第25話 溶け落ちた銀の鎧 、戦士ゾアに捧ぐ自分そっくりの甘い誘惑
「ルイ様」
私がその名を呼ぶのと同時に、店内の空気が一変した。
実際に火の手が上がったわけではない。
けれど、ルイ様を中心とした空間そのものが、物理法則を無視して異常なまでの熱を帯び始めたのだ。
「……っ!? この、熱量は……なんだ!?」
バルカスがたじろぎ、一歩後ずさる。
彼の自慢の銀色の甲冑が、ルイ様の放つ見えない熱気に当てられ、じりじりと嫌な音を立てて変色し始めていた。
「答えなさい。不作法な騎士団長殿。君たちは、誰の許可を得て、私の愛する場所を汚しているのかな?」
ルイ様が一歩踏み出す。
その足元から、目に見えないほどの「熱」が波紋のように広がり、外に控えていた騎士たちの剣を、鞘の中で真っ赤に熱した。
「あ、あつっ! 剣が、剣が握れん!」
「なんだこの熱気は! 森が燃えているわけでもないのに!」
外から聞こえる騎士たちの悲鳴。
私には魔術の才能はない。けれど、毎日厨房で火と向き合い、繊細な温度変化を読み取ってきた料理人としての肌が、本能的に理解していた。
これは、現象ではない。意志だ。
実家でお父様が自慢げに見せていた火球や、お抱え魔術師たちの術とは、格が違いすぎる。
まるで、この世界の「熱」そのものがルイ様に跪き、主の命令を待っているかのような――そんな、神々しさすら感じる圧倒的な気配。
「ぐ、ああああ……っ! 熱い、熱すぎる!」
バルカスがたまらず剣を放り出した。
石床に落ちた剣は、ジュウッと嫌な音を立てて床を焦がす。
店内の木造の壁も、私のエプロンも、焦げるどころか熱すら帯びていないというのに。
ルイ様の敵意にさらされているバルカスの甲冑だけが、溶鉱炉に投げ込まれたかのように真っ赤な熱を放っている。
「私の制御下にある熱は、私が許した者以外を焼くことはない。だが、不作法者には、この森の空気さえも牙を剥くということだよ」
ルイ様の静かな声が、陽炎のように揺らめく空気の中で響く。
そこへ、背後から冷徹な声が重なった。
「お嬢様。この者たちの相手をするのは、ルイ様だけで十分かと思われますが。少しばかり、耳障りな羽虫が多すぎますね」
いつの間にか、クラリスが私の斜め前に立っていた。
彼女の手には、使い込まれた鉄のフライパン。
無表情な顔の裏で、彼女の瞳には「私の大切な厨房と、お嬢様の安らぎを汚した罪」への、底冷えするような怒りが静かに燃えている。
「お嬢様は、奥で茶菓子の準備を……この方々は、当店の敷居を跨ぐ資格すらありませんから」
クラリスはそう言うと、バルカスが床に放り捨てた書状を、ゴミでもつまむように拾い上げた。
そして、それをルイ様の熱気で赤熱した空気の中へ放り込む。
お父様の印章が押された紙は、一瞬で灰となって消えた。
「な、貴様……公爵閣下への不敬だぞ! 正気か!」
バルカスが激昂し、熱を帯びた腕を無理やり伸ばそうとする。
けれど、その腕を、隣から伸びた太い鱗の腕がガシリと掴んだ。
「ガオォッ!! ぬかせ、不作法者め! この店の主人が『出す席はない』と言ったのだ。我が顎で噛み砕かれる前に、その鉄屑と共に去るがいい!」
ゾアが唸り、巨大な斧をバルカスの鼻先に突きつける。
ルイ様の圧倒的な熱、クラリスの鋭い殺気、そしてゾアの野生の迫力。
三つの強大な力に包囲され、バルカスは初めて、自分の立っている場所が「たかが追放令嬢の店」ではないことを悟ったようだった。
怯えるバルカスを真っ直ぐに見据え、私は最高に優雅な、そして冷ややかな微笑を浮かべて告げた。
「さあ、バルカス様。お帰りはあちらですわ。二度とこの森の土を汚さないでいただけますかしら?」
「ぐ、ぬぅ……! お、覚えておれよ……! 公爵閣下へのこの不敬、決してタダでは済まぬぞ!」
真っ赤に熱を帯びた甲冑から立ち上る、肉が焼ける寸前の異臭と、自身のプライドが焦げる臭い。
バルカスは、もはや騎士としての威厳など微塵も残っていない無様な姿で、転げるように店から這い出した。
外に控えていた精鋭騎士たちも同様だった。
彼らは、自分たちの武器が意志を持っているかのように熱を帯び、手放さざるを得なかった恐怖に震えている。
伝説の魔物を前にした子犬のように、ガチガチと鎧を鳴らして後退りしていた。
「ひ、引き上げだ! 総員、撤退せよ!」
バルカスの悲鳴のような号令と共に、豪華な紋章を掲げた馬車が、泥を撥ね散らしながら逃げるように森の奥へと消えていく。
あんなに不快だった軍靴の響きが、今は遠ざかる滑稽なリズムにしか聞こえない。
静寂が、再び森へと戻ってきた。
「……ふぅ。やれやれ、掃除の手間が増えてしまいましたね。お嬢様、床に汚れがないか確認してまいります」
クラリスが何事もなかったかのようにフライパンを収め、掃除用具を取りに奥へ引っ込む。
ゾアもまた、「ガオッ。腰抜けめ」と鼻を鳴らし、巨大な斧を肩に担ぎ直した。
そして。
「アリシア。怖かったかい?」
ルイ様が、先ほどの圧倒的な熱量を嘘のように消し去って、いつもの穏やかな表情で私の隣に立った。
その声の優しさに、張り詰めていた緊張が、指先の先から解けていくのが分かる。
「いいえ。ルイ様と、みんながいてくれましたもの。それに。あんなに無様な逃げ出し方を見せられたら、恐怖なんてどこかへ飛んでいってしまいましたわ!」
私は一度言葉を切り、周囲に誰もいないことを(クラリスが掃除に夢中なのを確認して)確かめた。そして、ドレスの裾をぎゅっと掴んで、思い切り足を踏み鳴らす。
(見たかバルカス! ざまぁ見やがれですわーーー!! あのピカピカの鎧が真っ黒に煤けて、情けなく逃げ帰る背中、一生の酒の肴にできますわーーー!!)
心の中で大絶叫を上げ、ガッツポーズを決めようとしたその時。
「ふふっ。アリシア、目がキラキラしているよ。何か、とても良いことでも考えていたのかな?」
ルイ様の悪戯っぽい微笑みに、私はハッとして、電光石火の速さで居住まいを正した。
スカートの裾を握っていた手をそっと離し、何事もなかったかのように完璧な淑女の微笑みを浮かべてみせる。
「ええ、とっても。あんなにエネルギーを使い果たして逃げていかれた方々には、次はもっと『毒』にも勝るほどの刺激的な料理が必要かしら、なんて考えていただけですわ」
もちろん、最高に皮肉たっぷりの笑顔で。
お父様の「猟犬」を追い払ったこの勝利は、私にとって何よりも甘い、最高のアペリティフ(前菜)となった。
◇
嵐が去った後の店内は、元の穏やかな静寂を取り戻していた。
バルカスの軍靴で汚された床は、クラリスが「不浄なものは残しません」と恐ろしい手際で磨き上げ、今は鏡のようにピカピカに輝いている。
「さて、皆さん。不作法な客の相手で疲れた体に、とびきりの甘いものを用意しましたわ!」
私がキッチンから運んできた皿を見て、カウンターに座っていたゾアが「おおっ!?」と身を乗り出した。
皿の上に並んでいるのは、普通のマカロンではない。
厚みのあるたっぷりのバタークリームを挟んだ、進化系マカロン――『トゥンカロン』だった。
しかも、その形はゾアを模したものだ。
ピスタチオグリーンの生地でリザードマンの顔を象り、チョコペンで黄金の瞳を描き込む。間に挟んだベリーのクリームは、まるでお洒落な首飾りのよう。
「……こ、これは、我か?」
「ええ。勇猛な戦士であるゾアをイメージして作りましたの。戦いの後の糖分補給は、戦士の義務ですわよ?」
ゾアは、自分そっくりな可愛らしいお菓子を前に、巨大な爪を震わせて困惑している。
「ガ、ガオッ。こんな……こんな繊細で愛らしいものを、我の顎で砕けというのか!? これは、試練か? 料理人の姫よ、これは我への新たな修行なのか……?」
真剣に悩むゾアの隣で、ルイ様が楽しそうに声を立てて笑った。
「ふふっ。ゾア、彼女の料理は食べてこそ完成するんだ。一口でいかないと、そのリザードマンが悲しむよ」
ルイ様の前には、彼をイメージした深紅のトゥンカロンが置かれている。
ルイ様はそれを躊躇なく手に取り、優雅に口へ運んだ。
「素晴らしいね。キャラメリゼされた表面の苦味と、中の濃厚なクリームの甘さ。これなら、さっきの『熱』で使った魔力も一瞬で回復しそうだ」
ルイ様の言葉に背中を押されたのか、ゾアは意を決したように、震える手で自分そっくりのトゥンカロンを掴んだ。
「うむ! 覚悟を決めたぞ! いざ、尋常に……いただきますだ!」
サクッ、ジュワッ。
ゾアの大きな口の中で、繊細なマカロン生地が弾け、濃厚なバタークリームが溶け出した。
「――――ッ!! ガ、ガオォォォォォォ!!」
あまりの甘美さに、ゾアが天を仰いで咆哮した。
「なんだ、これは……! 雲を食べているような軽やかさなのに、蜜を凝縮したような力強い甘みが襲ってくる! 腹の底から力が湧いてくるぞ! これなら公爵家の騎士など、あと百人は追い払える!」
尻尾をぶんぶんと振り回して喜ぶゾアを見て、私はようやく心の底から笑うことができた。
「お気に召して良かったですわ。クラリス、あなたも準備はいい?」
「はい、お嬢様。既に紅茶の抽出は完了しております。例の、王都の騎士たちが落としていった『不始末』も、全て片付きました」
クラリスが淹れてくれた、香り高いアールグレイがカップに注がれる。
(大成功ですわ!! ゾアのあの喜びよう! やっぱり甘いものは正義ですわね!!)
心の中でガッツポーズを決め、私も自分の分のトゥンカロンを口にする。
甘い、幸せな味が広がって、胸の奥に残っていたバルカスへの不快感が完全に消えていった。
「アリシア。次は、もっと大きなパーティーが必要になるかもしれないね」
ルイ様が、窓の外の森を見つめて静かに言った。
お父様がこれで引き下がるとは思えない。バルカスの報告を受ければ、次はもっと厄介な手段を講じてくるだろう。
けれど。
隣で夢中でお菓子を頬張るゾア、完璧な所作で控えるクラリス、そして何より、この圧倒的に頼もしいルイ様がいる。
「ええ。どんなお客様がいらしても、最高の『おもてなし』でお迎えしましょう、ルイ様」
私は、新しいレシピのアイデアを頭の中に描きながら、ルイ様の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
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