第23話 約束の星降りトマト 、真っ赤なソースに魔法を込めて
翌朝。
私は小鳥たちのさえずりと、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光で目を覚ました。
昨夜、ログハウスの暖炉の前で交わした熱い口づけ。冷めてしまったお茶。そして、ルイ様の腕の温もり……。
それを思い出した瞬間、私はシーツを頭から被って、ベッドの上でじたばたと足を動かした。
(ああ、もう、どうしましょう。今日からどんな顔をしてルイ様にお会いすればいいの!?)
頬を叩いて「完璧な淑女」の仮面を貼り付け、カフェへと向かう。
厨房に入ると、すでにクラリスがいつも通りフライパンを磨いていた。
「おはよう、クラリス。昨夜は、その、遅くまでお邪魔してしまって……」
「おはようございます、お嬢様。ええ、お茶がすっかり冷めるほど『熱心な語らい』だったようですわね。昨夜はお部屋の灯りがなかなか消えませんでしたから、私は静かに読書を楽しませていただきましたわ」
クラリスは一度もこちらを見ず、淡々と、けれど口角をわずかに上げて言い放った。
筒抜けですわ! この有能すぎる侍女にはすべてがお見通しなのですわ!
そこへ、カチャリとドアが開く音がした。
「……おはよう、アリシア。昨夜はよく眠れたかい?」
入ってきたルイ様と目が合った瞬間、昨夜の掠れた声が脳内で再生され、私の顔は一気に沸騰した。
「は、はい! おはようございます、ルイ様! とっても、とってもよく眠れましたわ!」
裏返った声で答え、私は逃げるように仕込みに没頭した。
ルイ様も少し照れくさそうに、けれど慈しむような眼差しで私を見つめてから、いつもの席に腰を下ろした。
◇
昼時。
カランカラン! と、元気なベルの音が響いた。
「アリシアお姉ちゃん! 約束、守りに来たよ!」
飛び込んできたのは、琥珀色の髪を揺らしたミシェルちゃんだった。
その後ろには、大きな花束を抱えた女性が立っていた。
「お久しぶりですわ、アリシア様。ミシェルの母、エメラダです」
エメラダは、ミシェルちゃんの琥珀色の髪をより深くしたような、艶やかな栗色の髪を上品に結い上げた、穏やかな美人だった。
生成りのリネンのワンピースに、手仕事の刺繍が施されたエプロン。その指先は土に親しむ者の力強さと、花を愛でる優しさを併せ持っている。
「まあ、エメラダ、ミシェルちゃん! ようこそいらっしゃいました。庭の星降りトマト、今が一番の食べ頃ですわよ」
「これ、お近づきの印に。お店に飾っていただけるかしら?」
エメラダが差し出したのは、王宮の庭園にも負けないほど色鮮やかな、大輪のガーベラとレースフラワーの花束だった。
店の中が、一瞬でパッと華やぐ。
「ありがとうございます! では、約束の『最高のトマト料理』早速準備いたしますわね」
私は気合を入れ直し、エプロンの紐をきゅっと結んだ。
今日のメインは、自家製「星降りトマト」を煮詰めて作る、特製ソースのロールキャベツ。
まずは、牛と豚の合挽肉に、細かく刻んだ玉ねぎと森の香草を混ぜ込んで種を作る。
それを、茹でて甘みを引き出した大ぶりの自家製「霜降りキャベツ」で丁寧に包んでいく。
そして仕上げは、裏ごしした星降りトマトのソースだ。
熱した鍋にソースを流し込み、ロールキャベツを並べてじっくりと煮込んでいく。
(ふふふ……見てくださいまし、この鮮やかな紅色! トマトの酸味とキャベツの甘み、肉汁が合わさって、香りの暴力ですわよーー!!)
煮込まれる音と共に、食欲をそそる芳醇な香りが店内に満ちていく。
私は一番大きな皿を選び、真っ赤な海の中に、ぷっくりと太った緑のロールキャベツを盛り付けた。
「お待たせいたしました。ミシェルちゃん、約束のトマト料理ですわ」
目の前に置かれた一皿に、ミシェルちゃんは身を乗り出して目を輝かせた。
真っ赤なトマトソースの海に浮かぶ、大ぶりのロールキャベツ。
仕上げに散らした香草の緑が、ソースの紅色をより一層鮮やかに引き立てている。
「わあ……! すっごくいい匂い! お母さん、見て、お星様のトマトがソースになってる!」
「ええ、本当に……なんて贅沢な香りかしら。いただくのが勿体ないくらいだわ」
エメラダも、その宝石のような一皿を前にして、感嘆の吐息を漏らした。
二人はスプーンを手に取ると、まずはたっぷりとソースを絡めたロールキャベツを一口、口へと運んだ。
「……っ!!」
ミシェルちゃんの小さな肩が、驚きでぴょんと跳ねた。
スプーンで容易く切れるほど柔らかく煮込まれたキャベツの中から、溢れんばかりの肉汁が溶け出す。
そこに「星降りトマト」特有の、果実味溢れる濃厚な酸味と、太陽をたっぷり浴びたような力強い甘みが重なり合い、口の中で完璧なハーモニーを奏で始めたのだ。
「おいしい……! お姉ちゃん、これ、お口の中でトマトが踊ってるみたい!」
「まあ……! トマトの雑味が一切なくて、旨味だけが凝縮されていますわ。キャベツの甘みと合わさって、こんなに奥深い味になるなんて。アリシア様、あなたは本当に魔法使いのようですわね」
エメラダが頬に手を当て、うっとりと目を細める。
その言葉に、私は胸がいっぱいになった。
(苗をくださったご本人たちに認められることほど、料理人として名誉なことはありませんわ!! お父様、お母様、見てください! 私は今、この森で最高の『赤』を完成させましたわよーー!!)
内心ではドレスの裾を掴んで跳ね回っていたが、表向きはあくまで優雅な微笑みを絶やさず、私はそっと二人のコップにお冷を注ぎ足した。
「気に入っていただけて光栄ですわ。このトマトがこれほど美味しく育ったのは、エメラダが大切に種を繋いでくださったおかげですもの」
「いいえ、それをこれほどの一皿に仕上げたのは、あなたの腕ですわ、アリシア様」
エメラダは優しく微笑むと、ふとカウンターの隅に飾られたリルムの砂糖細工に目を留めた。
「あら……あそこに飾られているのは、もしや王都で噂の……?」
エメラダが指差したのは、カウンターの特等席で光を放つリルムの飴細工だった。
オーブンの前で不敵に笑う私と、それを見守るルイ様、そしてフライパンを掲げるクラリス。
「ええ、先日ここを訪れた菓子職人の見習いさんが、お礼にと作ってくださったのですわ。エメラダは、彼女のことをご存知なのですか?」
「直接の面識はありませんけれど、王都のギルドでは『驚異的な技術を持つ異端児が、修行のために森へ消えた』と、持ちきりでしたわ。まさか、ここでその作品に出会えるなんて」
エメラダは感心したように目を細め、それから愛おしそうに料理を頬張るミシェルちゃんの頭を撫でた。
「アリシア様。あなたの周りには、自然と素晴らしい才能や、温かな縁が集まってくるのですね。このトマトも、きっとあなたに料理されるのを待っていたのだわ」
その言葉に、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
公爵家を追放された時は、すべてを失ったと思っていた。
けれど、この森で土に触れ、火を使い、誰かのために腕を振るううちに、私はかつて持っていたどんな宝石よりも価値のある「縁」を紡いでいたのだ。
「……身に余る光栄ですわ。私はただ、この場所で私らしくいたいだけなのですけれど」
「それが一番難しいことで、何より尊いことなのですわよ、アリシア様」
エメラダは優しく微笑むと、最後の一口まで綺麗にロールキャベツを平らげた。
ふと視線を感じて顔を上げると、カウンターの席からルイ様が、眩しいものを見るような、そして深い慈しみを湛えた瞳で私を見つめていた。
昨夜のあの熱い口づけの余韻が、彼の瞳の中にまだ揺れているような気がして、私はまたしても顔が林檎のように赤くなるのを感じた。
(いけませんわ! お客様の前で淑女がこんなに赤くなるなんて……! でも、ルイ様があんなに誇らしげに私を見てくださるから……!)
「アリシア。君がこの苗を植えた日のことを思い出していたよ。泥にまみれながら、未来の美味しさを夢見ていた君の願いが、今、最高の形で結実したね」
ルイ様はそう言って、エメラダとミシェルちゃんに向かって、店主である私を自慢するかのように優雅に会釈した。
「彼女の料理は、単に美味しいだけではない。食べる者の心を解きほぐし、明日への活力を与えてくれる……まさに『魔法』そのものなのですよ」
ルイ様の極上の褒め言葉に、ミシェルちゃんが「お兄ちゃん、お姉ちゃんのこと大好きなんだね!」と無邪気に笑った。
◇
「ごちそうさまでした! お姉ちゃん、またトマト食べに来るね!」
お腹も心も満たされた様子のミシェルちゃんが、元気いっぱいに手を振る。
エメラダも、持ってきた花束に負けないほど晴れやかな微笑みを浮かべて、私に向かって深く頭を下げた。
「アリシア様、本当に素晴らしい時間でしたわ。いただいた活力を糧に、私も街でまた綺麗な花を咲かせたいと思います」
「ええ、エメラダ。いただいたお花は、この店の特等席に飾らせていただきますわね」
二人の背中が森の緑に溶け込んで見えなくなるまで、私はルイ様と並んで店の前で見送った。
カラン、とドアベルが静かに鳴り、店内にはエメラダが持ってきてくれた花々の瑞々しい香りと、トマトソースの温かな余韻だけが残された。
「……ふう。喜んでいただけて、本当に良かったですわ」
安堵から、私はいつもの完璧な姿勢を少しだけ解いて息を吐いた。
すると、隣にいたルイ様が、私の手元へそっと自分の手を重ねた。
「アリシア。君は今日、また一つ、この森に消えない光を灯したんだ。本当に、誇りに思うよ」
その言葉は、昨夜の情熱的な囁きとはまた違う、深く穏やかな信頼に満ちていた。
重ねられた彼の手のひらからは、確かな体温が伝わってくる。
昨夜の口づけを経て、私たちの間にある空気は、以前よりもずっと濃密で、逃れようのない絆へと変わっていた。
「ルイ様が支えてくださるから、私はこうして自由に火を使えるのですわ。明日も、明後日も、ずっと」
私は彼の手を優しく握り返し、深い森を湛えたような瞳を真っ直ぐに見つめた。
西日が差し込む店内で、エメラダの花束がキラキラと輝いている。
王都の喧騒も、過去のしがらみも、今の私には遠い出来事のようだった。
大好きな人と、最高の仲間、そして美味しい料理。
この森の小さなカフェは、今日もまた一つ、かけがえのない幸せな記憶を刻んでいくのだった。




