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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第1章

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第29話 公爵閣下の空財布、満たされる胃袋

 翌朝。

 森が朝露に濡れ、透き通った空気の中に陽光が差し込み始めた頃。

 私のカフェの入り口では、開店前からただならぬ一触即発の空気が漂っていた。


「どけ、トカゲ。そこは私の定位置だ」


 低い、獲物を狙う獣のような声。

 そこには、昨夜の宣言通り、巨大な角を持つ鹿のような魔獣を片手で軽々と担いだテリオンが立っていた。

 彼の視線の先には、店のドアを背負うようにして仁王立ちする、鈍く光る鱗に覆われた大男。リザードマンのゾアだ。


「断る。主からこの場所の守護を任されている。素性の知れぬ狩人を通すわけにはいかん」


 ゾアは太い腕を組み、地響きのような声で応じる。

 テリオンの鋭い殺気に対しても、彼は巨大な岩のように微動だにしない。


「素性だと? 私はこの店の『味』に認められた客だ。その図体、邪魔だと言っている。それとも、その鱗ごと串刺しにしてやろうか」


 テリオンの手が、背中の黒弓へと伸びる。

 一方のゾアも、腰に下げた巨大な斧の柄に手をかけた。


「ふふ、朝から賑やかですわね。ゾア、彼は大丈夫ですよ。昨日から私たちの『常連様』になられた方ですから」


 私がエプロンの紐を締めながら店先へ顔を出すと、二人の間に流れていた火花が、一瞬で霧散むさんした。


「アリシア、おはよう。このトカゲが、お前の言っていた用心棒か。趣味が悪いな」


「おはよう、主よ。この尖り耳、非常に不遜だ。つまみ出すべきでは?」


 テリオンとゾアが互いを睨みつけながらも、私の前で武器から手を離す。

 私はその光景に苦笑しながら、テリオンが担いできた立派な獲物に目を向けた。


「まあ、素晴らしい獲物! ありがとうございます、テリオン。ゾア、彼はこう見えて私の料理の大ファンなんです。仲良くしてあげてくださいな」


 二人が不承不承といった様子で視線を逸らした、その時。

 街道の方から、一台の簡素な馬車が近づいてくるのが見えた。

 馬車から降りてきたのは、王都で流行りの派手な外套を纏った、一見すると軽薄そうな面立ちの男だった。

 しかし、その身なりとは裏腹に、綺麗に切り揃えられた金髪と、インテリジェンスを感じさせる眼鏡の奥の瞳は、まるで獲物を品定めする狐のように細められている。

 深い蒼色の瞳。冷徹さと好奇心が同居したようなその眼差しが、私を捉えた。


「お初にお目にかかります、アリシアお嬢様。いえ、『店主殿』とお呼びすべきかな?」


 男は大仰な動作で帽子を取ると、優雅に、しかしどこか人を食ったような笑みを浮かべて一礼した。


「私の名はユリウス。王都で細々と……まあ、『夢』を売る商売をしております」


 ユリウスと名乗った男は、テリオンとゾアから放たれる凄まじい殺気を、眼鏡を指先でクイと押し上げながら、事も無げに受け流した。


「おっと、怖い怖い。私は敵ではありませんよ。セシル殿から、お嬢様に『面白い報告』があるとお預かりしてきました」


 ユリウスが懐から取り出したのは、お父様が心血を注いで買い集めているはずの、あの「土地権利書」の控えだった。


「ヴァレンタイン公爵閣下は、今頃、私が丹精込めて作り上げた『超高級な紙屑』に家宝を次々と注ぎ込んでおられます。閣下の資金は、私を経由して、すべてセシル殿の運営する孤児院と、この森の防衛資金……ひいては、この店の運営費用に回される手筈となっておりますよ」


 ユリウスは狐のような目をさらに細め、深い蒼の瞳で私を見つめた。


「さて、店主殿。ギルドと孤児院の運営で多忙なセシル殿に代わり、私が『公爵閣下からの寄付金』をお届けに上がりました。王都の市場にも滅多に出回らない魔法銀ミスリルのフライパンに、最高級の岩塩……お嬢様の料理で、この森の防衛に協力する者たちを労ってやってほしいとのことです」


 彼は馬車の荷台を叩き、私にウィンクしてみせた。

 お父様が私を連れ戻すために用意した軍資金が、セシルの運営する孤児院の子供たちの食事代になり、さらには私の店の設備投資に化ける。

 私は、お父様の滑稽な末路を思い描き、心の中で盛大にガッツポーズを決めた。


(セシルのところの子供たちもお腹いっぱい食べられるし、お父様の金でカフェがどんどん豪華になっちゃいますわーーー!!)


 私はテリオンが担いできた立派な獲物と、ユリウスが持ってきた最高級のスパイスを見比べ、料理人としての血が騒ぐのを感じた。


「ユリウス、最高の仕事をしてくださって感謝しますわ。ゾア、テリオン、そして、もちろんユリウスも。すぐに最高の朝食を作りますから、席でお待ちになって」


 私が腕まくりをして厨房へ向かおうとすると、背後からあきれたような、けれどどこか嬉しそうなルイ様の声が響いた。


「……アリシア。君の周りには、どうしてこうも一癖ある者ばかり集まるんだろうね」


 いつの間にか店先に出てきていたルイ様は、エメラルドの瞳をさらに細め、どこか呆れたように、けれど愛おしそうに私を見つめていた。

 その眼差しに見惚れそうになるのを、私は淑女の微笑みで誤魔化す。


「あら、類は友を呼ぶと言いますでしょう? ルイ様。さあ、皆様中へ入って。開店準備はもう整っていますわ」


 私はユリウスが馬車から運び出した「魔法銀ミスリルのフライパン」を手に取り、厨房へと滑り込んだ。

 ずっしりとした重み。火を通せば魔法のように熱を均一に伝え、肉の旨みを一滴も逃さないという伝説の調理器具だ。


(お父様、ありがとうございます! このフライパン一つで、王都の高級レストランが数軒買えるお値段ですわよね! 存分に使い倒させていただきますわ!)


 厨房ではクラリスがすでに、テリオンが担いできた魔獣――「霊角鹿れいかくろく」の解体に着手していた。その手際の良さは相変わらず見事だ。


「お嬢様。肉質は最高です。この岩塩と、ユリウス様が持参した香草を使えば、公爵閣下の全財産を溶かすにふさわしい味が仕上がるかと」


「ええ、腕が鳴るわ。クラリス」


 私はミスリルのフライパンを強火にかけ、ユリウスが持ってきた最高級の牛脂を溶かした。

 パチパチという軽快な音と共に、ナッツのような芳醇な香りが厨房を満たす。

 厚切りにした霊角鹿のロース肉を投入すると、魔法銀の驚異的な伝導効率が、肉の表面を一瞬で焼き固めた。

 溢れ出そうとする肉汁を内側に閉じ込め、旨みの塊へと変えていく。


「仕上げは、この特製香草バターで……!」


 ジュワッ、という官能的な音と共に、バターの甘い香りとハーブの爽やかな刺激が弾けた。

 カウンター席では、テリオンが鼻をヒクヒクさせ、今にも飛びかからんばかりの勢いで身を乗り出している。

 一方のゾアは、ユリウスが持ち込んだ「お父様の金の行方」についての書類をルイ様と一緒に眺めながら、満足そうに鼻を鳴らしていた。


「お待たせいたしました。本日のモーニングメニュー、『霊角鹿のミスリル・ステーキ ~王都を溶かした最高級岩塩を添えて~』ですわ」


 皿が並べられた瞬間、店内の空気が一変した。

 テリオンは、昨夜よりもさらに洗練された香りに目を剥き、一切れの肉を口に運ぶ。


「……ッ!? なんだ、これは……昨日の肉も凄まじかったが、この『熱』の入り方は異常だ。噛むたびに森の魔力が弾ける。おい、娘。いや、アリシア様。あんた、魔女か何かなのか」


 テリオンが震える手でフォークを動かす横で、ユリウスは優雅に眼鏡を拭き直し、蒼い瞳で皿を見つめた。


「くく……閣下も不憫だ。まさか自分の愛娘を連れ戻すための資金が、これほど鮮やかな手口で『最高の朝食』に化けているとは。私の書いた偽の権利書に、今頃必死でサインしている頃でしょうよ」


 ルイ様は一口食べると、うっとりと目を閉じ、それから満足そうに私を見て微笑んだ。


「アリシア、最高だ。君の料理は、どんな権力よりも残酷で、そして何よりも人を救う。この味を知ってしまえば、もう誰も、君をこの森から連れ出すことなんてできないだろうね」


 ルイ様のその言葉は、まるで祝福のように私の胸に染み渡った。

 私は彼らの食べっぷりを見届けながら、窓の外に広がる壮大な森を見渡した。

 お父様。貴方がどれだけ私を檻に閉じ込めようとしても、私はこの場所で、貴方の富すらも「最高のスパイス」に変えてみせますわ。

 

 だってここは、私の、私による、私とみんなのための「自由のカフェ」なんですもの!


 完璧な淑女の微笑みを湛えた私の背後で、朝日を浴びたルイ様が、優雅に二杯目の茶を求めてカップを差し出した。


「ところで、アリシア……朝から少し、賑やかになりそうだ」


 ルイ様の視線の先――。

 朝霧の向こう側、森の境界線付近で、陽光を不自然に反射させる金属の光がいくつも揺れている。

 それは、お父様がしびれを切らして差し向けた「連れ戻し隊」の鎧の輝きか、あるいは欲に目がくらんだ新たな刺客か。


「フン。次はトカゲではなく、私の獲物を横取りしようとする『不快な羽虫』が沸いたようだな」


 テリオンが不敵に口角を上げ、空になった皿を名残惜しそうに眺めてから、背中の黒弓に手をかける。

 ゾアもまた、重厚な斧を地響きを立てて地面に下ろし、静かに、けれど圧倒的な威圧感を持って街道の先を睨みつけた。

 お父様。貴方がどれだけ鉄の靴でこの森を蹂躙しようとしても、ここにはもう、一筋縄ではいかない「家族」が揃っていますの。

 

 さて、次のお客様は……お代の代わりに、どんな素敵な「お土産」を持ってきてくださるのかしら?

 私はティーポットを掲げ、エメラルドの瞳に深い知性を湛えた「最愛の常連客」に向かって、最高に不敵で優雅な、淑女の礼を捧げた。

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