第35話 賑やかな仲間たちと、亡霊の独白
お父様が魂を抜かれたような顔でバルカスに背負われ、逃げるように去ってから数日。
王都「グラン・ロア」での窮屈な生活を捨てて手に入れた私のカフェには、ようやく穏やかな……というよりは、相変わらず騒々しい日常が戻っていた。
「テリオン、そのジビエはルイ様のランチ用ですわ! つまみ食いは厳禁です!」
「……くっ。香りが良すぎて理性が鈍った。頭を冷やしてくる」
そう吐き捨て、テリオンは名残惜しそうに肉の塊を一瞥すると、音もなく森へ溶けた。
孤高の狩人ですら、私の料理の前では「待て」をされた子犬のようになるらしい。
「おーっほっほっほ! アリシア、見なさい! この新作スフレこそ、ルイの心を射止める究極の魔導菓子よ。これでお二人の仲も進展間違いなしですわ!」
厨房では、首席魔導師カトリーナがお節介な笑みを浮かべながらオーブンを真紅に燃え上がらせている。
「カトリーナ様、火力が強すぎます。スフレが炭になってしまいますわ」
淡々と温度調整の魔法を重ねるのは、私の右腕――クラリス。
磨き上げられたフライパンは、今日も鏡のように光っていた。
「ガアッ! 薪ならいくらでもあるぞ!」
庭ではゾアが、斧を一振りするたびに薪の山を築き、次々と厨房へ運び込んでいる。
その喧騒の中、店の隅――影の濃い席から、低く鋭い声が落ちた。
「……騒がしいな。だが、この不快なほど『生きた』匂いも、たまには悪くない」
黒いロングコートに身を包み、帽子の影から冷徹な視線で店内を一瞥するイグニス。
その場にいるだけで死を予感させる空気を纏いながら、彼もまた、私の焼いたアップルパイをきっちり完食していた。
「ふふ、本当に賑やかになりましたわね。そういえばクラリス。ユリウスから、連絡はあったかしら?」
「はい。今朝、伝書鳩が届きました。ユリウスは無事に王都へ戻り、セシルと合流されたそうです。あちらの『火消し』は完璧に進んでいるとのことですので、ご安心を、と」
王都の表裏に通じる稀代の策士であるユリウスと、ギルドや孤児院の運営で多忙な身でありながら、私たちのために王都の情報を握り、動いてくれているセシル。
あの二人が協力してくれているのなら、お父様が再びここへ押し寄せてくる心配はないだろう。
お父様をパントリーで「再起不能」にして以来、なぜか店内の結束力は一段と強まっていた。
私への「畏怖」が混じっている気もするけれど、まあ、自由のためには些細なことですわね。
そんな仲間たちの喧騒を、ルイ様はいつも通りテラスの特等席で、優雅に眺めていた。
けれど、時折見せるその視線が、遥か北の空――雲間にそびえる白亜の王宮「アストライア」の方角へ向けられているのを、私は見逃さなかった。
(かつてカトリーナが言っていたわね。魔導の心臓部アストライアには、国を一夜で灰にするほどの恐ろしい力を継承した『冷酷な支配者』が隠し置かれているのだと……)
そんなおとぎ話に出てくるような怪物と、今、目の前で私の淹れたコーヒーを大切そうに味わっている、この穏やかな方が結びつくはずもない。
だから私は、彼の瞳に宿る微かな憂いの正体を、この時はまだ深く追及しなかった。
◇
その夜。
店じまいを終え、クラリスたちも眠りについた頃。
ふと窓の外を見た私は、月明かりの下で一人、剣を振るルイ様の姿を目にした。
普段の穏やかな彼からは想像もつかない、研ぎ澄まされた殺気。
その剣筋は、騎士団長バルカスなど足元にも及ばないほど鋭く、神々しいまでに美しかった。
(……綺麗。でも、どうしてかしら。空気を切り裂くあの鋭い音が、まるで泣いているみたいに聞こえるのは)
剣が風を切る「ヒュッ」という冷たい音が、静かな夜の森に寂しく響き渡る。
私は気づけば、手にした上着を抱えて外へと足を踏み出していた。
「ルイ様……?」
声をかけた瞬間、空気が凍りついた。
振り返ったルイ様は、いつもの穏やかなエメラルドの瞳ではなく、何者にも膝を屈することのない、冷徹なまでに峻厳な眼差しをしていた。
それは、この国の誰も届かないほど高い場所に立つ者だけが持つ、寄り添い難い孤独な光に思えた。
「……アリシアか。夜風は冷える、中に戻っていなさい」
「ルイ様こそ……何か、不安なことでもおありなのですか?」
私が歩み寄ると、ルイ様は手にした剣をゆっくりと鞘に収めた。その所作一つにも、隠しきれない高貴さが溢れている。
「アリシア。以前、私が君の想像もつかないような存在だと分かっても、そばから離れないでほしいと言ったね」
「ええ、覚えていますわ。何があっても、私はルイ様の味方です」
「ありがとう……だが、じきにその言葉の真意を突きつける者が現れるだろう。私を呼び戻そうとする逃れられぬ責務。そして、私の死を願う者たちが放った、本物の刃が」
ルイ様は、私の頬に優しく触れた。
その手は温かいのに、どこか永遠の別れを予感させるような切なさを帯びている。
「私は死んだことになっている。城に潜む腐敗した膿を出し切るために、信頼できる執事と共にある計画を立てた。だが……どうやら私の生存を疑う連中が、嗅ぎつけたようだ」
その告白を聞いた瞬間、私の心に真っ先に浮かんだのは、驚きでも恐怖でもなかった。
ただ、この数日間、彼がテラスの席で遠くを見つめていた時の、あの消え入りそうな横顔の理由がようやく分かった――という、胸が締め付けられるような納得感だった。
(死んだことに、なっている……そこまでしなければならないほど、この方は独りで戦ってこられたのね)
目の前にいるのは、いつもの穏やかなルイ様。
けれどその背負っているものの重さは、一介の貴族などでは到底計り知れないほど深く、暗い。
私は、頬に添えられた彼の手に自分の手をそっと重ね、指先に力を込めた。
「ルイ様……私は、あなたが何者であっても、どのような計画を立てておられようとも構いませんわ。ただ、私が知っているのは――」
私は震える彼の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「あなたは、私の淹れたコーヒーを誰よりも慈しむように飲んでくださる、大切なお客様だということです。そのお客様を、ご本人の意志もなしに連れ戻そうとしたり、ましてやその命を狙おうとしたりする不作法な方々を、私は決して許しません」
ルイ様は、弾かれたように目を見開いた。
彼の「事情」ではなく、この店で過ごした「時間」そのものを肯定されたことに気づき、救われたように息を吐く。
――その時。
森が、不自然に揺れた。
夜鳥が一斉に飛び立ち、枝葉がざわめく。
庭の隅でゾアが低く唸り、屋根の上ではテリオンが弓を引き絞る。
「来たか……私の休暇も、ここまでらしい」
名残を断ち切るように、ルイ様は手を離し、再び剣の柄へと指をかける。
その視線は、すでに闇の奥を捉えていた。




