第26話 公爵の執念と、飢えた黒き風テリオン
「ガオッ。もはや、この甘味のない生活など考えられん。姫、そしてそこの凄腕の御仁。世話になったな!」
お腹も心も存分に満たされたゾアは、名残惜しそうに空になった皿を見つめた後、再びあの巨大な斧を担ぎ直した。
その足取りは、店に来た時の焦燥感など微塵も感じさせない、力強く、そしてどこか軽やかなものだ。
「ゾア、またいつでもいらしてくださいね。次はもっと驚くようなお菓子を用意しておきますわ」
私が店の扉で見送ると、ゾアは森の境界で一度だけ足を止め、黄金の瞳を輝かせてこちらを振り返った。
「応よ! この森の平和は、我が命にかえても守り抜いてみせよう。不作法な鉄屑どもには、二度とこの香りを汚させはせん!」
地響きのような咆哮を一つ残し、リザードマンの戦士は深い緑の奥へと消えていった。
その大きな背中を見送りながら、私は静かに扉を閉める。
カラン、とドアベルが静かに鳴り、店内には再び穏やかな夕暮れが満ちた。
扉の鍵を閉めたことを確認した瞬間――私は、堰き止めていた感情を爆発させた。
(自由の城、本日も完全防衛達成ですわ!! 美味しいお菓子と、最強の用心棒に、最高に頼もしいルイ様……これ以上、何を望むことがありまして!?)
心の中で勝利の舞を踊り、淑女にあるまじき勢いでガッツポーズを決める。
お父様の差し金であるバルカスを追い払い、その上ゾアという心強い味方まで得られたのだ。これほど痛快なことはない。
「……お嬢様。喜びのあまり不審な動きをされていますが、そろそろ明日の仕込みの準備をいたしましょう」
「あ、あらクラリス。ええ、分かっていますわ。 腕が鳴りますわね!」
完璧な淑女の微笑を取り戻し、私は厨房へと向かう。
森のカフェに流れる穏やかな時間は、誰にも邪魔させない。
公爵令嬢としての「義務」を脱ぎ捨てた私の、これが新しい、そして譲れない「戦い」なのだから。
◇
一方、王都のヴァレンタイン公爵邸。
重厚な執務室の床には、無惨に煤け、熱で歪んだ銀の甲冑が転がっていた。
「……信じられんな。我が家の精鋭騎士団が、たかが辺境の森で追い払われたと? バルカス、貴様は私にそのような無様な報告を信じろと言うのか」
冷徹な声の主は、アリシアの父であるヴァレンタイン公爵。
彼は、報告書を一瞥もせず、バルカスが持ち帰った「熱で溶けた剣」を忌々しげに眺めていた。
「魔術師でもない男に、ここまでの熱量を。フン、アリシアめ。どうやら、面白い『拾い物』をしたようだな」
公爵の細い指先が、机に置かれた王家秘蔵の古文書を叩く。
「バルカス。次は、より『確実な手段』を講じろ。我が家の所有物が、分不相応な自由を謳歌するなど……許されるはずがないのだから」
闇の中で、公爵の瞳が冷たく光った。
◇
バルカスたちが逃げ帰り、森に平穏が戻った日の翌朝。
私は、ゾアが絶賛してくれた『トゥンカロン』をさらに改良しようと、厨房でアーモンドプードルの香ばしい香りに包まれていた。
カラン……。
ドアベルが、まるで風に揺られただけのような、微かな音を立てる。
クラリスが即座に反応し、掃除の手を止めて入り口を凝視した。
「……気配が、ありませんでしたね」
彼女の言葉通り、そこには音もなく一人の男が立っていた。
月夜を溶かし込んだような褐色の肌に、鋭くも美しい切れ長の瞳。長く伸びた耳はエルフの血を引き、艶やかな黒髪は無造作ながらも気品を感じさせる高い位置で一つに束ねられている。
背中には巨大な弓と、漆黒の羽根をあしらった矢筒。
一目で分かる。彼はこの森でも滅多に姿を現さない、孤高の狩人種――ダークエルフだ。
そのダークエルフは、宝石のように冷たく輝く瞳で私を見据えると、低く、鼓膜に響くような声で告げた。
「……おい。そこの娘」
名も名乗らぬうちから、この不遜な態度。
確かに人間離れした美貌ではあるけれど、残念でしたわね。
公爵邸にいた頃ならいざ知らず、今の私の瞳には、窓際で優雅に本を読んでいるあのお方しか映っておりませんの。
「昨日の『熱』と『騒音』のせいで、三日かけて追い込んだ獲物が逃げた。責任を取ってもらおう。この腹を黙らせるだけの対価を、今すぐに出せ」
そう言い放った瞬間、ぐぅ、と。
凛とした佇まいにはおよそ似つかわしくない、切実な「腹の虫」の音が店内に響き渡った。
(――なるほど。お顔はよろしいけれど、要するに空腹で行き倒れ寸前のお客様、ということですわね)
私は事務的で、完璧な微笑みを浮かべてカウンターへ歩み寄った。
「いらっしゃいませ、森の狩人様。獲物の代わりと言ってはなんですが、公爵家の騎士たちを追い払った際にも活躍した、とっておきの『おもてなし』をご用意いたしますわ」
その時。奥の席で静かに本を読んでいたルイ様が、ゆっくりと顔を上げた。
私を値踏みするように凝視するダークエルフの視線に、ほんの少しだけ、冷ややかな熱が混ざる。
「アリシア。彼は随分と礼儀を忘れているようだね。私の『火』に文句があるなら、私が直接相手をしようか?」
ルイ様の周囲の空気が、ピリッ、と音を立てて揺らめいた。
「何だ、貴様は。ただの人間ではないな」
そのダークエルフの男が、わずかに身を引いた。
獲物を狙う獣のような鋭い視線がルイ様に向けられる。
ルイ様は椅子に座ったまま、優雅に本を片手で閉じると、氷を溶かすような冷徹な微笑みを浮かべた。
「君が狙っていた獲物が何であれ、私の店の料理人を脅す理由にはならない。食事がしたいのなら、まずはその弓を下ろして、名を名乗るのが先だ……違うかな?」
ルイ様の背後から立ち上る、底知れない圧。
森の覇者であるはずのダークエルフが、一瞬、呼吸を忘れたかのように硬直した。
圧倒的な格の違いを本能が理解したのだろう。
彼は忌々しげに鼻を鳴らすと、背中の弓の弦から指を離した。
「……テリオンだ。この森で獲物を狩って生きる者だ」
「テリオン、ですわね。覚えましたわ」
私は、火花を散らす男二人を放っておいて、軽やかに厨房へと踵を返した。
ルイ様が自分以外の男を牽制するその背中。
向けられたのが敵意であっても、その独占欲を滲ませた低音の響きに、私の心臓は心地よく跳ねる。
(ルイ様、もしかしてかなり妬いてくださっています? ああっ、もう! 愛おしすぎて、最高にスタミナのつくお料理が作れそうですわ!!)
私は手早くフライパンを火にかけた。
狙うのは、森の狩人を一撃で屈服させ、かつルイ様を満足させる究極の肉料理。
テリオンが逃した獲物など、比べるまでもないほどの。
ジューッ、と。
厚切りの肉が熱い鉄板の上で踊り、食欲を暴力的に刺激するガーリックとスパイスの香りが店内に溢れ出す。
「くっ、何だ、この香りは。腹の虫が……狂いそうだ」
カウンター越しに聞こえるテリオンの苦しげな独白。
不敵な狩人を胃袋から陥落させる準備は、整った。
だが、その時。
厨房の勝手口の方から、クラリスが音もなく近づき、私の耳元で囁いた。
「お嬢様……『ネズミ』が紛れ込んでいます。バルカスの手先ではありません。もっと小賢しい、商人の臭いがいたします」
私の手が、一瞬止まる。
バルカスという「武力」を退けた直後に現れた、新たな不穏な気配。
お父様が放った次の不作法な客が、もうこの森に手を伸ばしているというのか。
「……おもてなしする相手が、また増えそうですわね。クラリス」
私は不敵な笑みを浮かべ、肉をひっくり返した。
どんな邪魔が入ろうとも、この「自由」の香りは、誰にも消させはしない。
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