第31話 宮廷魔導師の再就職先は、オーブンの前
王都のヴァレンタイン公爵邸。
主である公爵は、苛立ちのあまり高級な絨毯を革靴で踏み荒らしていた。
「なぜだ! 騎士団はどうした!『連れ戻した』という報せが、なぜまだ届かん!」
机を叩く公爵の目の前には、一通の手紙が置かれている。
それはユリウスがカフェから魔法伝書で送りつけた、嘘で塗り固められた「偽りの成果報告」だった。
公爵は、自分が誇る精鋭騎士団が今やエプロン姿でジャガイモの皮を剥いているとは、夢にも思っていない。
『――閣下。計画は最終段階です。お嬢様は差し向けた高級食材の山を見て、あまりの贅沢さに腰を抜かしておられます。その動揺を誘い、精神的に追い詰める……すべては閣下の狙い通りです』
手紙の文面を思い返し、公爵は鼻息を荒くして虚空に叫ぶ。
「ふ、ふん。当然だ! 豪華な馬車と美食を見せつければ、あのお転婆娘も、自分がどれほど愚かな場所で暮らしているか理解するはずだからな! よし、ユリウスにさらなる資金を送れ! 物欲と食欲で、あの子を完全に飼い慣らしてやるのだ!」
王都の権力者が、自分の娘の「自由」を強化するために全財産を注ぎ込んでいるなど、滑稽極まりない喜劇であった。
◇
一方、そんな王都の喧騒を余所に、当のユリウスはカフェのカウンターで優雅に三杯目のコーヒーを楽しんでいた。
「ふふ。閣下も本当にお人がよろしい。今ごろは追加の軍資金……いえ、お嬢様への『開店祝い』を工面してくださっている頃でしょう」
ユリウスは眼鏡のブリッジを押し上げ、満足げに微笑んだ。
その手元には、お父様から「土地買収用」として預かったままの重たい金貨の袋が転がっている。
「……まあ、ユリウス。お父様をあまりいじめては差し上げないで? お陰でこの最新式魔道具オーブン、火力の魔石が最高級品ですわ。これなら、外はサクッと、中はとろけるような『魔法のフォンダンショコラ』が焼けますわね!」
私は、お父様の執念が結晶化したオーブンを愛おしそうに撫でた。
このオーブンがあれば、キッチンガーデンで真っ赤に実ったあのトマトたちを、もっと美味しく調理できるはず。
けれど、ふと指先に触れるオーブンの熱を感じた時、私の脳裏にある男の言葉が掠めた。
『……トマトが実るまで、この小娘の店が潰れてなきゃいいがな』
あの日、不器用な優しさで迷子のミシェルちゃんを送り届け、共に苗を植えるのを手伝ってくれた男。
(……イグニス。トマトはもう、あんなに立派に実りましたわよ?)
約束の時期はとっくに過ぎている。あの「あばよ」が最後だったのかしら。
……そう思った、その時だった。
「主よ、下がれ!」
テラス席で騎士たちを見張っていたゾアが、地を這うような低い声で警告した。
次の瞬間、森の境界線から、視界を焼き尽くさんばかりの蒼い火炎の矢が飛来した。
「なっ――!?」
ゾアが即座に巨大な斧を振り下ろし、風圧で炎を霧散させる。
だが、熱風が庭を撫で、大切に育ててきたトマトの葉がわずかに焦げる。
「おーっほっほっほ! 汚らしい森の獣に、不遜な詐欺師。そして家名を汚す出来損ないの令嬢。一掃するには、ちょうどいいゴミ溜めですわね」
森の奥から現れたのは、これ見よがしに派手な、金糸の刺繍が施された真紅の魔導衣を纏った少女だった。
縦ロールに巻かれたプラチナブロンドの髪を揺らし、宝石を散りばめた贅沢な杖を誇らしげに掲げている。
その顔立ちは整っているものの、高慢さが隠しきれない釣り上がった瞳が、こちらを完全に見下していた。
お父様が新たに差し向けた、宮廷魔導師の一人だ。
(お父様……! これが、連れ戻すための『説得』だというのですか!?)
彼女が杖を掲げ、さらに巨大な火球を形成しようとした、その時――。
――シュッ。
冷たい風が、一瞬で炎の熱を奪った。
少女の背後に、巨大な影が落ちる。
「……おい、そこの小娘。あまり派手に火を出すな。食材の香りが分からなくなるだろうが」
聞き覚えのある、研ぎ澄まされたナイフのような低い声。
黒いロングコートを翻し、顔の半分を深い帽子で隠した男が、いつの間にか魔導師の喉元に冷たいダガーの刃を添えていた。
「な、ななな、いつの間に!? 誰よ、貴方!」
「……ただの、取り立て屋だ」
イグニスだ。
かつてあの日、「また来る」と約束して去っていった男が、森の静寂を塗り潰すような圧倒的な威圧感を纏って、そこに立っていた。
「小娘。トマトが赤くなったら食わせるという約束、まだ生きてるんだろうな? たまたま通りかかったら、馬鹿が火遊びをしていたんでな……思わず手が動いた」
イグニスは、震え上がる魔導師をゴミでも見るように一瞥すると、私の方を向いて、わずかに八の字に眉を下げた。
「……約束は、きっちり守ってもらうぞ。俺は腹が減っているんだ」
「な、なによ貴方たち! 私は王立魔導院の首席卒業、炎の乙女カトリーナ様よ! この不潔な店ごと焼き払って……」
「やかましい。火の粉が飛んだら、その喉を焼くぞ」
イグニスの冷ややかな一言で、カトリーナと名乗った少女の顔が真っ白に染まった。
彼女の杖を持つ手が、ガタガタと情けなく震える。
私はその様子を眺めながら、エプロンの裾を整え、優雅に歩み寄った。
「あらあら、カトリーナ。そんなに物騒な魔力をお出しになっては、お腹が空いてしまいますわよ? ちょうど今、お父様から届いたばかりの最新式オーブンで、試作のスイーツが焼き上がったところですの」
「な、何よ……食べ物で釣るつもり? 私は公爵閣下から、貴女を連れ戻す大役を……」
「カトリーナ、無理はいけないよ。君もこの香りを嗅げば、戦うのが馬鹿らしくなるはずだ」
カウンターからルイ様が立ち上がり、穏やかに、けれど逃げ場のない微笑みをカトリーナに向けた。
ルイ様の纏う高貴な威圧感に、彼女は「あ……あ……」と声を漏らすだけで、反論すらできなくなる。
私はキッチンへ戻り、焼き上がったばかりのフォンダンショコラを皿に盛った。
真っ白な粉糖を雪のように散らし、庭で採れたばかりのハーブを添える。
「さあ、召し上がれ。熱いうちが、一番『魔法』が効いていますわよ?」
カトリーナはおそるおそる、フォークを手に取った。
中心に刃を入れた瞬間、中から熱々の、とろりとした濃厚なチョコレートが溢れ出す。
「…………ッ!? な、何これ……! こんなの、王宮の晩餐会でも食べたことないわ!」
一口食べた瞬間、彼女の釣り上がった瞳が潤み、頬がバラ色に染まった。
サクッとした外側の生地と、舌の上でとろける濃厚な甘み。
そこに隠し味として入れた、収穫したてのトマトで作った自家製ジャムの微かな酸味が、味を完璧に引き締めている。
「信じられない。この繊細な火の通り、まさに究極の芸術だわ……!」
カトリーナがうっとりと放心している隙に、私はその耳元で優しく囁いた。
「素晴らしい感性ですわ。でもね、カトリーナ。この最新式オーブン、一つだけ欠点がありますの。魔石の出力が強すぎて、私の腕では火力の『微調整』が難しいのです。宮廷魔導師である貴女の、その精密で美しい魔力コントロールがあれば、このショコラはさらに高みへ行けるでしょうに」
「……なっ! 私の……私の魔力が、この料理をさらに美味しくすると言うの!?」
「ええ。この繊細なフォンダンショコラを、世界一の味にする……その『火』を守れるのは、貴女しかおりませんわ」
カトリーナの瞳に、使命感という名の新たな火が灯った。
「……ふ、ふん! 仕方ないわね! 首席である私の魔力が無駄遣いされるのは忍びないもの! 私が、オーブンの管理をしてあげるわ!」
(高給取りの宮廷魔導師が、タダ働きの火力調整係として就職しましたわーーー!! お父様、最高の『人材』をありがとうございます!!)
私は心の中でガッツポーズを決めつつ、呆然としているイグニスの方を向いた。
「イグニス、お待たせいたしましたわ。約束のトマト、最高の一皿にして差し上げますわね」
イグニスは帽子を深く被り直し、わずかに口角を上げた。
「……フン。取り立てた甲斐があったな」
テラスでは騎士たちが掃除をし、庭ではゾアが薪を割り、厨房ではカトリーナが鼻息荒く魔力を練っている。
自由のカフェは、お父様の執念を養分にして、今日も最高に賑やかに、そして美味しく開店するのであった。




