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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第1章

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第34話 結界維持費はステーキに、公爵パントリーに消ゆ

 翌朝。

 森の境界線を越え、地響きのような蹄の音がカフェへと近づいていた。


 先頭を走るのは、黒い軍馬に跨った公爵。

 その背後には、王都でも最強と謳われる公爵家専属の精鋭たちが居並んでいる。


 そして、その公爵の右腕として、影のように付き従う一人の男がいた。

 一分の隙もなく整えられた銀色の甲冑を纏う男。公爵家筆頭騎士団長、バルカス・ド・グランツ。

 左右対称に整えられた口ひげを蓄え、冷徹な銀の瞳で前方のカフェを見据える彼は、今度こそ失敗は許されないと、甲冑の内側で拳を握りしめていた。


(……思い出すだけでも、屈辱で胃が焼けるようだ)


 数週間前。彼は一度、少数の部下を引き連れてこの店に足を踏み入れたことがある。

 だが、そこで彼を待っていたのは、得体の知れない「恐怖」だった。


「ぐ、ぬぅ……! お、覚えておれよ……! 公爵閣下へのこの不敬、決してタダでは済まぬぞ!」


 真っ赤に熱を帯びた甲冑から立ち上る、肉が焼ける寸前の異臭と、自身のプライドが焦げる臭い。

 ルイやゾアによって「調理」されるかのように一方的に追い払われたバルカスは、騎士としての威厳など微塵も残っていない無様な姿で、転げるように店から這い出したのだ。


 精鋭騎士たちも同様だった。

 武器が意志を持っているかのように熱を帯び、手放さざるを得なかった恐怖に震え、伝説の魔物を前にした子犬のように、ガチガチと鎧を鳴らして後退りしていた。


「ひ、引き上げだ! 総員、撤退せよ!」


 あの時の悲鳴のような号令。

 泥を撥ね散らしながら逃げるように森を去った、あの日の屈辱――。


 ユリウスの甘言によって、公爵には「お嬢様を守る結界が強固すぎて一時撤退した」と塗り固められた報告が上がっているが、バルカス本人の心には深い傷跡が刻まれている。


「バルカス……いいな、抵抗する者はすべて叩き伏せろ。娘の横にいる不届き者は、その首を撥ねても構わん」


 公爵の低い声に、バルカスは引きつるような表情を押し殺し、無機質な声を絞り出す。


「……御意。閣下の命に従い、すべてを『正しき形』に戻しましょう」


(今度は閣下もいらっしゃるのだ。あの時のように、無様に煮え湯を飲まされるわけにはいかん!)


 朝霧を切り裂き、銀色の甲冑が朝日にぎらりと反射した。

 公爵の執念。そして、復讐に燃える(が、内心びびっている)筆頭騎士バルカス。


 アリシアの「自由」を賭けた、最大にして最悪の嵐が、今まさにカフェの扉を叩こうとしていた。


 ◇


 その朝、カフェの周囲に漂っていたのは、アリシアが焼き上げた「ベーコンと彩り野菜のサンドイッチ」の芳醇な香りと、ユリウスが贅沢に淹れた最高級コーヒーの香りだった。


「おーっほっほっほ! 見なさい、この完璧な火入れ! もはや私の魔力は、世界最高の調理熱源として完成したわ!」


「カトリーナ、火力が強すぎる。トーストが焦げるぞ」


「うるさいわね、この不機嫌な黒髪! 私の情熱に口を挟まないで!」


 厨房では首席魔導師がオーブンの前で杖を振り、テリオンが面倒そうにパンを並べている。


 テラスでは、かつてバルカスが率いていたはずの騎士たちが、アリシアお手製のエプロンをつけ、鼻歌まじりに大理石の床をピカピカに磨き上げていた。

 そこに、突如轟音が響き渡る。


 ――バガァァァァァァァン!!


 無造作に、土足で店内に踏み込んできたのは、銀色の甲冑を纏ったバルカス。

 そして、その後ろには怒りで顔を真っ赤にしたお父様の姿があった。


「アリシアァァ! 迎えに来たぞ! この不潔な店ごと、そのルイという男を――」


 お父様の叫びが、ピタリと止まった。

 彼らが目にしたのは、血に飢えた魔物でも、娘を監禁する邪悪な魔導師でもなかった。


 まず視界に入ったのは、アリシアお手製のエプロンを甲冑の上に律儀に着用し、膝をついて大理石の床を「磨き粉」で一心不乱に磨き上げている、バルカス子飼いの精鋭騎士たちの姿だった。


「……え?」


 静まり返る店内。

 バルカスの銀の瞳が、かつてないほど激しく泳ぎ始めた。


「き、貴様ら……何を、何をしているのだ……?」


「あ、バルガス様! 見てください、この大理石の輝き! 汚れを落とすと、心まで洗われるようです!」


 爽やかな笑顔を向ける部下に対し、バルカスの顔が引きつる。

 さらにその視線の先、カウンターの特等席には、優雅に脚を組み、湯気の立つコーヒーを楽しんでいるユリウスがいた。


「おや、閣下。お早い到着ですね。これこそが、お嬢様を贅沢と安らぎで骨抜きにする、精神破壊作戦『ホスピタリティ・地獄』の全容でございます」


「貴様ァァ! どの口がそれを言うか! そのコーヒーは、私が活動資金として送った最高級の豆ではないか!」


 お父様の怒号が響く中、カトリーナが厨房から不服そうにフライ返しを握って現れた。


「ちょっと! そこの髭のおじさま! 今、最高のスフレを焼いているんだから、扉を開け放して室温を下げないでくださる!? これだから田舎の公爵はデリカシーがなくて困るわ!」


「い、田舎の公爵……? 私を、この私が派遣した首席魔導師が……?」


 お父様の膝が、がくがくと震え始める。

 その様子を、カウンターの奥で穏やかに見守っていたルイ様が、ゆっくりと立ち上がった。


「これは、アリシアのお父上……失礼、公爵閣下でしたね。ようこそ、我らが憩いの場へ」


 ルイ様の放つ圧倒的な王者の風格に、さしものお父様も一瞬たじろぐ。


 そして、ついに真打ちが登場した。

 奥の厨房から、一糸乱れぬ完璧なカーテシーと共に、アリシアが姿を現したのだ。


「お父様、お母様……あら、お母様はいらしてないのね。お父様、ようこそお越しくださいましたわ。今、ちょうど『結界維持費』で購入した最高級の和牛が、いい具合に焼き上がったところですの」


「和牛……? 結界維持費で……ステーキを、焼いたのか……?」


「ええ。皆様、お父様の『愛』が詰まった肉だと、涙を流して召し上がってくださいましたわ」


 私は、絶望に打ちひしがれたかのような完璧な悲劇のヒロインの所作で、そっと目元を拭った。

 その姿は、あまりにも美しく、あまりにも哀れみに満ちていた。


「お、おのれ……! バルカス、何を呆然としている! この者たちを、今すぐ捕らえろ!」


「は、はっ! 総員、剣を――」


 バルカスが叫びかけたその時。

 店の隅に静座していたリザードマンのゾアが、ゆっくりと立ち上がった。その巨躯が放つ威圧感に、バルカスの脳裏にあの「熱せられた甲冑」の恐怖が蘇る。


「……バルカス。また、甲冑を焼きに来たのか? 次は、中身ごとウェルダンにしても構わんが」


「ひっ……!」


 その瞬間、空気がひたりと冷えた。

 お父様の背後、いつの間にか壁際に立つ影がある。


「……動くな」


 低く抑えた声と同時に、テリオンの指が弓弦に掛かる。

 放たれてはいない。ただそれだけで、逃げ道はすべて潰された。


 さらに、天井の梁から逆さまに吊り下がったイグニスが、冷徹な瞳でダガーを弄んでいた。


「公爵閣下。あんたの首を獲るのは簡単だが、今は芋の皮むきの方が忙しくてな……邪魔をするなら、あんたの髭を三枚におろしてやろうか」


 お父様が誇った「権力」の象徴――バルカス率いる騎士団や首席魔導師カトリーナ。

 彼らは今や一人の少女が作る「料理」に屈服し、さらにはこの森の最強の住人であるゾアやテリオン、イグニスまでもが、アリシアの日常を守る盤石な盾として控えていた。

 お父様がどれほどの軍勢を連れてこようと、ここはもはや、彼の言葉が届く場所ではないのだ。


「あ、あああ……私の騎士団が、魔導師が……そして、なぜあのような化け物どもまでが娘の味方をしているのだ……!」


 私は、絶望に打ちひしがれ、もはや腰を抜かして動けない父の腕をがっしりと掴んだ。

 その力は、かつての人形のような令嬢からは想像もつかないほど強く、確かなものだった。


「お父様、そんなところで跪いては、せっかく騎士たちが磨いた大理石が汚れてしまいますわ……さあ、あちらの個室へ。じっくりと、これまでの『活動報告』をさせていただきますわね?」


「ヒィッ……! アリシア、お前、その目は……その笑みは……!」


 お父様の悲鳴を無視し、私は彼を誰もいないパントリーへと引きずっていく。

 かつて自分を「駒」として扱った男に対し、私は一切の容赦を捨てていた。

 これから奥で行われるのは、公爵としてのプライドを粉々に打ち砕き、二度とこの森に牙を向けようなどと思わせないための、完璧な「お説教」だ。


 扉の隙間から見えた、冷徹に光るアリシアの瞳。

 それを見たバルカスが、自身の首筋を押さえてガタガタと震えだしたのは言うまでもない。

 やがて、重厚な扉が音もなく閉ざされた。


 本当の自由とは、誰かに与えられるものではない。

 自らの手で奪い取り、守り抜き、そして、美味しく調理するものなのだ。


 森のカフェには、パントリーから漏れ聞こえるお父様の悲痛な泣き声と、それを隠すように賑やかな仲間の笑い声が、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。

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