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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第1章

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第32話 首席魔導師の情熱と、約束の赤のラザニア

「いい、カトリーナ! 表面のチーズは黄金色の気泡が弾ける二百度、中のトマトソースと生地の層は、旨味を閉じ込める八十度をキープして。一秒でも外れたら、それはもう私の料理ではありませんわ!」


「わ、分かってるわよ! この私を誰だと思ってるの、魔法演算なら完璧にやってのけるわ! ふんっ、コンマ単位で熱伝導率を固定してあげるんだから!」


 厨房では、真紅の魔導衣を翻したカトリーナが、宝石のついた杖をオーブンに向けて必死に魔力を注いでいた。

 お父様が差し向けた宮廷魔導師のプライドは、今や「完璧な焼き色のラザニア」を完成させるという一点に集約されている。


 私は、庭で採れたばかりの完熟トマトをたっぷり煮込んだ特製ソースと、手打ちの生パスタ、そして濃厚なホワイトソースを幾重にも重ねていく。

 仕上げには、お父様の騎士たちが(お土産として)持ってきた最高級のモッツァレラチーズを、これでもかと贅沢に乗せた。


 ◇


「……待たせたわね、イグニス。約束のトマト、最高の形で取り立てて差し上げますわ」


 カウンターに置かれたのは、熱々の耐熱皿。

 カトリーナの緻密な火力制御によって、表面のチーズはまるで宝石を散りばめたような完璧な焦げ目をまとい、中からはグツグツと真っ赤なトマトソースが、香ばしい湯気と共に顔を出している。


「……ふむ」


 イグニスは無言でフォークを入れ、層になった生地とソース、そしてとろけるチーズを一気に口へ運んだ。

 静寂がカフェを包む。カトリーナが「どうなのよ……!」と唾を飲み込み、テリオンやゾアも遠巻きに様子を伺う中、イグニスは目を見開き、ゆっくりと咀嚼した。


「…………ああ、これは……胃袋の中に、直接『太陽』が落ちてきたような味だ」


 イグニスは、かつてないほど深い溜息をついた。

 トマトの鮮やかな酸味、肉の旨味、そしてチーズのコク。

 カトリーナの魔法によって全ての層が理想的な温度で混ざり合い、口の中で爆発している。


「美味い……あの日、泥だらけになって苗を植えた甲斐があったというものだ」


「ふふ、喜んでいただけて何よりですわ」


 私は完璧な淑女の微笑みを浮かべながら、隣で震えているカトリーナの肩を叩いた。


「どう、カトリーナ? 貴女の魔法があったからこそ、この味に辿り着いたのよ。世界でたった一人、貴女にしか焼けないラザニアですわ」


「な……! 当たり前よ! この『首席の炎』の価値が分かったかしら……! 次は……次はもっと凄いパエリアだって焼いてみせるんだから!」


 カトリーナは顔を真っ赤にして、けれどどこか嬉しそうに、お代わりのショコラを頬張った。

 そんな光景を、ユリウスはカウンターで手帳を広げながら眺めていた。


「……ふむ。最高級オーブンの魔力源として、宮廷魔導師を確保。外周の警備は、飢えた一流の暗殺者がボランティアで担当。お嬢様、これをお父様には『騎士団が魔導師と共に、お嬢様を精神的に追い詰め、包囲網を維持している』と報告しておきましょう」


「まあ、ユリウス。その通りではありますけれど、言い方一つで随分と物騒になりますのね」


 私はクスクスと笑いながら、新たな生地をこね始めた。

 ユリウスの筆が躍るたび、お父様の財布からさらなる「開店祝い」が引き出されていく。


(お父様の『刺客』たちが、今や私のレシピを完成させるための『最強のパズルピース』になりましたわーーー!!)


 森の奥。

 お父様が絶望させようと送り込んだ全てを、私は最高のスパイスに変えて、今日も軽やかに笑うのだった。


 ◇


 それから数日が経ち、カフェの風景は、お父様が見れば卒倒しかねないほど「充実」したものへと変貌していた。


 厨房では、お父様から届いたばかりの最新式魔導オーブンが、絶え間なく香ばしい匂いを吐き出している。

 その前で、プラチナブロンドの髪を振り乱したカトリーナが「首席の火加減を見なさい!」と鼻息荒く魔力を注いでいた。

 庭では武装した騎士たちが、まるでお茶会の給仕のように丁寧に枯れ葉を掃除し、森の境界ではイグニスがパトロールという名の、食後の腹ごなしの散歩をしている。


 そんな、どこか狂ったように賑やかな喧騒から少し離れたカウンターの端。

 ユリウスがふと羽ペンを置き、眼鏡の奥の鋭い瞳をルイ様へと向けたのを、私はコーヒーを淹れながら横目で見ていた。


「……ルイ様。失礼ながら、一つお伺いしても?」


 ルイ様は、私が淹れたコーヒーの香りを楽しみながら、優雅に視線を上げた。


「私に答えられることなら構わないが……閣下への報告書は書き終えたのかい?」


「ええ。閣下には『騎士団の重圧により、お嬢様はルイという名の素性の知れぬ男に縋らざるを得ないほど精神的に孤立している』と書いておきました……もっとも、実際は逆ですが」


 ユリウスは口角をわずかに上げつつも、その声には一切の油断がない。


「ルイ様。貴方の所作、そしてあのアリシア様を相手にしてなお一切揺らがぬその余裕。ただの『森の地主』にしては、少しばかり品格が過ぎます。それに……」


 ユリウスは声を落とし、カトリーナが必死に制御しているオーブンの「蒼い炎」を指差した。


「宮廷魔導師が全力で制御しなければ暴走するはずのあのオーブンが、貴方が傍を通る時だけ、凪いだ海のように静かになる……魔力そのものが、貴方を恐れ、跪いているように見えるのですが?」


 カフェの空気が、一瞬にして冷たく張り詰めた。

 カトリーナの放つ熱気すら、ルイ様の周囲だけは凍りついたように凪いでいる。


 ユリウスは確信していた。

 この男は、アリシアが思っているような、ただの風変わりな地主などではないと。

 すると、ルイ様は小さく、けれど深く、王者の風格を湛えた微笑を浮かべた。


「……君は、あまりに優秀すぎるな。公爵には惜しい人材だ」


 ルイ様がわずかに伏せた瞳から、圧倒的なまでの魔力の片鱗が漏れ出す。

 詐欺師として数多の修羅場を潜り抜けてきたユリウスの背中に、冷や汗が流れるのが分かった。


「私はただ、彼女が焼くパンと、あの笑顔を誰にも邪魔させたくないだけだ。例えそれが、彼女の父親であってもね」


 その言葉に含まれた絶対的な意志に、ユリウスは悟ったのだろう。

 この男の正体が何であれ、敵に回してはいけない。

 そして――この秘密を共有し、お父様を騙し抜くことこそが、今自分にできる最高のスリルであると。


「……承知いたしました。では、報告書には『正体不明の男ルイは、貧相な身なりでお嬢様に寄生している不届き者である』と、一段と惨めに書き換えておきましょう」


「ふふ、頼むよ」


 二人の「食えない男」たちの間で、私の知らない秘密の契約が交わされた。


 ◇


(……よしっ! 今日も一段とコーヒー豆の挽き具合が完璧ですわ!)


 そんな緊迫したやり取りがあったとも知らず、私はカウンターの裏で口元に穏やかな笑みを浮かべる。

 お父様から届いた最高級の豆を、これまたお父様の騎士に挽かせた一杯。

 自由の味は、今日も格別だ。

 するとそこへ、ユリウスが何食わぬ顔で歩み寄ってきた。


「お嬢様。先ほど閣下より『ルイという男を直ちに排除せよ』との厳命が届きました」


「まあ。お父様ったら、まだそんなことを」


「ええ。ですので、排除のための『特殊な対抗結界』を張るための予算として、金貨五百枚を追加で要求しておきました……実際には、テラスを大理石の床にするための工事費に充てさせていただきますが」


「さすがユリウス! 話が早くて助かりますわ!」


 お父様、ありがとうございます。

 お父様が私の隣人を「排除」しようと資金を投じるたびに、私のカフェは王宮よりも豪華なテラスを手に入れることになりますわ!


 窓の外では、イグニスが私の差し出したラザニアを黙々と平らげ、カトリーナが「次はもっと高い火力を出してやるわ!」とオーブンに話しかけている。

 私の「自由」は、お父様の執念と、怪しげな仲間たちの秘密を養分にして、どこまでも高く、美味しく育っていくのだ。


「ルイ様、お代わりはいかが? 最高級の豆を、お父様の騎士が魂を込めて挽いた、特製のコーヒーですわ!」


 私は満面の笑みで、この森で一番の「お得意様」に、とっておきの一杯を注いだ。

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