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婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の常連さんに甘やかされて困ってます  作者: 白月つむぎ
第1章

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第22話 秘密のログハウス 、月光に溶ける甘い口づけ

 返事を聞いたルイ様の唇が、満足そうに弧を描いた。

 重なっていた彼の手が、私の指を一本ずつ確かめるように絡め、そのままゆっくりと自分の方へ引き寄せる。


「……ルイ、様?」


 カウンター越しではなく、今はキッチンの入り口で、遮るものもなく向かい合っている。

 一歩踏み出せば触れ合ってしまう距離に、私の心臓はタルトを焼くオーブンよりも熱く、激しい音を立てていた。

 ルイ様は空いた方の手で、私の頬に触れた。大きな手のひらが、火照った肌にひんやりと心地よい。


「君はいつも、誰かの幸せのために魔法のような菓子を作る。だが、今この瞬間だけは、その魔法を私一人のためだけに使ってほしい。アリシア、君のすべてを私に独占させてくれないかい」


 エメラルドの瞳が、至近距離で潤んだ熱を帯びて私を閉じ込める。

 その瞳の中に映っているのは、頬を真っ赤に染め、期待と緊張に震える情けないほど愛おしい「私」だ。


 私はもう、完璧な淑女の仮面を維持することなんてできなかった。

 指先から伝わる彼の鼓動が、私の鼓動と重なり、頭の中が甘いシロップで満たされていく。


「……ずるいですわ、本当に。そんな風に言われて、お断りできるはずがありませんもの」


 私が消え入りそうな声で答えると、ルイ様は愛しさに耐えかねたように目を細め、そのまま額を私の額にそっと預けた。


「……ありがとう。最高の茶葉も嬉しいが、今の私には、君のその声と、この温もりが何よりのご馳走だよ」


 鼻先が触れ合う距離で交わされる吐息。

 ルイ様からは、秋の森の香りと、先ほど食べたタルトタタンのほんのり甘い、香ばしい匂いがした。

 昨夜、ログハウスの暖炉の前で感じた「あと一歩」の境界線が、今、静かに溶けていくのがわかる。

 彼はそのまま、私の耳元に唇を寄せた。


「……店は、もう閉めてしまおう。茶葉を淹れる前に、まずはその震える肩を抱きしめさせてもらっても構わないかな? 君がリルム君を勇気づけたように、私も、君のその小さな肩を支えたいんだ」


 甘い痺れが全身を駆け抜ける。

 私は、何も言えずにただ彼の胸元に顔を埋めた。

 広い胸板から伝わる確かな鼓動が、私の不安も、公爵家での悲しい記憶も、すべて包み込んで溶かしていく。


 窓の外では一番星が瞬き始めていた。

 二人きりの、誰にも邪魔されない夜が始まろうとしている。


 ◇


 パチパチと、暖炉の薪がはぜる心地よい音だけが静かな部屋に響いている。

 店を閉めた私たちは、隣接するログハウスへと移動していた。

 クラリスは気を利かせたのか、まだ戻ってくる気配はない。


 私はあの日、初めてこのログハウスに招かれ、ルイ様の「寄る辺」を知った夜のことを思い出していた。

 あの時は手の甲への口づけに心臓が止まる思いだったけれど、今は――。

 ルイ様は私の肩を引き寄せ、あの日よりもずっと深く、確かな力で私を腕の中に閉じ込めた。

 淹れたばかりの「月光の雫」からは、まだ白く細い湯気が立ちのぼり、部屋中に華やかな香りを振りまいている。

 けれど、その芳醇な香りを味わうよりも先に、ルイ様の熱が私の思考を奪い去っていった。


「アリシア。覚えているかい? あの夜、君は『私の庭でゆっくり休んでいればいい』と言ってくれたね」


 耳元で囁かれる低く甘い声。

 ルイ様は私の髪に優しく唇を寄せ、銀の糸のような髪を一房、愛おしそうに指で弄んだ。


「あの言葉に、私はどれほど救われたか。君という庭は、私が思っていたよりもずっと温かく、眩しい場所だった……だが、もう休んでいるだけでは足りないんだ」


 ルイ様は私を抱きしめる力を少しだけ強め、私の顔を覗き込んだ。

 エメラルドの瞳が、至近距離で潤んだ熱を帯びて揺れている。


「私は君を守る盾になりたいと思っていた。だが今は、それ以上に、君という唯一無二の存在を、この腕に繋ぎ止めておきたいと願ってしまう。これは、守護者の情愛ではなく、一人の男としての、醜い独占欲だ」


 ルイ様の吐息が唇に触れる。

 その切実な告白に、私の胸は甘く締め付けられ、熱い涙が込み上げてきそうだった。

 私は、震える手でルイ様の頬を包み込んだ。

 あの日、おずおずと髪に触れた時とは違う。

 今の私は、彼という「寄る辺」を、自分の意志で受け入れようとしていた。


「ルイ様……私を庭だと言ってくださるなら、あなたがいつまでもここに根を張れるよう、私が一生をかけてあなたを支えますわ。独占欲? 望むところです。私も、あなたを誰にも渡したくありませんもの」


 私の精一杯の、そして不器用な愛の言葉。

 それを聞いたルイ様は、驚いたように目を見開いた後、この世で最も幸せなものを見るような、蕩けるような笑みを浮かべた。


「……ああ。降参だ、アリシア。君には、一生勝てる気がしないよ」


 ルイ様はそう言うと、慈しむように私の瞼を指先でなぞり、ゆっくりと顔を近づけた。

 あの日、重なり合うように揺れていた二人の影。

 今夜、その影はさらに深く、決して離れることのない一つの形となって、暖炉の光の中に溶けていった。

 あの日、テーブル越しに指先を絡めただけの夜とは違う。

 今は、逃げ場のない彼の腕の中で、互いの鼓動が一つに溶け合うほど近くにいた。


「アリシア……愛している。この先、何があろうと私の心は君だけのものだ」


 熱い誓いと共に、ルイ様がゆっくりと顔を近づける。

 重なる直前、彼の長い睫毛が震えるのが見えて、私の心臓は甘い悲鳴を上げた。


 その瞬間、ふわりと、唇に柔らかな感触が落ちた。


 最初は羽が触れるような、確かめるような優しさ。

 けれど、私が震える手で彼のシャツの胸元をぎゅっと掴み返すと、ルイ様から小さな吐息が漏れた。

 途端に、口づけは深く、熱く、甘く形を変えていく。

 舌先に広がるのは、先ほどまで飲んでいた「月光の雫」の華やかな余韻と、ルイ様自身の甘い体温。

 視界が白く染まり、まるで宙に浮いているような感覚に陥る。

 そして、ルイ様の手が私の腰を引き寄せ、ドレスの布地越しに伝わる彼の逞しい体温が、私の理性をキャラメルよりもドロドロに溶かしていった。

 一度、二度……角度を変えて、何度も何度も重ねられる口づけ。

 呼吸を忘れるほどの情熱に、私の頭の中はもう、真っ白な砂糖菓子のように甘い多幸感でいっぱいだった。


 ようやく唇が離れた時、ルイ様は私の額を自分の額にぴたりと預け、ひどく乱れた呼吸で私を見つめた。

 その瞳は、いつもの穏やかな紳士のものではなく、獲物を決して離さないと決めた、雄々しい色を湛えていて。


「……すまない。一度触れたら、もう止まりそうにないんだ……」


 低く掠れた声で囁かれ、私は返事をする代わりに、赤く火照った顔を彼の胸元に深く埋めた。

 暖炉の火が、パチパチと二人の門出を祝うようにはぜる。

 

 この森で見つけた、たった一つの、本物の愛。

 外では夜の森が静かにざわめき、世界でたった二人だけの甘い夜が、ゆっくりと更けていった。

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