第37話 暗号の鳩と、詐欺師が売る「夢」の続き
カフェのテラスからダイニングへ戻ると、カトリーナが焼いたスフレは予想通り、無残な炭の塊と化していた。
「あら。私の芸術作品が、アストライアの刺客より先に絶命しているわ」
「当然の結果ですわ、カトリーナ様。火力がドラゴンブレス並みでしたもの」
カトリーナのわざとらしい嘆きに、クラリスが冷ややかなツッコミを入れる。
いつもの光景。
けれど、隣を歩くルイ様の横顔は、まだどこか硬い。
私は彼を暖炉近くの椅子に座らせ、キッチンへと向かった。
(よし、まずはルイ様の心を解きほぐすための夜食ね……って、違うわ! 今はそれどころじゃない!)
私は、ゾアが薪を運ぶ途中にこっそり回収してくれた「あの封筒」を思い出し、ドレスの隠しポケットをそっと押さえた。
皆が落ち着いたのを見計らい、私はその封筒をテーブルの中央に置く。
「……これを見てくださいな」
その瞬間、室内の空気が凍りついた。
テリオンが鋭く目を細め、イグニスが音もなく腰のダガーに手をかける。
そしてルイ様は、その紋章を見た瞬間、息を呑んだ。
「これは『三首の蛇』……! 王都グラン・ロアの裏社会を支配し、国家転覆さえ企むと噂される暗殺組織の紋章だ。なぜ、アストライアの刺客がこれを持っている?」
「ルイ様、驚くのはそれだけではありませんわ。この紋章の組織……実は、私の実家であるヴァレンタイン公爵家が、代々『裏の仕事』を依頼してきた相手なのです」
私の言葉に、イグニスが音もなく一歩前へ出た。
彼は逆手に持ったダガーを鞘に収めると、感情の読み取れない冷ややかな瞳で、テーブルの上の紋章を見つめた。
「『三首の蛇』。かつて私が身を置いていたギルドとも、何度か獲物を競ったことがある。彼らは金さえ積まれれば、たとえ神であろうと背後から刺す。だが……」
イグニスは、紋章の端に刻まれた微かな針の穴のような跡を指でなぞった。
「この特殊な刺し傷のような刻印……これは、依頼主が『ヴァレンタイン家の直系』であることを示す符牒だ。アリシア。お前の父親が寝込んでいるのなら、家督を代行している長老会の仕業で間違いない。彼らはアストライアの反乱分子と手を組み、ルイを『生け贄』として、より強大な力を手に入れようとしている」
イグニスの断定は、重く、鋭くダイニングの空気を凍りつかせた。
その静寂を切り裂くように、バサバサと激しく羽ばたく音が窓辺で響く。
窓枠を叩くのは、一羽の灰色の鳩。
その脚には、グラン・ロアの刻印が入った極小の筒が括り付けられている。
「……セシルからの緊急連絡ですわ」
クラリスが手際よく鳩を招き入れ、中の薄紙を取り出した。そこにはユリウスからの、より踏み込んだ「警告」が記されていた。
「……店主殿へ。長老会とアストライアの亡霊どもが、ついに『最終合意』に至ったようだ。三日後、エルデニアの王宮で開催される夜会――そこでルイ様を暗殺し、その罪を『逃亡中のアリシアお嬢様』に着せる計画が進んでいる。馬鹿王子のライオネル殿下も、君を捕らえる手柄欲しさにこの茶番の主役を演じるつもりのようだ……実に見事な、地獄への片道切符だ」
手紙の内容を読み上げたクラリスの声が、怒りで僅かに震える。
(ちょっと待ちなさいよ! 私に冤罪をなすりつけた上に、ルイ様を殺して、挙句の果てに馬鹿王子がヒーロー気取り!? いい度胸じゃない、その喧嘩、買ってやろうじゃありませんの!!)
私は、手紙を暖炉の火に放り込み、パチパチと燃え上がる炎を見つめた。
「ルイ様……敵の『台本』は分かりましたわ。ならば、私たちはその舞台を根底からひっくり返すまでです。情報の詳細と、奴らの裏をかくための『仕掛け』が必要です。今すぐ、ユリウスに会いに行きましょう。彼なら、その夜会への『裏口チケット』を用意しているはずですわ」
私の提案に、ルイ様は躊躇うように視線を落とした。
「だが、私が動けば再びアストライアの追っ手を引き寄せることになる。君の店を、これ以上戦場にするわけには……」
「ルイ様」
私は、彼の言葉を遮るようにその手を優しく、けれど強く握った。
「これはもう、あなただけの問題ではありませんの。私の実家が、私の『自由』を脅かし、大切なお客様を害そうとしている。これは、店主である私への宣戦布告ですわ。それに、一人で抱え込むには、この森は少しばかり賑やかすぎると思いませんこと?」
私の背後で、ゾアが丸太のような腕を組み「ガアッ、面白い!」と笑い、カトリーナが指先で小さな火花を散らす。
テリオンは既に旅の支度を始めるかのように弓の手入れを始め、イグニスは影の中でダガーを研いでいた。
「……君には、本当に敵わないな」
ルイ様がついに、諦めたように、けれど希望に満ちた笑みを零した。
私たちは夜が明けるのを待たず、森を出る準備を整えた。
目指すは王都グラン・ロアの郊外、霧に包まれた古い廃寺院。
そこが、ユリウスが指定してきた合流地点だ。
◇
数刻後。
霧の中から現れたユリウスは、派手な外套を翻しながら、退屈そうに懐中時計を眺めていた。
私たちが近づくと、彼は眼鏡の奥の鋭い瞳をルイ様へと向け、口元に微笑を浮かべた。
「おやおや、お早い到着だ。アストライアの太陽殿」
ユリウスは大仰な動作で帽子を取ると、ルイ様に深く一礼した。
「報告書通りであれば、貴方は今ごろアリシアお嬢様に寄生して震えているはずなのですが……どうやら、その余裕までは隠しきれなかったようだ」
「君の書いた『惨めな不届き者』という報告書のおかげで、公爵の追撃がここまで遅れた。感謝しているよ、ユリウス」
ルイ様が優雅に視線を返すと、ユリウスは肩をすくめて笑った。
「さて、店主殿。お父上の書斎から、面白い『夢の破片』をいくつか失敬してきた。お父上が寝込んでいる隙に、ヴァレンタインの長老どもがアストライアの亡霊どもと交わした、薄汚い密約書だ」
ユリウスが懐から取り出したのは、アストライアの極秘印章が押された数枚の羊皮紙だった。
「これがあれば、お父様や長老たちの悪行を公にできる……?」
「いいえ、お嬢様。それではただの正義の味方だ。私が提案するのは、もっと悪趣味で、もっと完璧な『夢』。彼らがルイ様を『消した』と信じ込ませ、最高潮に油断した瞬間に、そのすべてをフライパンで叩き潰す……というのはどうだい?」
ユリウスが狐のように目を細める。
その提案には、かつてルイ様と秘密を共有した時のような、歪んだ好奇心が満ちていた。
「ユリウス、その『悪趣味な作戦』。詳しく聞かせてくださるかしら?」
「作戦は至ってシンプル。お嬢様、貴女には一度『完璧な淑女』に戻っていただき、エルデニアのライオネル殿下のもとへ『投降』していただきます」
「……なんですって?」
ユリウスの言葉に、私の眉がピクリと跳ねた。
ライオネルの顔を思い出すだけで、愛用のフライパンをフルスイングしたくなるというのに。
「殿下は今、公爵家からの支援を取り付けるために、貴女を連れ戻したという『手柄』を喉から手が出るほど欲しがっている。貴女がエサとなり、殿下と長老会が祝杯をあげる場を用意するのです……もちろん、アストライアの亡霊たちも、獲物が死んだと確信して、その場に姿を現すでしょう」
ユリウスは眼鏡の奥で、ゾッとするほど冷徹に、かつ楽しげに瞳を光らせた。
「敵が全員揃ったところで、死んだはずの『太陽』が再臨し、店主殿のフライパンが火を吹く……これ以上に愉快な『夢』が他にあるかい?」
「……いいわ。乗りましたわ、その作戦!」
私は不敵に微笑み、ルイ様を見た。
彼は静かに頷き、その瞳にはかつて世界を跪かせた王者の焔が宿っていた。
「ライオネル殿下にも、私の実家の古狸たちにも、教えて差し上げなくては……私の営業妨害をしたツケは、この国の国家予算でも足りないということを!」
夜明け前の霧の中、私たちはそれぞれの役割を胸に、決戦の地となる王都エルデニアへと向かって走り出した。
自由を掴むための、最後で最大の「お掃除」が今、始まろうとしていた。




