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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第1章

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第2話 夕焼け色の迷い人と、森のティータイム

「お疲れ様でございました、お嬢様。見違えるようになりましたね」


 クラリスがふわりと微笑み、手際よくティーカップを準備し始める。

 まだ什器も揃っていないけれど、石造りの立派なオーブンは、磨き上げたおかげで鈍い光を放ち、今か今かと出番を待っているようだった。


「さあ、クラリス。私たちの門出を祝って、最初のお菓子を焼きましょう!」


 私は、実家からこっそり持ち出していた最高級の小麦粉と、道中で手に入れた新鮮な卵、そして庭で摘んだばかりのワイルドベリーを並べた。


 粉を振るい、バターを混ぜる。

 お母様の前では「指先が汚れる」と嫌な顔をされた作業も、今はただ愛おしい。

 生地を練る感覚、甘い香りが立ち込める瞬間。

 オーブンに入れ、パチパチと薪がはぜる音を聞きながら待つ時間は、どんな舞踏会の待ち時間よりも胸が高鳴った。


「……焼けたわ」


 取り出したのは、表面がサクッと黄金色に輝くベリーのスコーン。

 立ち上る湯気と共に、甘酸っぱい香りが部屋中に広がる。

 一口齧れば、外はカリッと、中は驚くほどふんわり。ベリーの果汁が口いっぱいに弾けた。


「美味しい……! クラリス、これならいけるわ!」


「ええ。これをお出しすれば、森を迷う旅人も、きっと疲れを忘れることでしょう」


 そう。ここは森の奥深く。

 滅多に人は通らないけれど、だからこそ、もし誰かが辿り着いたなら、最高の癒やしを提供できる場所。


 その時だった。

 トントン、と。

 まだ看板も出していない、開いたばかりの扉が控えめに叩かれた。


「……失礼。道に迷ってしまったのだが、少し休ませてもらえないだろうか」


 現れたのは、旅装に身を包んだ一人の青年だった。


 彼が深く被っていたフードを外すと、夕暮れ時の柔らかな光がその身に降り注ぐ。

 夕焼けをそのまま溶かし込んだような鮮やかな髪。

 そして、ふと向けられた視線に、私は息を呑んだ。

 彼の瞳は、磨き上げられた極上のエメラルドのように、深く、澄んだ輝きを放っていたのだ。


(なんて……綺麗な方かしら。でも、どこかお疲れのようだわ)


 私は瞬時に、ヴァレンタイン家の令嬢としてのスイッチを入れた。

 背筋をすっと伸ばし、指先を揃え、慈愛に満ちた完璧な微笑みを浮かべる。


「ようこそ。あいにく開店準備中ではございますが、雨風を凌ぐ程度でしたら、どうぞ中へ」


「それは助かる……すまないね」


 ルイと名乗ったその青年は、促されるままに木製の椅子へと腰を下ろした。

 私は手際よく、焼きたてのベリーのスコーンと温かい紅茶を準備する。


 彼が一口、スコーンを口に運んだ。

 サクッ、という小気味いい音が静かな室内に響く。


 彼は一瞬、驚いたように目を見開くと、それからゆっくりと目を閉じ、噛みしめるように味わい始めた。


「……美味しい。こんなに心が落ち着く味は、初めてだ」


 エメラルドの瞳が細められ、少しだけ彼を覆っていた緊張の糸が解ける。

 私は完璧な微笑みを崩さず「ありがとうございます」と優雅に会釈した。


 だが、そのままの足取りでキッチンの奥、彼から完全に見えない死角へと入った瞬間――。

 私は溢れ出しそうな笑みを堪えきれず、作業着の裾をほんの少しだけ持ち上げ、音を立てずに軽やかなステップを踏んだ。


(やったわ! 初のお客様、ゲットよ……!!)


 厳しいお母様の前では、お菓子を焼くことさえ「はしたない」と咎められた。

 けれど今、目の前で私の作ったものを「美味しい」と言ってくれる人がいる。

 その実感が、抑圧されていた私の心に、これまでにない解放感を与えてくれた。

 ひとしきり、心の中で喜びの喝采を叫び、自分を鼓舞するように胸元で小さく拳を握ると、私はスッと深い呼吸をした。


 乱れかけた作業着を丁寧に直し、エプロンのシワを伸ばす。

 再びキッチンから顔を出した時には、そこには先ほどと変わらぬ、清楚で慎ましやかな「店主のアリシア」がいた。


「お口に合って良かったですわ、ルイ様。お代わりはいかがですか?」


 優雅に差し出されたティーポットを見つめ、ルイ様はどこか不思議そうな表情を浮かべた。


「……君は、不思議な人だね。この場所も、君も。まるで、森で見つけた宝物のようだ」


 ルイ様のエメラルドの瞳が、熱を帯びたように私を射抜く。

 そんな風に真っ直ぐ見つめられることなどなかった私は、令嬢の仮面が剥がれそうになるのを必死に堪えるのだった。


「ごちそうさま……これでお代は足りるかな?」


 そう言ってルイ様が置いていった一枚の金貨。

 彼を見送ったあと、私はそれを取り上げて、思わず息を呑んだ。


「……っ、これ、は……」


 重厚な輝き、そして縁に刻まれた精密な「月と剣」の紋章。

 それは、お母様から徹底的に叩き込まれた貨幣学の知識、あるいはかつてお父様が恭しく拝んでいたものと同じ――王室の直系、あるいはそれに準ずる高貴な者にしか所持を許されない、非流通の特注金貨だった。


「旅人……のわけがないわよね。こんなものを、無造作にお代として置いていくなんて」


 窓から遠ざかる彼の後ろ姿を見つめる。夕焼け色の髪が、森の影に消えていく。


(……まさか、とんでもない人を招き入れちゃったんじゃ……!?)


 驚愕に目を見開いたまま固まる私。

 だが、彼が扉の向こうへ消えた瞬間、私はスカートの裾を掴んで誰もいない客席を全力で一周した。


「やったーーー! 正体は不明だけど、超・上客ゲットですわーーー!!」


 驚きと興奮で、上品な仮面が完全に剥がれ落ちる。

 その金貨一枚あれば、あと半年は掃除用具やお菓子の材料を買い込んでもお釣りがくる。


「……お嬢様。淑女が金貨を握りしめて踊り狂うのはいかがなものかと」


 クラリスの冷ややかな、けれど優しい声が響く。私は慌てて裾を離し、何事もなかったかのように背筋を伸ばした。


「……失礼。つい、自由の香りにあてられてしまいましたわ」


 コホン、と小さく咳払いをして、私は再び完璧な微笑みを顔に貼り付ける。

 たとえ中身が金貨一枚に歓喜する「はしたない娘」であっても、表向きはあくまで気高きヴァレンタイン家の令嬢――。


 もしお父様やお母様が、金貨を掲げてステップを踏む今の私の姿を見たならば。

 間違いなく「ヴァレンタイン家の誇りはどこへ消えたのですか!」と叫びながら、先祖代々の墓の前で卒倒することだろう。

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