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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第1章

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第35話 賑やかな仲間たちと、亡霊の独白

 お父様が魂を抜かれたような顔でバルカスに背負われ、逃げるように去ってから数日。


 王都「グラン・ロア」での窮屈な生活を捨てて手に入れた私のカフェには、ようやく穏やかな……というよりは、相変わらず騒々しい日常が戻っていた。


「テリオン、そのジビエはルイ様のランチ用ですわ! つまみ食いは厳禁です!」


「……くっ。香りが良すぎて理性が鈍った。頭を冷やしてくる」


 そう吐き捨て、テリオンは名残惜しそうに肉の塊を一瞥すると、音もなく森へ溶けた。

 孤高の狩人ですら、私の料理の前では「待て」をされた子犬のようになるらしい。


「おーっほっほっほ! アリシア、見なさい! この新作スフレこそ、ルイの心を射止める究極の魔導菓子よ。これでお二人の仲も進展間違いなしですわ!」


 厨房では、首席魔導師カトリーナがお節介な笑みを浮かべながらオーブンを真紅に燃え上がらせている。


「カトリーナ様、火力が強すぎます。スフレが炭になってしまいますわ」


 淡々と温度調整の魔法を重ねるのは、私の右腕――クラリス。

 磨き上げられたフライパンは、今日も鏡のように光っていた。


「ガアッ! 薪ならいくらでもあるぞ!」


 庭ではゾアが、斧を一振りするたびに薪の山を築き、次々と厨房へ運び込んでいる。

 その喧騒の中、店の隅――影の濃い席から、低く鋭い声が落ちた。


「……騒がしいな。だが、この不快なほど『生きた』匂いも、たまには悪くない」


 黒いロングコートに身を包み、帽子の影から冷徹な視線で店内を一瞥するイグニス。

 その場にいるだけで死を予感させる空気を纏いながら、彼もまた、私の焼いたアップルパイをきっちり完食していた。


「ふふ、本当に賑やかになりましたわね。そういえばクラリス。ユリウスから、連絡はあったかしら?」


「はい。今朝、伝書鳩が届きました。ユリウスは無事に王都へ戻り、セシルと合流されたそうです。あちらの『火消し』は完璧に進んでいるとのことですので、ご安心を、と」


 王都の表裏に通じる稀代の策士であるユリウスと、ギルドや孤児院の運営で多忙な身でありながら、私たちのために王都の情報を握り、動いてくれているセシル。


 あの二人が協力してくれているのなら、お父様が再びここへ押し寄せてくる心配はないだろう。


 お父様をパントリーで「再起不能」にして以来、なぜか店内の結束力は一段と強まっていた。

 私への「畏怖」が混じっている気もするけれど、まあ、自由のためには些細なことですわね。


 そんな仲間たちの喧騒を、ルイ様はいつも通りテラスの特等席で、優雅に眺めていた。

 けれど、時折見せるその視線が、遥か北の空――雲間にそびえる白亜の王宮「アストライア」の方角へ向けられているのを、私は見逃さなかった。


(かつてカトリーナが言っていたわね。魔導の心臓部アストライアには、国を一夜で灰にするほどの恐ろしい力を継承した『冷酷な支配者』が隠し置かれているのだと……)


 そんなおとぎ話に出てくるような怪物と、今、目の前で私の淹れたコーヒーを大切そうに味わっている、この穏やかな方が結びつくはずもない。

 だから私は、彼の瞳に宿る微かな憂いの正体を、この時はまだ深く追及しなかった。


 ◇


 その夜。

 店じまいを終え、クラリスたちも眠りについた頃。

 ふと窓の外を見た私は、月明かりの下で一人、剣を振るルイ様の姿を目にした。

 普段の穏やかな彼からは想像もつかない、研ぎ澄まされた殺気。

 その剣筋は、騎士団長バルカスなど足元にも及ばないほど鋭く、神々しいまでに美しかった。


(……綺麗。でも、どうしてかしら。空気を切り裂くあの鋭い音が、まるで泣いているみたいに聞こえるのは)


 剣が風を切る「ヒュッ」という冷たい音が、静かな夜の森に寂しく響き渡る。

 私は気づけば、手にした上着を抱えて外へと足を踏み出していた。


「ルイ様……?」


 声をかけた瞬間、空気が凍りついた。

 振り返ったルイ様は、いつもの穏やかなエメラルドの瞳ではなく、何者にも膝を屈することのない、冷徹なまでに峻厳しゅんげんな眼差しをしていた。

 それは、この国の誰も届かないほど高い場所に立つ者だけが持つ、寄り添い難い孤独な光に思えた。


「……アリシアか。夜風は冷える、中に戻っていなさい」


「ルイ様こそ……何か、不安なことでもおありなのですか?」


 私が歩み寄ると、ルイ様は手にした剣をゆっくりと鞘に収めた。その所作一つにも、隠しきれない高貴さが溢れている。


「アリシア。以前、私が君の想像もつかないような存在だと分かっても、そばから離れないでほしいと言ったね」


「ええ、覚えていますわ。何があっても、私はルイ様の味方です」


「ありがとう……だが、じきにその言葉の真意を突きつける者が現れるだろう。私を呼び戻そうとする逃れられぬ責務。そして、私の死を願う者たちが放った、本物の刃が」


 ルイ様は、私の頬に優しく触れた。

 その手は温かいのに、どこか永遠の別れを予感させるような切なさを帯びている。


「私は死んだことになっている。城に潜む腐敗した膿を出し切るために、信頼できる執事と共にある計画を立てた。だが……どうやら私の生存を疑う連中が、嗅ぎつけたようだ」


 その告白を聞いた瞬間、私の心に真っ先に浮かんだのは、驚きでも恐怖でもなかった。

 ただ、この数日間、彼がテラスの席で遠くを見つめていた時の、あの消え入りそうな横顔の理由がようやく分かった――という、胸が締め付けられるような納得感だった。


(死んだことに、なっている……そこまでしなければならないほど、この方は独りで戦ってこられたのね)


 目の前にいるのは、いつもの穏やかなルイ様。

 けれどその背負っているものの重さは、一介の貴族などでは到底計り知れないほど深く、暗い。

 私は、頬に添えられた彼の手に自分の手をそっと重ね、指先に力を込めた。


「ルイ様……私は、あなたが何者であっても、どのような計画を立てておられようとも構いませんわ。ただ、私が知っているのは――」


 私は震える彼の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。


「あなたは、私の淹れたコーヒーを誰よりも慈しむように飲んでくださる、大切なお客様だということです。そのお客様を、ご本人の意志もなしに連れ戻そうとしたり、ましてやその命を狙おうとしたりする不作法な方々を、私は決して許しません」


 ルイ様は、弾かれたように目を見開いた。

 彼の「事情」ではなく、この店で過ごした「時間」そのものを肯定されたことに気づき、救われたように息を吐く。


 ――その時。


 森が、不自然に揺れた。

 夜鳥が一斉に飛び立ち、枝葉がざわめく。


 庭の隅でゾアが低く唸り、屋根の上ではテリオンが弓を引き絞る。


「来たか……私の休暇も、ここまでらしい」


 名残を断ち切るように、ルイ様は手を離し、再び剣の柄へと指をかける。

 その視線は、すでに闇の奥を捉えていた。

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