第33話 まかない大会と、嵐の前の静寂
大理石のテラスが完成し、カトリーナという「最新式オーブンをも凌駕する精密な熱源」を得たことで、カフェの運営は驚くほど軌道に乗っていた。
そこである朝、私はカウンターで宣言した。
「皆様、今日は臨時休業にいたしますわ! たまにはゆっくり羽を伸ばしましょう?」
(今日は一日中パジャマでゴロゴロして、新作のレシピを妄想しまくりたいんですわーーー!!)
私の心の叫びとは裏腹に、店内の空気は一瞬で凍りついた。
カウンターで本を読んでいたルイ様が、穏やかに、けれど逃げ場のない視線を向けてくる。
「休み、だって? アリシア、私は君を一人で休ませるほど無用心ではないつもりだが」
「いや、ルイ様。それは過保護すぎますわ。クラリスからも何か言って……」
助けを求めた先で、クラリスは恐ろしい手際で雑巾を絞り、鋭い目つきで床を睨んでいた。
「お嬢様。お嬢様が休まれている間、この大理石に一粒の埃も寄せ付けぬよう磨き上げるのが私の休息です」
「それは休みではありませんわ。テリオンも、ゾアも、そんなに殺気立たないで?」
ダークエルフの狩人であるテリオンは、長い耳をピクリと動かし、店先で短剣を研ぎ始めた。
「アリシアが動かないなら私が代わりに獲物を仕留めてこよう。今日は熊の肉でどうだ? 脂が乗って、料理には最適だろう」
「いりませんわ! 熊を背負って帰ってくる休日は御免ですわよ。ゾア、貴方も座りなさいな」
リザードマンのゾアは、テラスの隅で仁王立ちして森を睨み、太い尻尾で大理石を叩いた。
「主よ。貴殿が休むということは、防衛が手薄になるということだ。我らでこの『砦』を死守せねばならん。不審な羽虫一匹通さぬ」
さらに厨房からは、真紅の魔導衣を翻したカトリーナが不満げに顔を出した。
「ちょっと! 休みなんて認めないわよ! 昨日のスフレの火加減、私まだ納得いってないんだから! 今日中に再戦しなさい!」
(だめだ、この人たち! 全然休む気がないどころか、私を休ませる気もありませんわ!)
結局、私の「ゴロゴロ計画」は霧散した。
仕方なく、私は「全員参加のガーデンパーティー」を提案した。
◇
こうして、愉快で頼もしい仲間たちと、さらには「腹が減った」と現れたイグニスまで巻き込んだ「まかない大会」が始まった。
「テリオン! 肉を叩きすぎですわ! 狩人ならもっと獲物を慈しみ……あ、貴方にそんな感情はありませんでしたわね」
「うるさい、こうか!? 射抜くのは得意だが、調理は専門外だ」
クラリスがイグニスのつまみ食いを箒で撃退し、カトリーナが「私がこの鍋の対流を完璧に制御してあげるわ!」と鼻息荒く杖を振る。
そんな中、リザードマンのゾアが驚くほど繊細な手つきでハーブを刻んでいた。
「主よ、この香草の断面、戦士の太刀筋のように鮮やかだろう」
「……ええ、ゾア。貴方が一番筋がいいですわ」
ふと視線をやると、詐欺師のユリウスがテラスの隅でルイ様と密談していた。
おそらく、お父様から「ルイ排除予算」としてさらなる資金をふんだくる算段だろう。
「イグニス、貴方も手伝いなさいな。そのダガーで野菜の皮むきはできて?」
「俺の刃をそんなことに使わせるのか……まあいい、芋の皮なら三秒で剥いてやる」
一流の暗殺者が無駄な技巧でじゃがいもを剥き、首席魔導師が鍋を熱し、リザードマンが盛り付ける。
(ふふっ。お父様、お母様。ご覧になって? 私の周りには、もう『駒』なんて一人もいませんわ。ここは、世界で一番騒がしくて、温かい……私の居場所なんですの!)
完成したシチューを囲み、全員でテラスに座る。
真っ先に口へ運んだテリオンが「……悪くない」と呟き、ゾアが満足げに喉を鳴らした。
「ルイ様、お味はいかが?」
「ああ、最高だよ。君たちが作ったという隠し味が、よく効いている」
ルイ様の微笑みに、スタッフ一同が照れくさそうに視線を逸らす。
(休日は潰れましたけれど、みんなで食べるご飯が一番美味しいですわーーー!!)
私の「自由」は、この騒がしい絆の中にこそあるのだと、改めて確信した一日だった。
◇
賑やかな宴も終わり、森に深い夜が訪れる。
食べ過ぎたテリオンは「修行が足りぬ」と呟きながら森の闇に消え、カトリーナは自室で魔導書の山に埋もれて眠りについた。
私は片付けを終え、月明かりが差し込む大理石のテラスへと出た。
そこには、一人で夜風に吹かれているルイ様の姿があった。
「ルイ様、まだ起きていらしたの?」
「ああ、少し風が心地よくてね……君も、今日は疲れただろう」
ルイ様は隣に立った私を、いつもの穏やかな眼差しで見つめる。
その瞳には、昼間の喧騒の余韻と、それを愛おしむような色が浮かんでいた。
「今日は、騒がしすぎましたわね。ゆっくり休んでいただくはずでしたのに」
「いや、あんなに賑やかな休日は初めてだったよ。アリシア、君がこの場所に持ち込んだのは、料理だけではないようだ。君は、孤独だった者たちに『帰る場所』を与えている」
ルイ様の言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
お父様の「駒」として、完璧な人形であることを求められていた私。
けれど、今こうしてルイ様の隣に立ち、誰にも邪魔されない夜空を見上げている。
「……私はただ、自分が自由になりたかっただけですわ。それに皆様、食べ物に釣られているだけのように見えますけれど?」
「ふふ、それもそうかもしれない。だが、君が淹れるコーヒーや、君が笑うあの瞬間のために、彼らは命すら賭けるだろう。もちろん、私もね」
ルイ様が私の手に、そっとご自身の手を重ねた。
その大きな手の温もりに、心臓が跳ねる。
お父様に決められた政略結婚の相手には、一度も感じたことのない、静かな、けれど確かな高鳴り。
私は顔を赤らめるのを隠すように、夜空の月を見上げた。
けれど、ルイ様は重なり合った手から伝わる私の鼓動すら、すべて見通しておられるような気がしてならない。
「ルイ様……」
「アリシア。君がこの森に来てから、世界の色彩が変わったように思う。これまで私は、ただ『静寂』であることを選んできた。けれど今は、君が立てるコーヒーの香りや、厨房から聞こえる騒がしい笑い声が、何よりも愛おしい」
ルイ様は空いた方の手で、私の頬にかかった髪をそっと耳にかけた。
その指先がわずかに触れるだけで、全身が熱くなる。
お父様の命令に従い、冷え切った政略結婚を受け入れていたら、こんなにも心が震える瞬間が人生に訪れるなんて、知りもしなかっただろう。
「私も、ルイ様と出会えて、本当の自分を見つけることができましたわ……あ、いえ、あまりにお転婆すぎる自分も見つかってしまいましたけれど」
私が照れ隠しに笑うと、ルイ様は慈しむような深い微笑みを湛えて、私の額にそっと唇を寄せた。
「どんな君でも、私が守るよ……お父上が差し向ける『嵐』からも、ね」
その言葉は、単なる地主の騎士道精神などではない、圧倒的な力を持った約束のように響いた。
月の光に照らされた大理石のテラスで、私たちはしばらくの間、寄り添いながら静かな幸福を噛み締めていた。
◇
その頃、王都の公爵邸。
重厚な執務机は、荒々しく叩かれた拳によって、あわや砕け散らんばかりに震えていた。
「……何だと? 報告はどうなっている!」
アリシアの父、ヴァレンタイン公爵の声が怒りで低く唸る。
手元の報告書には、ユリウスの筆跡でデタラメながらも「もっともらしい」地獄絵図が並んでいた。
『お嬢様は、騎士団の執拗な包囲網と、派遣された首席魔導師カトリーナの無慈悲な魔法攻撃により、一歩も外へ出られぬほど精神的に追い詰められております。連日連夜の攻防により、お嬢様はルイという男に泣きつくのが精一杯。到底、王都へ戻る余裕などございません』
「……騎士団と首席魔導師を送り込んでから、もう幾日が過ぎた? これほどの戦力を投入してなお、なぜ娘を捕らえて連行したという報告が上がってこんのだ!」
公爵は、手元にあった高級なクリスタルグラスを壁に投げつけた。
報告によれば「刺客が優秀すぎて娘を極限まで苦しめている」はずなのに、一向に「目的達成」の四文字が届かない。
それどころか、追加の予算ばかりが「結界維持費」として消えていく。
「ユリウスの報告は『順調』の一点張りだが……派遣した騎士たちも、カトリーナも、誰一人として私の前に顔を出さぬのはどういうわけだ!」
公爵の瞳に、執念深い炎が宿る。
彼は壁に掛かった儀礼用の剣を手に取り、狂気すら感じさせる笑みを浮かべた。
「……おのれ、ルイとやら。そして、いつまで経っても仕事を完遂できぬ無能な魔導師どもめ。こうなれば、私が直接出向くしかない」
公爵はマントを翻し、重い足取りで部屋を後にした。
「王国最強と謳われた私の武力を以て、あの忌々しい森ごと、娘を力ずくで引きずり戻してやるわ……!」
親子の最終決戦――公爵自らの「殴り込み」という最大級の嵐が、平和なカフェに向かって動き出そうとしていた。




