおすすめは、アストライアの王様でも手が出ないほど、とびきり贅沢に焼けていますわよ」


 私が自信満々に差し出したのは、こんがりと焼いたトーストに、溢れんばかりの厚焼き卵と瑞々しいレタスを挟んだ新作のサンドイッチだ。


「これは、卵か? 随分と厚みがあるな。それに、この鮮やかな緑は……」


「ええ。アリシア特製、『黄金の厚焼き卵とシャキシャキレタスのサンドイッチ』です。ルイ様の綺麗な瞳をイメージして作りましたの」


 私がそう言って彼の顔を覗き込むと、ルイ様のエメラルドの瞳が、驚きに微かに揺れた。


「私の瞳と同じ……か。なるほど、この瑞々しい緑がそうか」


 彼は愛おしそうにサンドイッチを手に取り、一口、大きく頬張った。


「……驚くほど優しい味だ。アリシア、君の作るものは、どうしてこうも私の心を落ち着かせるんだろうな」


 サクッとしたトーストの音、ふわふわの卵、そして弾けるようなレタスの食感。

 ルイ様の強張っていた肩の力が、ゆっくりと抜けていくのがわかった。


「それで、ルイ様……少しは元気が出ました?」


 ルイ様は最後の一切れを惜しむように食べ終え、ふと窓の外、遠くに見えるアストライアの山脈を見つめた。


「ああ。この温かさに触れていると……あの日、父が遺した言葉を、今ようやく思い出した気がするよ」


 ルイ様は、そっと自分の右手の甲に目を落とした。

 そこには、アストライア王家の血筋が受け継ぐ『太陽の紋章』が刻まれている。

 かつては彼を焼き、孤独へと追いやった忌まわしき力が、今はアリシアの淹れた紅茶の湯気に溶け込むように、静かに鎮まっていた。


「……あの日、反乱の火の手に追われ、父が私に力を託して息を引き取る間際。私は絶望のあまり、父の最期の言葉を、自分を縛る呪いだとばかり思っていたんだ」


 ルイ様の声は、穏やかな風に混じって低く響く。


「父は、私の耳元でこう囁いた。『ルイ、この力は武器ではない。太陽は時にすべてを焼くが、本来は凍える民を温め、芽吹く種に命を与えるためのものだ。いつか、この火で誰かの腹を満たし、笑い合えるような、そんな穏やかな日のために使いなさい』と」


 私は、思わず息を呑んだ。

 それは、戦いの中にあった若き日のルイ様にとって、どれほど遠く、残酷なほどに優しい言葉だっただろう。


「当時の私は、そんなのは力なき者の綺麗事だと切り捨てた。守るべきものを守れず、ただ破壊するだけのこの力が、誰かを温めるなどあり得ないと……だが」


 ルイ様は、空になった皿を見つめ、それから優しく私の方へ視線を戻した。

 そのエメラルドの瞳には、迷いのない光が宿っている。


「今日、確信したよ。君がこの火オーブンを使って、この森の者たちを笑顔にするパンを焼いている。私の受け継いだ力も、本当は、こういう温かさを守るためにあったのだと」


 ルイ様の大きな手が、テーブルの上で私の手にそっと重なる。

 紋章から伝わる微かな熱は、もう彼を傷つけるものではなかった。


「ありがとう、アリシア。君のおかげで、私はようやく……本当の意味で、アストライアの王になれた気がする」


 私は、彼の掌の温もりを感じながら、胸がいっぱいになっていた。

 けれど、しんみりしたままで終わらせないのが、自由を愛する店主の矜持きょうじ


「……あら、陛下。そのお言葉、最高の『お代』として頂戴いたしますわ。ですが、王様になられたのなら、次はもっと豪華な食材を仕入れる予算を、この店に回してくださってもよろしくてよ?」


 私が茶目っ気たっぷりに首を傾げると、ルイ様は一瞬呆然とした後、今日一番の明るい笑声を上げた。


「ははは! 全くだ、君という人は。バルト、聞いただろう? 来週は最高の小麦と、王宮御用達のバターを運ばせなくてはな」


「御意に。至急、手配いたしましょう」


 背後で控えていたバルトが、微かに口角を上げて応じる。

 森のカフェに、またいつもの賑やかな笑い声が戻ってきた。


 ルイ様とバルトが来ると、店は一気に賑やかさを増す。

 厨房ではクラリスとバルトが阿吽の呼吸で次の紅茶の準備を進め、テラスの端では、巨躯のリザードマン、ゾアが運んできたばかりの薪を高く積み上げていた。


「ルイ様、見てください。ゾアが用意してくれるこの薪は、本当に火持ちが良いんです。おかげで今日も、卵を最高の状態で焼き上げることができましたの」


 私がそう伝えると、ルイ様は満足そうにゾアへと視線を向けた。


「ほう、見事な仕事だな。ゾア、お前にはいつも店を支えてもらって助かっている」


 ルイ様に声をかけられ、ゾアは黄金の瞳をぎろりと光らせ、深い緑の鱗に覆われた喉を鳴らした。


「ぬう。我、ただ薪を割るのみ。アリシア様のパンはその火の加減ひとつで、森の獣たちが『震えるほど旨そうな香り』だと騒ぎ出す。我の薪がその役に立つのなら、これ以上の誉れはない」


 重厚な声が響く中、テラスの欄干に音もなく一人の男が降り立った。

 褐色の肌に鋭い切れ長の瞳を持つダークエルフの狩人、テリオンだ。

 彼は背負った巨大な弓を揺らすこともなく、宝石のように冷たく輝く瞳で、カゴいっぱいの木の実をテーブルに置いた。


「相変わらず賑やかだな。アリシア、森の恵みだ、受け取るがいい。そして私の腹を黙らせるだけの対価を……つまり、その新作を今すぐに出せ。当然、用意できるだろう?」


 テリオンは気品を感じさせる動作で一つに束ねた黒髪を払い、低く鼓膜に響く声で私に告げる。

 バルトが「相変わらず不遜ですな」と溜息をつくのを、ルイ様は愉快そうに笑って見守っていた。


 王宮で孤独だったルイ様も、不自由な公爵令嬢だった私も。そしてこの森で出会った孤高の彼らも、皆がこの場所で、等しく笑い合っている。


 私は、溢れ出しそうな幸福感を噛み締めるために、一度深く深呼吸をした。

 そして誰もいない厨房の奥へ戻ると、淑女の仮面をかなぐり捨て、ドレスの裾をぎゅっと握りしめて全力で駆け抜け、その場で高く跳ねる。


(私の人生、今が一番自由で最高で、輝いていますわーーー!!)


 心の中で快哉を叫び、自由の喜びを噛み締める。

 この平穏な時間が、永遠に続く。


 ……そう信じて疑わなかった。


 けれど、その幸福な笑い声が森に響く中。

 カフェの敷地の外、深い茂みの奥から、冷徹な視線がこちらを射抜いていることに、私たちはまだ気づいていなかった。


「……見つけたぞ。太陽を継ぐ、哀れな器よ」


 男の呟きは、森のざわめきに消える。

 その直後、王都の方向から一騎の伝令が、血相を変えて馬を走らせてくるのが見えた。


「陛下! ルイ陛下はいらっしゃいますか!!」


 静寂を切り裂く叫び声。

 ルイ様が反射的に立ち上がり、エメラルドの瞳を鋭く光らせる。

 

 幸せなパンの香りが漂う中で、冷たい風が吹き抜けた。

 それが、これから始まるアストライアを揺るがす「第二の嵐」の、始まりの音だった。

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