第38話 「完璧な淑女」の終焉と、フライパンの凱歌
王都エルデニアの夜会会場は、きらびやかな宝石と権力の香りに満ちていた。
天井を埋め尽くすシャンデリアの輝きも、今の私には「お掃除」を待つ埃の群れにしか見えない。
私は一点の曇りもない白亜のドレスの裾を優雅に捌きながら、完璧な角度でカーテシーを捧げた。
「……殿下。お迎えを、信じておりましたわ」
顔を上げ、潤んだ瞳で目の前の男を見つめる。
そこにいたのは、最高級のワインを片手に、鼻の下を伸ばしてニヤついているライオネル殿下だ。
「ああ、アリシア! やはり君は私の隣にいるのが相応しい。あんな汚らしい森で野垂れ死ぬなど、ヴァレンタイン公爵令嬢として、そして私の婚約者としてあってはならないことだ!」
(どの口が言ってるのかしらね! この馬鹿王子、私が森でどれだけ美味しいパンを焼いて、どれだけ「自由」を満喫してたか一ミリも分かってないわ! そのヘラヘラした顔、今すぐフライパンで平たく叩き直してやりたいですわーーー!!)
私の背後には、フードを深く被った「騎士」が一人。
魔力を隠し、気配を殺しているけれど、私にはわかる。
その瞳の奥に宿る、凪いだ海のような、けれど絶対的な強さ。
ルイ様がそばにいてくれるだけで、この吐き気のするような虚飾の空間も、なんとか耐えられるというものだ。
「私、森では本当に心細くて……殿下のような頼りがいのある方に、こうしてお会いできて、もう、言葉もありませんわ」
「はっはっは! そうだろう、そうだろう! さあ、今夜の夜会は君の復帰を祝う宴だ。長老たちも待っている……おい、そこの不気味な騎士! 貴様、いつまでそこに立っている。私はエルデニア王国の第二王子だぞ! どけ、そこには私の婚約者が――」
ライオネル殿下が、私の手を取ろうと不用意にルイ様を突き飛ばそうとした。
その瞬間、ルイ様の周囲の空気が、ピリリと凍りついた。
「……殿下。私の騎士が失礼いたしましたわ。彼は少々、主君を守ることに熱心すぎて」
私はにっこりと、最高に艶やかな微笑みを浮かべて彼の手をかわした。
(耐えるのよ、私! ユリウスの作戦通り、敵が全員揃うまでこの「可哀想な令嬢ごっこ」を完遂させるのよ!)
やがて、夜会の幕が上がった。
会場の四隅には、私の実家であるヴァレンタイン家の長老たちが、古臭い正装に身を包んで並んでいる。
彼らの視線は、獲物を狙う爬虫類のようにルイ様を射抜いていた。
そして会場の中央。ライオネル殿下が再び、高らかに声を張り上げる。
「皆のもの、聞くがいい! ヴァレンタイン家の令嬢は戻った! これで王家と公爵家の絆はより強固なものとなるだろう!」
……さあ、合図の時間ね。
カトリーナが給仕に化けて、ライオネル殿下の足元にわざとらしくスープをこぼした。
「なっ……! 貴様、何をする! 私はエルデニア王国の第二王子だぞ! どけ、そこには私の――」
「殿下。いいえ、ライオネル。いい加減、そのうるさい口をお閉じになって?」
私が高らかに宣言した瞬間、王宮のきらびやかな静寂は、私のフライパンが空気を切り裂く音によって粉砕された。
「な、なんだ!? 貴様、その手に持っている不浄な鉄塊は……あぎゃっ!?」
ライオネルの尊大な叫びは、私のフライパンがその額に吸い込まれるような音とともに、情けない悲鳴へと変わった。
カァァァァァン!!
心地よい衝撃が腕に伝わる。
馬鹿王子の身体が優雅に(?)宙を舞い、高級なワインが並んだテーブルへと突っ込んでいった。
「ふふっ、まずは『前菜』ですわね」
私がにやりと笑うと同時に、会場のテラス窓が凄まじい音を立てて破裂した。
「ガオッ! 待たせたな主よ! ここの天井は低すぎて肩が凝るぜ!」
咆哮と共に踊り込んできたのは、巨躯のゾアだ。
彼は丸太のような腕を振り回し、近寄ろうとする近衛兵たちを、まるで紙屑のように次々と左右へ「片付けて」いく。
同時に、シャンデリアの影から無数の矢が放たれた。
「……動くな。心臓を射抜くのは容易い」
テリオンの声がどこからか響く。
矢は正確に、ルイ様を狙おうとしていたアストライアの刺客たちの手首や膝を貫き、彼らをその場に縫い止めていく。
「お控えなさい。せっかくの祝宴ですのに、血の匂いが漂うなど無粋にも程がありますわ。『重力障壁』!」
クラリスが銀のトレイを床に叩きつけると、会場の中心にいた長老たちと刺客たちが、見えない巨人の足に踏みつけられたように床へ這いつくばった。
「ぐ……おのれ、アリシア! 公爵家を裏切るつもりか!」
床に顔を押し付けられた長老の一人が、苦しげに吠える。
私はその頭をフライパンの底で軽く叩きながら、冷ややかな視線を向けた。
「裏切る? 心外ですわ。私はただ、自分の自由と、私のお客様を守っているだけ。不作法なネズミを駆除するのは、店主として当然の責務でしょう?」
そのとき、会場の隅に控えていた漆黒の装束の集団――「三首の蛇」の精鋭たちが、クラリスの重力魔法を強引に跳ね除けて飛び出してきた。
彼らの手には、アストライアの魔導が込められた、青白く光る禍々しい刃。
「……標的確認。ルイ・ソル・アストライア――死ね!!」
殺意の奔流がルイ様へと集中する。
けれど、私は一歩も引かなかった。
「ルイ様には、指一本触れさせませんわ!」
私がフライパンを構え直した瞬間、影の中から冷徹な銀光が閃いた。
「……私の獲物に手を出すな」
イグニスだ。
彼は音もなく刺客たちの死角へ潜り込み、その神速のナイフ捌きで魔導兵器を次々と無力化していく。
「ちょっとアリシア! 私を忘れてもらっちゃ困るわよ!」
厨房から駆け込んできたカトリーナが、両手に巨大な火炎を纏わせ、会場全体を熱風で包み込んだ。
「お掃除の仕上げは、やっぱり火炎消毒ですわ! あっちもこっちも燃えてしまいなさい!!」
炎、重力、矢、そして暴力的なまでのフライパンの快音。
豪華だった夜会会場は、一瞬にしてカオスな戦場へと変貌した。
私は、倒れ伏したライオネルの胸ぐらを掴み上げると、彼が恐怖で引き攣らせている顔のすぐ横で、フライパンを指で弾いた。
キィィィィィィィン……。
「ライオネル殿下。私、殿下のことが大嫌いでしたけれど、今夜ばかりは感謝いたしますわ。おかげで、最高の『大掃除』ができましたもの」
「ひ、ひいいっ! 助けてくれ、誰か! 私は、私は王子だぞ! どけ、そこには私の……!」
「……まだ言っていますの? 本当に、学習能力のないお方」
私が最後の一撃を見舞おうとフライパンを振り上げたその時、会場の最奥――王座の影から、これまで感じたことのないほど禍々しく、そして冷徹な魔力が膨れ上がった。
「……騒がしいな。エルデニアの小蠅も、ヴァレンタインの老いぼれも。そして――兄上も」
ルイ様が、鋭く目を見開く。
霧を切り裂いて現れたのは、ルイ様に酷似した、けれど血のように赤い髪を持つ男。
アストライアのもう一人の継承者。
「全員下がって! ルイ様!!」
私は叫んだ。
本当の戦いは、ここから始まるのだと、フライパンを握る手が直感していた。
王宮に、新たな戦いの炎が燃え上がろうとしていた。




