第2話 夕焼け色の迷い人と、森のティータイム
「お疲れ様でございました、お嬢様。見違えるようになりましたね」
クラリスがふわりと微笑み、手際よくティーカップを準備し始める。
まだ什器も揃っていないけれど、石造りの立派なオーブンは、磨き上げたおかげで鈍い光を放ち、今か今かと出番を待っているようだった。
「さあ、クラリス。私たちの門出を祝って、最初のお菓子を焼きましょう!」
私は、実家からこっそり持ち出していた最高級の小麦粉と、道中で手に入れた新鮮な卵、そして庭で摘んだばかりのワイルドベリーを並べた。
粉を振るい、バターを混ぜる。
お母様の前では「指先が汚れる」と嫌な顔をされた作業も、今はただ愛おしい。
生地を練る感覚、甘い香りが立ち込める瞬間。
オーブンに入れ、パチパチと薪がはぜる音を聞きながら待つ時間は、どんな舞踏会の待ち時間よりも胸が高鳴った。
「……焼けたわ」
取り出したのは、表面がサクッと黄金色に輝くベリーのスコーン。
立ち上る湯気と共に、甘酸っぱい香りが部屋中に広がる。
一口齧れば、外はカリッと、中は驚くほどふんわり。ベリーの果汁が口いっぱいに弾けた。
「美味しい……! クラリス、これならいけるわ!」
「ええ。これをお出しすれば、森を迷う旅人も、きっと疲れを忘れることでしょう」
そう。ここは森の奥深く。
滅多に人は通らないけれど、だからこそ、もし誰かが辿り着いたなら、最高の癒やしを提供できる場所。
その時だった。
トントン、と。
まだ看板も出していない、開いたばかりの扉が控えめに叩かれた。
「……失礼。道に迷ってしまったのだが、少し休ませてもらえないだろうか」
現れたのは、旅装に身を包んだ一人の青年だった。
彼が深く被っていたフードを外すと、夕暮れ時の柔らかな光がその身に降り注ぐ。
夕焼けをそのまま溶かし込んだような鮮やかな髪。
そして、ふと向けられた視線に、私は息を呑んだ。
彼の瞳は、磨き上げられた極上のエメラルドのように、深く、澄んだ輝きを放っていたのだ。
(なんて……綺麗な方かしら。でも、どこかお疲れのようだわ)
私は瞬時に、ヴァレンタイン家の令嬢としてのスイッチを入れた。
背筋をすっと伸ばし、指先を揃え、慈愛に満ちた完璧な微笑みを浮かべる。
「ようこそ。あいにく開店準備中ではございますが、雨風を凌ぐ程度でしたら、どうぞ中へ」
「それは助かる……すまないね」
ルイと名乗ったその青年は、促されるままに木製の椅子へと腰を下ろした。
私は手際よく、焼きたてのベリーのスコーンと温かい紅茶を準備する。
彼が一口、スコーンを口に運んだ。
サクッ、という小気味いい音が静かな室内に響く。
彼は一瞬、驚いたように目を見開くと、それからゆっくりと目を閉じ、噛みしめるように味わい始めた。
「……美味しい。こんなに心が落ち着く味は、初めてだ」
エメラルドの瞳が細められ、少しだけ彼を覆っていた緊張の糸が解ける。
私は完璧な微笑みを崩さず「ありがとうございます」と優雅に会釈した。
だが、そのままの足取りでキッチンの奥、彼から完全に見えない死角へと入った瞬間――。
私は溢れ出しそうな笑みを堪えきれず、作業着の裾をほんの少しだけ持ち上げ、音を立てずに軽やかなステップを踏んだ。
(やったわ! 初のお客様、ゲットよ……!!)
厳しいお母様の前では、お菓子を焼くことさえ「はしたない」と咎められた。
けれど今、目の前で私の作ったものを「美味しい」と言ってくれる人がいる。
その実感が、抑圧されていた私の心に、これまでにない解放感を与えてくれた。
ひとしきり、心の中で喜びの喝采を叫び、自分を鼓舞するように胸元で小さく拳を握ると、私はスッと深い呼吸をした。
乱れかけた作業着を丁寧に直し、エプロンのシワを伸ばす。
再びキッチンから顔を出した時には、そこには先ほどと変わらぬ、清楚で慎ましやかな「店主のアリシア」がいた。
「お口に合って良かったですわ、ルイ様。お代わりはいかがですか?」
優雅に差し出されたティーポットを見つめ、ルイ様はどこか不思議そうな表情を浮かべた。
「……君は、不思議な人だね。この場所も、君も。まるで、森で見つけた宝物のようだ」
ルイ様のエメラルドの瞳が、熱を帯びたように私を射抜く。
そんな風に真っ直ぐ見つめられることなどなかった私は、令嬢の仮面が剥がれそうになるのを必死に堪えるのだった。
「ごちそうさま……これでお代は足りるかな?」
そう言ってルイ様が置いていった一枚の金貨。
彼を見送ったあと、私はそれを取り上げて、思わず息を呑んだ。
「……っ、これ、は……」
重厚な輝き、そして縁に刻まれた精密な「月と剣」の紋章。
それは、お母様から徹底的に叩き込まれた貨幣学の知識、あるいはかつてお父様が恭しく拝んでいたものと同じ――王室の直系、あるいはそれに準ずる高貴な者にしか所持を許されない、非流通の特注金貨だった。
「旅人……のわけがないわよね。こんなものを、無造作にお代として置いていくなんて」
窓から遠ざかる彼の後ろ姿を見つめる。夕焼け色の髪が、森の影に消えていく。
(……まさか、とんでもない人を招き入れちゃったんじゃ……!?)
驚愕に目を見開いたまま固まる私。
だが、彼が扉の向こうへ消えた瞬間、私はスカートの裾を掴んで誰もいない客席を全力で一周した。
「やったーーー! 正体は不明だけど、超・上客ゲットですわーーー!!」
驚きと興奮で、上品な仮面が完全に剥がれ落ちる。
その金貨一枚あれば、あと半年は掃除用具やお菓子の材料を買い込んでもお釣りがくる。
「……お嬢様。淑女が金貨を握りしめて踊り狂うのはいかがなものかと」
クラリスの冷ややかな、けれど優しい声が響く。私は慌てて裾を離し、何事もなかったかのように背筋を伸ばした。
「……失礼。つい、自由の香りにあてられてしまいましたわ」
コホン、と小さく咳払いをして、私は再び完璧な微笑みを顔に貼り付ける。
たとえ中身が金貨一枚に歓喜する「はしたない娘」であっても、表向きはあくまで気高きヴァレンタイン家の令嬢――。
もしお父様やお母様が、金貨を掲げてステップを踏む今の私の姿を見たならば。
間違いなく「ヴァレンタイン家の誇りはどこへ消えたのですか!」と叫びながら、先祖代々の墓の前で卒倒することだろう。




