第21話 砂糖細工の恩返し、指先に宿る魔法
タルトタタンを完食し、涙を拭ったリルムは、やおら自分の巨大な道具鞄を引き寄せた。
「アリシアさん、ルイさん……お代の代わりに、今の私の全力を受け取っていただけませんか? 技術しかないと言われた私ですが、今の熱い気持ちを込めて、お二人に贈り物を作らせてください」
リルムが鞄から取り出したのは、銀色に光る数々の細工棒やピンセット、そして透明感のある色とりどりの飴細工の原料だった。
その瞬間、リルムの目つきが「見習い」のそれから「真の職人」へと変貌を遂げた。
「……速い!」
思わず私は声を漏らした。
リルムの指先は、まるで生き物のように空中で踊り、熱せられた飴を自由自在に操っていく。
ルイ様も、その鮮やかな手並みに感心したように、静かに目を細めてその手元を見守っていた。
数分後。カウンターの上に置かれたのは、三つの小さな、けれど息を呑むほど精巧な砂糖細工だった。
一つは、特大のフライパンを盾のように掲げて凛と立つクラリス。
一つは、穏やかな光を纏い、すべてを見守るように微笑むルイ様。
そして最後の一つ。
「……これ、私なの?」
そこには、オーブンの前で琥珀色のりんごを掲げ、不敵かつ華やかに笑う私の姿があった。
飴細工で再現されたドレスの裾は、まるで風に舞っているかのように軽やかで、窓から差し込む光を透かしてキラキラと輝いている。
「技術に、今の『驚き』と『感謝』を込めました。これが、私の今の精一杯です!」
リルムが顔を真っ赤にして差し出したその作品は、もはや菓子の域を超えた芸術品だった。
(凄すぎるわ!! 逆に私が弟子入りしたいくらいなんですけどーーー!!)
内心の絶叫を完璧な淑女の仮面で押し殺し、私はそっと彼女の手を取った。
「リルム……素晴らしいわ。あなたの技術に、今、本当の命が吹き込まれましたのね。この贈り物、お店の家宝にさせていただきますわ」
リルムが魂を込めて作り上げた三つの砂糖細工。
私はそれを、カウンターから一番よく見える、光の差し込む特等席に飾った。
透明な飴細工が窓からの陽光を浴びて、店内の壁に七色のプリズムを落とす。
「これなら、いつでもあなたとの出会いを思い出せますわ。本当に、ありがとう」
私が微笑んで礼を言うと、リルムは照れくさそうに、けれど今度はしっかりと私の目を見て頷いた。
「私の方こそ、ありがとうございました。形をひっくり返した先の世界、忘れません。もっと修行して、いつかアリシアさんをあっと言わせるような菓子を作ってみせます!」
そう言って、彼女は大きな道具鞄を背負い直した。
来た時よりもその背中は少しだけ大きく、足取りは羽が生えたように軽やかだった。
「気をつけて。君の驚きに満ちた未来を、この森から応援しているよ」
ルイ様の穏やかな声に見送られ、リルムは何度も振り返りながら森の小道を駆けていった。
カラン、と名残惜しそうにドアベルが鳴り、再び店内に静寂が訪れる。
……その静寂が、彼女の姿が完全に見えなくなるまで続いたことを確認して。
私は、お淑やかに組んでいた手を解き、天井に向かって勢いよく突き上げた。
「ルイ様、見ました!? プロの見習いさんがあんなに感動して、しかもこんな凄まじい宝物を置いていってくれましたわよーーー!!」
一ミリの狂いもない完璧な令嬢の所作から一転、私はスカートの裾も構わずにその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「自分のレシピが誰かの人生を変えるなんて、公爵家で毒見役を怯えさせていた頃には考えられませんでしたもの! ああ、もう、幸せすぎて森の木々を全部りんごの木に変えちゃいたい気分ですわ!」
我を忘れて喜びを爆発させていると、すぐ隣から「くくっ……」と堪えきれないような笑い声が聞こえてきた。
ハッとして横を向くと、ルイ様が口元を片手で覆い、肩を震わせている。
「……あ」
「いや、すまない。君のそういう、命が弾けるような喜び方を見るのが、私はどうしようもなく好きなんだ」
ルイ様の瞳には、呆れた様子など微塵もなく、ただただ愛おしそうな熱が宿っていた。
「……見すぎですわ、ルイ様……」
私は今更ながら顔から火が出るほど赤くなり、ドレスの裾を整えて咳払いを一つした。
結局、この人の前では何一つ隠し通せない。
けれど、それを許してくれるこの場所が、私は、私たちは――たまらなく好きだった。
◇
西日が店内に長く伸び、飾り棚の砂糖細工たちが長い影を落とし始める。
先ほどまでの賑やかさが嘘のように、森の静寂が戻ってきた。
けれど、私の胸のうちはまだ、タルトタタンのキャラメルのように熱く、とろりと溶けたままだった。
「お嬢様。少し日が落ちてきましたので、私は裏の畑の様子を見て、ついでに明日の朝食に使うハーブを摘んで参ります。夕方の森は冷えますから、戸締まりはしっかりとなさってくださいね」
空気を読んだのか、それとも単に仕事熱心なだけか。
クラリスは手際よくティーセットを片付けると、いつの間にか手にしていた籠を下げて、音もなく裏口から外へ出ていった。
あんなに騒がしかったリルムの余韻を、彼女はあえて私とルイ様のために、静かに外へと持ち出してくれたようだった。
ルイ様はカウンターの椅子に腰を下ろし、飾られたばかりの砂糖細工を、慈しむような目で見つめている。
「しかし、驚いたな。あのリルムという少女、あんなに小さな体で、これほど繊細で力強いものを作るとは。アリシア、君が彼女の中に眠っていた『心』を呼び覚ましたんだね」
「私ではありませんわ。彼女がもともと持っていた情熱が、きっかけを求めていただけです」
私は照れ隠しに、まだ少し温かい銅鍋を磨き始めた。
リルムとの出会いは、私に大切なことを思い出させてくれた。
かつて公爵家で、息が詰まるような「完璧」を強いられていた私。
お父様やお母様の期待に応えることだけが正解だと思っていたあの頃の私に、リルムが見せたような晴れやかな笑顔はあっただろうか。
今の私は、この森で、自分の意思で火を使い、誰かを笑顔にするために菓子を作っている。
それは、隣の「彼」も同じなのだろうか。
「……ねえ、ルイ様。もし、あのまま私が街の公爵邸にいたとしたら、今日のような幸せには一生出会えなかったでしょうね」
ふと漏れた独り言に、ルイ様が顔を上げた。
その深く澄んだエメラルドの瞳が、静かに私を射抜く。
「それは、私も同じだよ、アリシア」
彼は立ち上がり、私の隣まで歩み寄った。
銅鍋を置いた私の手に、彼の大きな、けれど温かい手が重なる。
「もし、私が……望まない役割を演じ続けていたとしたら、君が作る料理の本当の価値も、君が時折見せるその『命の輝き』のような笑顔も知らずにいただろう。この森で君に出会えたことが、私の人生における最大の『逆転』だ」
ルイ様の言葉は、いつも私の心の一番柔らかい場所を突いてくる。
重なった手のひらから、彼の体温が伝わってくる。
昨夜のログハウスでの会話が脳裏をよぎり、また顔が熱くなるのを感じた。
「……ずるいですわ。ルイ様は、いつだって私を言葉一つで降参させてしまいますもの」
「私はただ、本当のことを言っているだけだよ。嘘は、この森には似合わないからね」
彼はいたずらっぽく笑うと、ふと思い出したように私の耳元で囁いた。
「さて、店主殿。リルムへの『驚き』の伝授は大成功だったが……私への『ご褒美』は、まだいただいていない気がするのだけれど?」
「ご、ご褒美……?」
食べ終えたはずのタルトの他に、何があるというのか。
私が首を傾げると、ルイ様は私の手に重ねていた力を少しだけ強め、顔を近づけた。
「さっきはリルム君やクラリスもいたからね。今度は、誰にも邪魔されない場所で、君の淹れた最高の一杯を私だけに振る舞ってはくれないかな……昨夜の続きを、話したいんだ」
その甘い要求に、私は完璧な淑女として微笑み、ゆっくりと頷く。
「……畏まりました。ルイ様のためだけに、とっておきの茶葉を用意いたしますわ」
窓の外では、秋の気配を孕んだ風が木々を揺らしている。
追放された令嬢と、謎多き紳士。
私たちは、今、この小さな店の中で、誰よりも贅沢な時間を分かち合おうとしていた。




