第3話 独り占めしたい味、お返しできない想い
数日後。
森の屋敷は、クラリスと私の献身的な掃除によって、すっかり居心地の良いカフェへと変貌を遂げていた。
今日は新作メニューとして、森で採れたクルミをたっぷり使ったキャラメルタルトの試作をしている。
「いい香り……お母様に隠れて作っていた頃より、ずっと自由に焼けている気がするわ」
「そうですね。お嬢様の楽しそうな様子が、味にも出ているようです」
そんな穏やかな会話を交わしていた、その時だった。
カラン、と。手作りのドアベルが軽やかな音を立てる。
「……失礼。また来てしまったよ」
そこに立っていたのは、あの夕焼け色の髪を持つ青年――ルイ様だった。
今日もエメラルドの瞳が美しく輝いているが、その足元には……なぜか巨大な木箱がいくつか置かれている。
「あら、ルイ様! ようこそ……そちらは、一体……?」
私は完璧な淑女の微笑みを浮かべながら首をかしげた。
「ああ、この前の金貨の余り……というか、お釣りだと思って受け取ってほしい。君の焼く菓子があまりに素晴らしかったから、少しでもその助けになればと思ってね」
ルイ様がそう言って木箱の一つを開けると、中には見たこともないほど繊細な装飾が施された、王室御用達ブランドの銅製鍋や、遠く南の国でしか手に入らないはずの最高級茶葉がぎっしりと詰まっていた。
「……っ!? これ、お釣りというレベルではございませんわ!」
「気にする必要はないよ。君のカフェが長く続いてくれることが、私にとっての利益だからね」
ルイ様は爽やかに微笑むと、さらにもう一つの箱から、見たこともないような大粒の宝石のように輝く砂糖を取り出した。
「お近づきの印に、これも……また、焼き菓子を食べさせてくれるかな?」
「ええ……もちろんですわ。喜んで」
私は優雅に一礼し、彼を席へと案内した。
そして、流れるような所作でキッチンの奥へと引っ込み――。
壁に背中を預けた瞬間、私は溢れ出しそうな笑みを堪えきれず、作業着の裾を少しだけ持ち上げ、音を立てずに軽快なステップを踏んだ。
(やったわ……やったわ、やったわ! あの銅鍋、一生かかっても買えない高級品よ……!!)
無声の狂喜乱舞。
足を交互に素早く滑らせ、心の中で熱いガッツポーズを握る。
自由を手に入れた途端、こんなにも眩い幸運が転がり込んでくるなんて!
(でも困るわ……! こんなに甘やかされたら、お返しに何を焼けばいいの!? 私の腕、死ぬ気で磨くしかありませんわ!!)
嬉しさと困惑が入り混じった爆発を終えると、私はスッと深い呼吸をして、真顔に戻った。
シワ一つないようにエプロンを整え、乱れた髪を一撫でする。
再びホールへ戻る私の顔には、先ほどよりもさらに気品溢れる、最高級の「店主の微笑み」が張り付いていた。
「ルイ様。今日は新作のキャラメルタルトがございます。今しがた頂いたばかりの、最高のお茶と共にお出ししますわね」
私がタルトを運ぶと、ルイ様は心底嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。君が淹れてくれるなら、どんなお茶でも最高の一杯になるだろうね」
さらりと言ってのける彼の甘すぎる言葉に、私はお母様に教わった「余裕のある微笑み」を維持するので精一杯だった。
「……絶品だ。このキャラメルのほろ苦さと、香ばしいクルミの調和……君は、魔法使いか何かなのか?」
ルイ様はタルトを一口食べるごとに、エメラルドの瞳をうっとりと細めた。そのあまりに幸せそうな表情に、私の胸の奥が少しだけ、落ち着かなく跳ねる。
「魔法だなんて、大袈裟ですわ。ただ、この森の恵みが素晴らしいだけです」
「いいや、素材だけではない。君が心から楽しんで作っているのが伝わってくるよ……正直に言えば、こんなに美味しいものを焼く君を、誰にも教えたくない。自分一人で独り占めしてしまいたいくらいだ」
さらりと、とんでもないことを言ってのける彼。
私はティーカップを置く指先が震えないよう、必死で令嬢の矜持を総動員させた。
「困りますわ、ルイ様。商売あがったりになってしまいます」
余裕のある微笑みで返したが、内心ではキッチンの裏へ駆け込んで「いつものアレ」を連発したい衝動に駆られていた。
だが、そんな甘い空気は、クラリスが持ってきた一通の手紙によって一変した。
「お嬢様。王都の知人から、少々不穏な知らせが届きました」
クラリスが差し出した手紙を、私はルイ様に断ってから目を通した。
そこには、私を捨てた元婚約者、ライオネル殿下の名があった。
『ライオネル殿下、婚約破棄を後悔か? 新たな婚約者候補との不和により、行方不明のアリシア様を捜索せよとの命を下した模様』
(……はあ!? 今さら何を言ってるのよ、あの馬鹿王子は!!)
心の中では、淑女の仮面が粉々に砕け散り、机を叩き割る勢いで毒づいていた。
自由を奪い、私を追放しておきながら、都合が悪くなったら「連れ戻せ」だなんて。
「……何か、困りごとかな?」
ルイ様が心配そうに私を覗き込む。エメラルドの瞳には、先ほどまでの熱い視線とは違う、静かで鋭い光が宿っていた。
「いいえ……ただ、少しだけ羽虫が騒がしくなりそうな予感がしただけですわ」
私は手紙を握りつぶしそうになるのをこらえ、完璧な微笑みを貼り付けた。
だが、その手紙の裏にはもう一つ、私の背筋を凍らせる一文があった。
『お父上もまた、王都での立場を危うくしており、アリシア様の「教養」と「人脈」を再び利用しようと動いているようです』
自由の天地を見つけたと思ったのに。
実家という名の檻と、傲慢な王子という名の鎖が、再び私を縛ろうと手を伸ばしてきている。
私は静かにキッチンの奥へ戻った。
そして――誰も見ていないところで、ドレスの裾を強く、強く握りしめた。
(……ふざけないで。ようやく手に入れた私の自由、私の店。誰にも、指一本触れさせないんだから!!)
私は全力で駆け出したい衝動を抑え、深く、深く息を吐いた。




