第24話 戦士の真名と鉄の足音 、不作法な客には、熱々の歓迎を
トマト料理の余韻が残る、穏やかな午後のことだった。
エメラダからもらった花を活け終えた私と、それを見守るルイ様、そして鋭い手つきで銀食器を磨くクラリス。
その平穏を切り裂くように、あの地響きのような足音が近づいてきた。
バァン!!
勢いよくドアが開け放たれ、巨躯のリザードマンが店内に雪崩れ込んでくる。
以前のような空腹による殺気ではない。黄金の瞳には、明らかな「焦燥」の色が浮かんでいた。
「ガオォッ!! 大変だ、料理人の姫! それと……そこの、底の知れぬ御仁!」
彼はカウンターのルイ様を一瞬凝視し、本能的な恐怖を無理やり押し殺すようにして叫んだ。
「王都の方角から、鉄の臭いをさせた不作法な群れがこの森へ向かっておる! 我が同胞が偵察したところ、紋章を掲げた豪華な馬車と、武装した兵が数十! 狙いは間違いなく、この場所だ!」
その言葉に、クラリスの磨いていたスプーンがピタリと止まる。
ルイ様の瞳が、一瞬で深い翠から、静かな熱を帯びた鋭い色へと変わった。
「鉄の臭い……軍か。アリシア、いよいよ『不作法な客』が来るようだね」
ルイ様が静かに立ち上がる。その背中は、以前よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
けれど、私はまず、息を切らして知らせてくれた彼に向き直った。
「教えてくださってありがとうございます。でも、そんなに慌てて、お怪我はありませんか?」
「……ぬっ。我ら戦士、この程度の走り、造作もない。それより姫、逃げるなら今だぞ。奴らは不吉な書状を携えていた。お主を『連れ戻す』と騒いでおったぞ」
お父様か、あるいはあの馬鹿王子か。
私の「自由」を脅かそうとする者たちの影が、すぐそこまで迫っている。
私は一度深呼吸をし、震える指先を隠すようにエプロンをきゅっと握りしめた。
「逃げませんわ。ここは私の、私たちが手に入れた大切な場所ですもの」
私の言葉に、リザードマンは感銘を受けたように尻尾を大きく一度、床に叩きつけた。
「ガオッ。さすがは我が見込んだ、魂を揺さぶる一皿を作る戦士よ! ならば我も、この斧にかけて、その不作法者どもを森の肥やしにしてやろう!」
「心強いですわ。改めて、お礼を言わせてくださいませ……あの、実は以前から伺いたかったのですけれど、あなたのお名前を教えていただけますか? いつまでも『リザードマン様』とお呼びするのも、寂しいですから」
私の問いに、彼は意外そうに瞬きをした。
黄金の瞳が、少しだけ照れくさそうに揺れる。
「……名、か。我ら鱗持つ者は、同胞以外に名を明かすことは稀だが……」
彼はルイ様をチラリと見た。
正体はわからずとも、その圧倒的な存在感に敬意を払うように。
ルイ様は「彼の自由だよ」と言うように、優しく頷いている。
「……ゾアだ。古の言葉で『鉄をも噛み砕く顎』を意味する。だが、姫に呼ばれるならその、もう少し柔らかい響きでも構わんぞ」
「ゾア。いいえ、とっても強そうで、今の私には世界で一番頼もしいお名前に聞こえますわ!」
私が満面の笑みでそう言うと、ゾアは「ガ、ガオッ……」と喉を鳴らし、真っ赤になった(ように見える)顔を背けた。
ルイ様は私の肩にそっと手を置き、外の森を、そしてその先にある王都を見つめている。
「ゾアと言ったね。知らせに感謝する。アリシアは私が――いや、私たちが守る。君の斧、頼りにさせてもらうよ」
「応よ。得体の知れん御仁だが、お主が味方であるなら、これほど心強いことはない」
敵は、すぐそこまで来ている。
公爵家の娘としてではなく、この店の店主として。
そして何より、大切なルイ様の隣にいる「アリシア」として。
私は、不敵な淑女の微笑みを浮かべ、入り口のドアをじっと見つめた。
◇
遠くから響いていた鉄の足音は、やがて森の静寂を塗り潰すような、傲慢な軍靴の響きへと変わった。
カラン、カラン、と。
不規則に、そして暴力的に揺らされたドアベルが悲鳴を上げる。
店内に漂っていたトマトや蜂蜜の柔らかな香りが、一瞬にして冷ややかな「権力の臭い」に染め替えられた。
「……ふむ。鼻が曲がりそうだ。このような獣の巣に、ヴァレンタインの血を引く者が身を寄せているとは。末代までの恥とはこのことですな」
無造作に、土足で店内に踏み込んできたのは、一分の隙もなく整えられた銀色の甲冑を纏う男だった。
左右対称に整えられた口ひげに、感情を排した無機質な銀の瞳。
公爵家筆頭騎士団長、バルカス・ド・グランツ。
かつて王宮や屋敷の廊下で、私を「家の泥」と呼んで蔑んでいた、お父様の最も忠実な猟犬。
バルカスは潔癖症そうに白い手袋の指先を整えると、私を人間としてではなく、道端に転がる石ころでも見るような視線で射抜いた。
「お迎えに上がりましたよ、アリシア様。いえ……今はただの『森の火番』でしたかな」
「いらっしゃいませ、バルカス様。あいにくですが、当店は予約制となっておりますの。不作法に扉を蹴破るようなお客様にお出しする席は、一席も用意しておりませんわ」
私は最高の淑女の所作をもって、優雅に、けれど氷のように冷たく微笑み返した。
背後でゾアが「ガオッ」と低く唸り、巨大な斧の柄を握り直す音が聞こえる。
バルカスはその黄金の瞳を一度だけ一瞥し、鼻で笑った。
「野蛮なトカゲを番犬にしているとは、落ちぶれたものですな。閣下がおっしゃっております。『その小汚いフライパンで、奇跡の料理とやらを作っているというのは真実か』と。どうやら、あなたのその『指先』だけは、まだ公爵家に役立つ価値が残っているようです」
バルカスは懐から、お父様の印章が押された不吉な書状を取り出し、それを床に放り捨てた。
「閣下からの慈悲です。速やかに王都へ戻り、公爵家の『専用厨房』に籠りなさい。朝から晩まで、兵たちの疲労を癒やす糧を作り続けるのです。それが、家名を汚したあなたが唯一許される、贖罪の道。拒むというなら……」
バルカスが腰の剣に手をかけた。
同時に、周囲を包囲していた騎士たちが、一斉に武器を抜く鋭い音が森に響く。
「拒むというなら、この店ごと焼き払い、あなたを鎖に繋いで引きずっていくまでのこと」
あまりにも身勝手で、傲慢な言葉。
私の自由を、私の居場所を、ただの「便利な道具」として回収しようとするその態度に、私の胃の底で熱い火が灯った。
(来ましたわ!! 予想通りの最低最悪な提案! 遠慮なく、完膚なきまでに叩き潰して差し上げられますわーー!!)
心の中で叫びながら、私は一歩前へ出ようとした。
けれど、それよりも早く。
「……私の店で、ずいぶんと騒がしいね。騎士団長殿」
それまで静かにカウンターに座っていたルイ様が、ゆっくりと立ち上がった。
その声は穏やかだった。けれど、店内の温度が、まるで真夏の太陽が目の前に現れたかのように、急激に上昇する。
ルイ様が歩み寄るたび、バルカスが纏っていた「冷酷な余裕」が、薄紙が剥がれるように崩れていくのが分かった。
バルカスの銀の瞳が、驚愕に見開かれる。
「貴様、何者だ。その魔圧――ただの隠居人ではないな」
「私はただの、この店の常連だよ。そして、彼女に『自由な火』を約束した男だ」
ルイ様の周囲の空気が、深紅の陽炎のように揺らめいた。
それはかつてお父様が誇っていたどの魔術よりも、強大で、根源的な「炎」の気配。
「アリシア。不作法な客には、少しだけ『熱いお仕置き』が必要なようだ。いいかな?」
ルイ様が私を振り返り、優しく微笑む。
その瞳の奥には、大切なものを脅かす不遜な輩を一切許さない、圧倒的な守護者の輝きが宿っていた。




