第36話 深夜の特別営業と、フライパンの快音
ルイ様の頬に触れた手の温もりが、冷たい夜風にかき消される。
「……一、ニ、三……ネズミが五匹。いえ、死角にもうニ匹いますわね。ルイ様、残念ながら今夜のティータイムはここで終了のようですわ」
私は、ルイ様の切なげな瞳を正面から受け止め、不敵に微笑んでみせた。
彼がどこの誰で、どのような「計画」を立てているのかなんて、今の私には関係ない。
ただ、森の闇から這い出してきた、月の光さえ反射しない漆黒の装束の連中――彼らから放たれる「殺意」だけは、はっきりと理解できた。
(しんみりした空気もここまでよ! ルイ様を悲しませる奴らは、どこのどいつか知らないけれど、一人残らず私の営業妨害罪で叩き出してやるわーーー!!)
「ルイ様、少し下がっていてくださいな……ここは、私の店です。不作法なお客様へのおもてなしは、店主の役目ですから」
私は、いつになく優雅な所作でドレスの裾を払うと、厨房の裏から持ち出しておいた「愛用の重厚フライパン(特注品)」の柄を強く握りしめた。
「クラリス。不作法な方々へ、当店の『特別メニュー』をお出しして」
「承知いたしました、お嬢様――至急、お引取りを」
クラリスが銀のトレイを掲げた瞬間、暗闇の中で魔導の閃光が弾けた。
闇の中から放たれた数条の矢。
しかし、それはテラスに届く前に、夜空に咲いた鮮烈な「炎の盾」によって焼き尽くされた。
「ちょっと、そこの不気味な黒ずくめさんたち! 夜のデザートタイムに私が管理していない火を持ち込むなんて、マナー違反もいいところよ!」
テラスの縁に腰掛け、不敵に笑うのはカトリーナだ。
彼女が指先を鳴らすたび、空中を浮遊する数個の火球が、隠れていた刺客たちの位置を容赦なく照らし出す。
「クラリス! 足止めは任せたわよ!」
「言われずとも――『重力障壁』皆様、そのままそこで跪いていなさい」
クラリスが銀のトレイを地面に叩きつけると、刺客たちの周囲の重力が一変した。
超重力に押し潰され、地面に這いつくばる刺客たち。
そこへ、影の中から「死」そのものが歩み寄る。
「……命の価値も分からぬ連中が。せめて、我が糧となれ」
イグニスが音もなく刺客の背後に立ち、その逆手に握ったダガーの銀光を閃かせた。
心臓を貫く寸前、屋根の上からテリオンの矢が、刺客の武器だけを正確に弾き飛ばした。
「殺すな。アリシアが掃除を嫌がる……ゾア、『トドメ』だ!」
「ガオッ! 承知した!」
巨躯のゾアが、丸太のような腕で刺客たちを次々と「束ねて」いく。
もはや暗殺者の集団ではなく、出荷を待つ薪の束のような惨状だ。
ルイ様は、自分の正体を知れば逃げ出すだろうと考えていた私たちが、それどころか手慣れた様子で刺客をボコボコにしていく光景に、呆然と立ち尽くしていた。
「あ、あの、アリシア……彼らは、並の騎士では太刀打ちできないはずの……」
「ルイ様。そんなことより、見てくださいな。あの人たち、私の大切なお庭の芝生を泥靴で踏み荒らしましたのよ?」
私はゆっくりと、けれど完璧に優雅な所作で、手にしたフライパンを構えた。
(全員まとめて拘束完了ね! あとは仕上げに、営業妨害の慰謝料代わりに、どこの誰に雇われたのかフライパンでじっくり吐かせてやるわよーーー!!)
「さあ、本日最後の『特別メニュー』です……お口に合えば、よろしいのですが?」
私がにっこりと微笑みながらフライパンを振り抜いた瞬間。
カァァァァァン!! という、夜の森の静寂を木っ端微塵に砕くような、あまりにも快音――それでいて凄まじい衝撃音が響き渡った。
「ぎゃっ!?」
「あ、熱い!? フライパンが……熱を帯びて……!」
カトリーナがこっそり付与した炎魔法と、私の「怒り」がこもった一撃は、刺客の重装備ごと彼らの意識を刈り取った。
宙を舞った刺客の一人が、ゾアの用意した薪の山に、吸い込まれるように積み上げられる。
「お見事です、お嬢様。これ以上ないほどの『おもてなし』でした」
クラリスがパチパチと小さく拍手を送る中、私は優雅に、けれど内心では「スカッとしましたわー!」と叫びながら、フライパンをスッと下ろした。
一方、背後では「自分のために命を懸けて逃げてくれ」と言うつもりだったルイ様が、フライパン一本で刺客をなぎ倒す私と、当然のようにそれを受け入れる従業員たちの姿を見て、口を半開きにしたまま固まっていた。
「アリシア。君は一体……彼らはアストライアの……」
「ルイ様。野暮な話は、まずお掃除を終えてからにいたしましょう?」
「お掃除、とは。彼らはアストライアの中でも選りすぐりの……」
呆然と呟くルイ様の言葉を、私は人差し指を唇に当てて優雅に遮った。
足元では、ゾアに薪のように積み上げられた刺客のリーダー格が、虫の息で顔を上げる。
その視線は、私の背後に立つルイ様の手の甲――そこに刻まれているであろう「何か」を凝視し、恐怖に引き攣っていた。
「……あり、えない。アストライアの……至高の『太陽の紋章』を継ぐ御方が、なぜ、このような……女料理人と……」
男の掠れた声が、夜の静寂に落ちる。
カトリーナが言っていた『アストライア』。そして、国を灰にするという『怪物』が持つ力。
(えっ、ちょっと待って。今この人『太陽の紋章』って言った? アストライアのトップだけが持つっていう、あの伝説の!?)
私の心臓が、ドクンと跳ねた。
目の前の穏やかで美しいルイ様が、その『怪物』?
あまりの衝撃に、一瞬だけ完璧な令嬢の仮面が剥がれそうになる。
けれど、私は深呼吸をひとつして、さらに深く、艶やかな微笑みを浮かべてみせた。
「あら。お客様、随分とお口が汚れていらっしゃいますわね。デザートの代わりに、その歪んだ根性をフライパンで焼き直して差し上げましょうか?」
「ひ、ひいっ……!」
私の笑顔(と背後に控えるイグニスの冷たい殺気)に、刺客はついに絶望して白目を剥き、意識を失った。
ふぅ、と小さく息を吐いてフライパンを下ろすと、背後から熱い視線を感じた。
振り返れば、そこにはルイ様が、見たこともないような複雑な表情で私を見つめて立っていた。
「……アリシア。君は、私が怖くないのか? 彼らの言う通り、私はアストライアの忌むべき継承者だ。この身に宿る太陽は、いつか全てを焼き尽くす……」
震える彼の声。
私はゆっくりと歩み寄り、まだ少し熱を帯びたフライパンを傍らのテーブルに置いた。
そして、その大きな、けれど孤独に震える彼の手を、私の両手でそっと包み込む。
「ルイ様。たとえあなたが伝説の術師でも、アストライアの王様でも、ここでは関係ありませんわ。私の店で私の料理を『美味しい』と言ってくださる方は、守るべき大切なお客様。それだけで、十分ではありませんか?」
ルイ様は目を見開き、やがて力なく、けれど確かに私の手に自分の手を重ねた。
「……君には、敵わないな」
ルイ様は自嘲気味に、けれど憑き物が落ちたような穏やかな顔でそう呟いた。
伝説の紋章を宿し、アストライアの頂点に君臨していた怪物。
そんな孤独な肩書きを、私のフライパンの快音と「お客様だから」という単純な理屈が、鮮やかに打ち砕いてしまったのだ。
重ねられた彼の手から伝わる微かな熱。
それが魔術の残り香なのか、彼自身の心の体温なのか、私にはわからない。
けれど、この温もりを守りたいと、心からそう思った。
「さあ、冷えないうちに中へ戻りましょう。カトリーナのスフレは……おそらく炭になっているでしょうから、私がとっておきの夜食を作り直しますわ」
私は優雅に微笑み、彼の手を引いて歩き出す。
背後では、ゾアとテリオンが手際よく「薪(刺客)」を森の奥へと運び出し、イグニスが消えかかる魔力の残滓を無造作に踏み消していた。
すべては、いつもの騒々しい日常の延長線上にある。
――そう、信じたかった。
だが、ゾアが薪のように放り投げた刺客の懐から、一通の封書が滑り落ちていることに、私はまだ気づいていない。
月光に照らされたその封筒の裏側。
そこには、アストライアの刺客が持っているはずのない、見覚えのある印章が押されていた。
それは、王都グラン・ロアにおいて、お父様ですら畏怖し、ヴァレンタイン公爵家の「影の協力者」として代々秘密裏に繋がってきた、ある組織の紋章。
アストライアから逃げてきたルイ様と、グラン・ロアを捨てた私。
二人がこの森で出会ったのは、偶然などではなかったのかもしれない。
遠く北の空で、白亜の王宮アストライアが、青白い魔導の光を放って不気味に明滅した。




