第27話 不衛生なネズミには、クラリス流の「お掃除」を
「お嬢様、落ち着いて。まずはあちらの『腹ペコな狩人様』を片付けてしまいましょう。ネズミの掃除は、機を見て……」
クラリスの低い囁きに頷き、私は最後の手仕上げに取りかかった。
鉄板で焼き色をつけた厚切りのロース肉に、特製のシャリアピンソースを回しかける。玉ねぎの甘みと赤ワイン、そして醤油の香ばしさが弾け、厨房の外まで暴力的な香りが漂い出した。
「お待たせいたしました、テリオン。獲物の代わり……いえ、獲物以上の満足をお約束しますわ」
私がカウンターに置いたのは、溢れんばかりの肉汁を湛えた『極厚ステーキ・特製オニオンソース添え』
テリオンは、まるでお預けを食らっていた狼のような鋭い眼差しで、その一皿を凝視した。
「これが、対価か。見たこともない料理だが……香りが、脳をかき乱す」
彼は震える手でナイフとフォークを手に取ると、一切れを口に運んだ。
その瞬間、彼の端正な顔立ちが劇的に歪む。驚愕と、圧倒的な快楽。
「……っ!? なんだ、この柔らかさは……! 溢れる肉の脂を、この甘辛い汁が完璧に支配している。咀嚼するたびに、体中の血が沸き立つようだ」
不遜だった態度はどこへやら、彼は一心不乱に肉を頬張り始めた。
その様子を、ルイ様は冷ややかな、しかしどこか満足げな目で見守っている。
「どうやら、君の胃袋はアリシアに屈服したようだな。テリオン」
「……黙れ。食っている最中に、話しかけるな……!」
テリオンが夢中で肉に食らいついている、その時だった。
店の外、勝手口に近い窓の影で、カサリ……と場違いな音がした。
クラリスが言っていた「ネズミ」だ。
厨房の裏口からそっと覗き見ると、そこには森の緑に全く馴染まない、奇妙な男がしゃがみ込んでいた。
派手な刺繍が施された、成金趣味の絹のベスト。
脂ぎった顔には不自然なほど白い粉を叩き、細く整えられた口髭が、卑屈な笑みを浮かべてヒクヒクと動いている。
手には、何やら怪しげな望遠鏡のような魔道具を握りしめ、店内の様子を熱心に記録しているようだ。
「ヒッヒッヒ。見つけたぞ、ヴァレンタイン公爵家の『失踪した宝物』を。それに、あの男、指名手配犯ではないが、王都に売れば相当な値がつく特級の『火種』だ。これを公爵閣下に報告すれば、私の商会は王室御用達も夢ではない!」
男の名は、ドーガ。
王都で悪名高い「闇の仲介屋」であり、お父様が放った、金で動く猟犬の一匹だった。
彼は、自分がすでに「本当の狩人」の射程圏内に入っていることに、まだ気づいていない。
「……ちっ。不快な臭いだ。せっかくの食事が、ドブネズミの腐臭で汚された」
最後の一切れを飲み込んだテリオンが、低く、低く呟いた。
その瞳には、先ほどまでの食欲に代わり、凍てつくような殺気が宿っている。
「……テリオン?」
「娘。お前のおかげで、三日分の空腹が最高の幸福に変わった。この『借り』今すぐここで返してやろう」
テリオンは音もなく椅子から立ち上がると、背負っていた漆黒の弓を手に取った。
迷いのない足取りで入り口へと向かい、扉を勢いよく開け放つ。
「おい、ドブネズミ。私の食後の運動に付き合え」
彼はそのまま、森を駆ける風のような速さで外へと飛び出していった。
あまりの瞬発力に、入り口のドアベルが激しく「カランカラン!」と鳴り響き、その余韻が消える頃には、すでに彼は茂みの奥へと姿を消していた。
◇
「ヒヒッ、あとはこの証拠を持って……あぎゃっ!?」
森の茂みでほくそ笑んでいたドーガの喉元に、一本の矢が突き刺さった。
正確には、矢の先端が彼の喉の皮膚を薄皮一枚だけ切り裂き、背後の巨木に深々と突き刺さって、男を木に縫い付けていた。
「騒ぐな、ネズミ。次の一矢は、その脂ぎった舌を射抜く」
頭上から降ってきた死神のような声に、ドーガは絶叫すら忘れ、ガタガタと震え出した。
そこには、月光を背負ったように枝の上に佇む、褐色のダークエルフ――テリオンが立っていた。
「ダ、ダークエルフ!? なぜこんなところに……わ、私はただの商人だ! 命だけは、命だけは助けてくれ!」
ドーガは脂ぎった顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、成金趣味の絹のベストを泥で汚しながら命乞いをした。
だが、テリオンの冷徹な瞳は揺るがない。
「商人の臭いではない。卑劣な密告者の臭いだ。我が胃袋を満たした『主』の平穏を乱す者は、森の土に還してやるのがこの地の掟だ」
「ひっ、あああああ!」
テリオンが指先を離そうとした瞬間、店の中から凛とした声が響いた。
「そこまでになさい。テリオン」
エプロンドレスの裾を汚さないよう慎重に、けれど堂々とした足取りで、私はクラリスを伴って森の陰へと足を踏み入れた。
木に縫い付けられた男――ドーガを一瞥する。
不自然に白い粉を叩いた肌、整えられた口髭、そして何より、人の弱みを金に変えることに慣れきった、あの濁った瞳。
「お久しぶりですわね、ドーガさん。王都で父の影に隠れて、汚い仕事を一手に引き受けていた貴方の姿……忘れるはずもありませんわ」
「ア、アリシア様!? ああ、神よ! 助けてください、この野蛮なエルフから私を!」
ドーガは縋るような視線を向けてくるが、私は冷ややかな微笑を崩さない。
「野蛮? 心外ですわね。テリオンは、私がお出ししたステーキの対価として、不審者の駆除をしてくださっただけ。さて、ドーガさん。父からは何と言付かってきましたの?」
私は、テリオンに目配せをして矢を抜いてもらった。
地面にへたり込んだドーガの前に、ルイ様が静かに歩み寄る。
「ルイ様。この男、お父様の『確実な手段』の一端のようですわ」
ルイ様は無言のまま、ドーガを見下ろした。
その視線だけで、ドーガの背後の木が「ミリッ……」と熱で焦げるような音を立てる。
「ひ、ひいっ! 言います、言いますとも! 閣下からは『力で連れ戻せぬなら、その居場所ごと買い叩け』と! この森一帯の土地権利を、公爵家が裏で買い占め始めています。お嬢様を、不法占拠の罪で捕らえるつもりなのです!」
ドーガの口から漏れたのは、お父様らしい、実に「商人」のような狡猾な手口だった。
「なるほど。力ずくがダメなら、法と金で追い詰める、というわけですわね」
私は、恐怖で腰が抜けているドーガに向かって、花が咲くような美しい微笑みを向けた。
「ドーガさん。お父様への報告は、こう伝えてくださる? 『おもてなしの準備はできております。いつでも、いくらでも、買い叩きにいらしてください』と」
「は、はい? 買い叩きに、来い……と?」
呆然とするドーガに、私はさらに深く、慈悲をかけるような微笑みを向ける。
「ええ。ですが、お父様にはこうも伝えてくださる? 『お父様が買収を進めているその土地の権利書には、一体どなたの名前が記されていますの?』と」
「なっ!? それは、当然……」
言いかけたドーガの背後で、ルイ様が静かに、けれど氷のような冷ややかさで言葉を継ぎたす。
「この森一帯は、すでに私の所有地だ。私に断りもなく土地を売り歩いている者がいるのなら……そいつは、ヴァレンタイン公爵から金を巻き上げているだけの詐欺師だろうね」
ドーガの顔が、みるみるうちに土気色へと変わっていく。
お父様が「買い占めている」と思っていた金は、ルイ様がすでに正当に支配している土地に対して、どこぞの馬の骨が偽造した権利書に支払われている「ドブに捨てる金」に過ぎないのだから。
「ですからドーガさん。次に来る時は、お父様が全財産をその『無意味な紙屑』に使い果たし、路頭に迷う覚悟をしてからいらしてくださいまし。さあ、クラリス。この哀れなネズミを、森の外まで放り投げてきなさい。不浄なものは、私の店には似合いませんわ」
「かしこまりました。少々、手荒な送迎になりますが」
クラリスは無表情のまま、ドーガの首根っこをひょいと掴み上げた。
自分より一回りも大きい男を片手で持ち上げる姿は、淑女の見習いというよりは死神の使いのようだ。
「え、あ? な、何をする、放せ! 私は自分で歩け……ぎゃあああああああ!?」
ドーガの悲鳴が森に木霊する。
クラリスは彼を掴んだまま、まるでゴミ袋でも放るような無造作な動作で、ドーガの体を森の街道方面へと「全力」で放り投げた。
木の葉をなぎ倒しながら、放物線を描いて飛んでいく闇の商人。
やがて遠くの方で「ベチャッ」という、何かが泥沼に突っ込んだような情けない音が聞こえ、静寂が戻った。
「クラリス、お見事ですわ。あのような無作法な方には、あれくらい『勢いのあるお見送り』が相応しいですわね」
私の言葉に、クラリスは無表情のままスカートの端を摘まみ、優雅に一礼してみせた。
「恐縮です、お嬢様。あのような『ネズミ』が二度とこの敷地を汚さぬよう、当店の特別なサービスとして遠くまでお運びいたしました」
淡々と、しかし確実に相手を仕留めるクラリスのおもてなし。
ルイ様はふっと口角を上げ、面白そうに彼女を見つめている。
「いや、実に彼女らしい、無駄のない『清掃』だったよ。だがアリシア、君のお父上は、存在しない権利書に全財産を注ぎ込むことになるが……止めてあげなくていいのかい?」
「あら、ルイ様。不法占拠などという言いがかりをつけた罰ですもの。せいぜい身ぐるみ剥がされるまで、無意味なお買い物を楽しんでいただければよろしいですわ!」
私は、最高に晴れやかな、そして少しだけ「腹黒い」微笑みを浮かべる。
(――ざまあみなさい、お父様! 私の自由を金で買おうとした代償、その身をもって支払っていただきますわ!!)
森を抜ける夜風が、私の頬を撫でる。
お父様の執念と、私の自由。
どちらが勝るか、決着をつける時はそう遠くなさそうだ。




