第28話 エメラルドの嫉妬と、掌の熱
王都、ヴァレンタイン公爵邸。
重厚な執務室で、公爵は優雅にヴィンテージのワインを傾けていた。
その表情には、すべてを掌握している者特有の冷徹な余裕が張り付いている。
「フフ。バルカスのような猪武者には分からぬだろうが、世の中は結局、金と法が支配しているのだ。どれほど腕の立つ用心棒を雇おうが、その足元の土地を奪えば、アリシアは路頭に迷うしかない」
公爵の目の前には、金銀の装飾が施された何枚もの「土地権利書」が並べられていた。
辺境の森一帯を法的に封鎖し、アリシアのカフェを「不法占拠」として断罪する。
その後、飢えと孤独に追い詰められた娘を、慈悲深く連れ戻してやる。
それが公爵の描いた完璧な脚本だ。
「ドーガからの報告が楽しみだ。あやつは金に汚いが、仕事は早い。今頃は、アリシアが泣きながら許しを乞う姿を、特等席で眺めているだろう」
公爵は、その権利書が王都の詐欺師が精巧に作り上げた「ただの紙屑」であることなど、夢にも思っていない。
彼がアリシアを追い詰めるために注ぎ込んだ莫大な工作資金は、今この瞬間も虚空へと消え続けていた。
◇
一方、森のカフェ。
クラリスによって街道の泥沼まで「おもてなし(物理)」されたドーガの悲鳴が消え、店内には再び穏やかな時間が戻っていた。
店内に戻ってきたテリオンは、カウンターの椅子に深く背を預け、天井を仰ぎ見た。
その首筋の力が抜け、陶酔したような溜息が漏れる。
「娘。この『ステーキ』というものは、これほどまでに人を無力にするのか」
彼がこれまで森で食してきたのは、血抜きをして火に翳しただけの、野性味溢れる肉だったはずだ。
だが、私のシャリアピンソース――玉ねぎの酵素で繊維を解き、甘みとコクを凝縮させたそれは、強靭な肉体を持つダークエルフの理性を、いとも容易く蹂躙してしまった。
「借りは返した……だが、あのソースの味が、すでに私の理性を侵食し始めている。不覚だ。この森で最も鋭い鼻を持つ私が、今日からこの香りを求めて彷徨うことになりそうだ」
テリオンは自嘲気味に呟き、自身の鼻先を指でなぞった。
獲物を追うための鋭敏な嗅覚が、今は鼻腔にこびりついた「甘辛い玉ねぎと肉脂の香り」以外の情報を拒絶している。
狩人としての生存本能が、一皿の料理によって「この味をまた求める」という執着へ書き換えられてしまった。
その敗北感が、彼をこれほどまでに揺さぶっている。
「あら、テリオン。彷徨う必要などありませんわ。また獲物を狩れたら、いつでもいらしてください。次は、その獲物に合わせた最高のソースを考えておきますわ」
私が茶目っ気たっぷりに微笑むと、テリオンは弾かれたように視線を逸らした。
褐色の肌に隠れてはいるが、長く尖った耳の先が、隠しきれない動揺を物語るように真っ赤に染まっている。
「フン。言われずとも、明日の夜明けにはこの店にふさわしい獲物を届けてやる」
捨て台詞を吐くようにそう言うと、彼は逃げるような足取りで椅子から立ち上がった。
風のようにしなやかな動作で店を出ていく。ドアベルがチリンと軽やかに鳴り、彼は夜の森へと溶け込んでいった。
「アリシア。彼はどうやら、完全に君の『常連』になったようだね。ただの狩人だと思っていたが、腕前も、君への……視線も、なかなか油断できない相手だ」
ルイ様は読んでいる本から視線を上げ、どこか楽しげに、あるいは少しだけ不満げに目を細めた。
私は、そんなルイ様の様子を揶揄うように覗き込む。
「あら、ルイ様。また少し、妬いてくださっているのかしら?」
私がクスクスと笑うと、背後からクラリスの淡々とした声が響いた。
「お嬢様、ルイ様を揶揄うのはそのくらいになさいませ。それからルイ様も。テリオン様の視線を気にする前に、あの方が残した『お土産』の片付けを手伝っていただけますか?」
クラリスが指し示したのは、テリオンが座っていたカウンター席だ。
そこには、パンでピカピカに拭い取られた空の皿があった。
「パンでソースの最後の一滴まで拭い取るとは。淑女の見習いとしては、あの方の食事作法には改善の余地があると言わざるを得ませんが、料理人への敬意だけは本物のようですわね。さあ、ルイ様。そちらの皿を洗い場まで」
無表情なクラリスに促され、ルイ様は「やれやれ」と肩をすくめて席を立った。
この国のどこかにいた頃の彼なら、皿一枚運ぶことすら想像できなかっただろう。
だが今は、私の店でごく自然に、空いた皿をカウンターの奥へと運んでくれる。
「私の騎士団長が見れば、腰を抜かす光景だろうね」
「あら。この店では、ルイ様も立派な一員ですもの。ふふ、助かりますわ」
洗い場から響く、柔らかな水の音と、皿が触れ合う音。
ルイ様が皿を運び、クラリスがそれを磨き上げる。
その淀みのない連携を見届けながら、私はお父様の執念などどこ吹く風で、棚から特別な茶葉を取り出した。
やがて片付けを終えたルイ様が、再び私の前で椅子を引く。
「お嬢様、ルイ様。私は明日の仕込みの確認をして参ります。お二人でごゆっくり」
クラリスは一切の無駄がない、それでいてどこか「心得た」というような含みのある一礼をすると、音もなく厨房の奥へと消えていった。
店内には、私とルイ様の二人きり。
先ほどまでの賑やかさが嘘のように、静寂が心地よく満ちていく。
「……ふふ。クラリスに気を遣わせてしまいましたわね」
私がポットを温めながらそう言うと、ルイ様は窓の外に広がる夜の森を見つめ、少しだけ相好を崩した。
「彼女の気遣いは、時に鋭すぎるくらいだが……感謝しよう。アリシア、君とこうして静かに過ごす時間が、今の私には何よりの贅沢だからね」
お父様が王都でどんなに莫大な富を積み上げ、偽造された権利書を握りしめて悦に浸っていようとも。
今、この瞬間、私の目の前で穏やかに微笑むルイ様と分かち合う一杯の茶には、金銀財宝のすべてを投げ出しても届かない価値がある。
トクトクと、静かな空間に茶を注ぐ音だけが響く。
立ち上る湯気の向こう側で、ルイ様が私の手をそっと包み込んだ。
「アリシア。公爵が……君のお父上が、手段を選ばずこの場所を壊しに来るなら、私は私のやり方で、君の自由を守り抜く。それを忘れないでほしい」
その言葉は、優しく、けれど絶対に揺るがない強さを持っていた。
私はそっと、彼の手に自分の手を重ねた。
「とても、心強いですわ。ルイ様」
重なった手のひらから伝わってくる熱は、普通の人間よりもずっと高く、力強い。
私はその熱を感じながら、ふと、ルイ様が時折見せる人外じみた「力」を思い出した。
圧倒的な魔力、そして彼が纏う太陽のような輝き。
彼はこの国の、いいえ、歴史の表舞台から消し去られたはずの「太陽の末裔」なのではないか。
そんな予感――真相に、一歩ずつ近づいているような気がして、私の心に小さなさざ波が立つ。
その刹那。
私の瞳がわずかに揺れたのを、ルイ様は見逃さなかった。
彼は包み込んでいた私の手をそっと離すと、今度は私の体を優しく、壊れ物を扱うように引き寄せ、抱きしめた。
「……アリシア」
耳元で囁かれる声が、熱と共に胸に響く。
ルイ様は、私の肩に顔を埋めたまま、いつになく消え入りそうな声で言葉を継いだ。
「もし……いつか私が、君の想像もつかないような存在だと分かっても……君は、私のそばから離れていかないでくれるだろうか」
その弱気な問いかけに、私は一瞬、戸惑いで息を呑んだ。
いつも余裕に満ち、すべてを達観しているようなルイ様が、捨てられた子供のように震えている。
ルイ様が何を隠し、何を恐れているのか、今の私にはまだ分からない。
けれど、答えは一つしかなかった。
私は、彼の背中にそっと腕を回し、その熱をしっかりと受け止める。
「ルイ様。貴方が何者であっても、私にとっては大切なお客様……いえ、私の自由を分かち合いたい、ただ一人の人ですわ。どこにも行きません。私が、離しませんもの」
私の腕に力がこもるのを感じたのか、ルイ様が、安堵したように小さく息を吐く。
彼の中に渦巻く嵐のような「力」が、ほんの一時だけ、穏やかな火へと形を変えたような気がした。
静寂の中、カチカチと時を刻む時計の音だけが聞こえる。
窓の外では、月光が森を銀色に染め上げていた。




