第20話 禁断のタルトタタン 、赤毛の乙女とひっくり返る魔法
ルイ様のログハウスで過ごした琥珀色のひとときは、私の心に甘く、熱い火を灯したままだった。
翌朝、森を包む霧の中に柔らかな光が差し込む頃、私は店先のハーブガーデンで朝露に濡れたミントを摘んでいた。
ふと視線を上げれば、少し離れた場所に建つあのログハウスの煙突から、細く白い煙が立ち上っているのが見える。
(……昨夜のルイ様のお言葉「全幅の信頼を置かせてもらおう」だなんて……思い出すだけで、顔から火が出そうですわ!)
私は、摘みたてのハーブよりも赤くなっているであろう自分の頬を、冷たい指先でそっと押さえた。
追放された身でありながら、これほどまでに満たされた朝を迎える日が来るとは、誰が想像しただろうか。
◇
開店準備を整え、市場で仕入れた新鮮なりんごの香りが店内に満ち始めた頃。
ルイ様はいつものように、まるで最初からそこにいたかのような自然な所作で、カウンターの隅で開店の手伝いをしてくださっていた。
「アリシア、今日のりんごは一段と香りがいい。何か、特別なものを作る予定かな?」
ルイ様が穏やかに微笑みながら尋ねてくる。その瞳には、昨夜の情熱的な熱が静かな慈しみへと変わって宿っていた。
「ええ、とっておきの新作を試そうと思っていますの……あら?」
その時だった。森の静寂を縫うように、カラン、と控えめながらも澄んだドアベルの音が響いた。
入り口に立っていたのは、小柄な少女だった。
「あ、あの……ごめんください……ここが、トカゲのおじさんが言っていた『魂を揺さぶる菓子』を出すお店でしょうか」
彼女は、まるで迷い込んだ小鹿のように周囲をキョロキョロと見渡している。
年齢は私より少し下、十四、五歳くらいだろうか。
まず目を引くのは、鮮やかな赤銅色の髪だった。
秋の夕日に照らされたような深い赤色を、機能的な低いツインテールにまとめ、職人らしい黒いエプロンドレスを纏っている。
その瞳は、透き通った若草色。情熱的な髪の色とは対照的に、知性と冷静さを感じさせる瑞々しい色合いだ。
背中には、自分の体と同じくらい大きな、年季の入った革製の道具鞄を背負っていた。
その頬には、小麦粉だろうか、薄く白い粉がついていて、彼女がここへ来る直前まで何かに打ち込んでいたことを物語っている。
「いらっしゃいませ。ええ、トカゲのおじさまなら以前いらしたわ。私は店主のアリシア。そんなに遠くから見つめていないで、どうぞこちらへ」
私が優しく手招きすると、少女は「失礼します……っ」と緊張で肩を震わせながら、カウンター席へと座った。
彼女の大きな緑色の瞳は、店内の調度品や、キッチンに並ぶ調理器具を、まるで聖遺物を見るような崇敬の眼差しで見つめている。
「私、見習い菓子職人のリルムと申します! 街の老舗で修行しているのですが、師匠から『お前の菓子には技術はあっても、驚きが足りない』と言われてしまって……それで、あの強面なトカゲのおじさんを泣かせたという、このお店の噂を聞いて、どうしても自分の目で確かめたくて参りました!」
リルムは立ち上がって勢いよく頭を下げた。
そのひたむきな姿に、かつて公爵家で「完璧」を求められながらも、自分の居場所を探してもがいていた自分を重ねてしまう。
「ちょうど今、開店準備が終わってこれから今日の一押しである『りんご』のデザートを仕込もうとしていたところですの。菓子職人の見習いさんに、その工程をご覧いただくのも面白いかもしれませんわね」
私が少しだけ不敵に、けれど歓迎の意を込めて微笑むと、リルムは「仕込みを、見せていただけるんですか……!?」と瞳を大きく見開いた。
「驚きが足りないと悩むあなたに……私のとっておきの『逆転の発想』を、お裾分けして差し上げますわ。ルイ様、あの市場で選んだ最高のりんごを」
「ああ、準備はできているよ。今朝の空気のように、瑞々しくて素晴らしい出来だ」
ルイ様が、磨き上げられたような深紅のりんごを籠に入れて差し出す。
私はリルムの目の前でエプロンの紐をきゅっと結び直し、職人の顔になって頷いた。
「見習いさん、私の手元をしっかり見ていてくださいな。美味しいお料理のコツを教えて差し上げますわ」
私は早速、市場で厳選したばかりの、深く艶やかな紅いりんごを取り出した。
このりんごの強い酸味と甘みは、火を通すことで真価を発揮する。
「これから作るのは『タルトタタン』失敗から生まれたと言われる、けれど最高に情熱的なお菓子ですわ」
私は手際よくりんごの皮を剥き、贅沢な厚切りにしていく。
大きな銅鍋にバターと砂糖をたっぷり入れ、キャラメル色になるまで熱してから、そこへ主役のりんごを投入した。
じゅわっ、と弾けるような音と共に、甘く、どこかほろ苦い香りが一気に厨房に立ち込める。
リルムはその香りを胸いっぱいに吸い込み、驚いたように身を乗り出した。
「……なんて力強い香り。バターのコクと、りんごが焼ける香りが……まるで魔法みたいです!」
「ふふ、驚くのはまだ早いですわよ。ここからじっくりと、りんごの形が崩れる瀬戸際まで、その色を深い琥珀色へと変えていくのですから」
私は鍋を揺らしながら、中までじっくりとキャラメルを染み込ませていく。
やがて、飴色に輝くりんごの上にパイ生地を被せ、丸ごとオーブンへと滑り込ませた。
焼き上がるのを待つ間、リルムはカウンターで食い入るように私の手元を観察していた。
その真剣な眼差しに応えるように、私も自然と力が入る。
「焼き上がったら、熱いうちに型をひっくり返すのです。そうすると、底に溜まっていた濃密な果汁がパイに染み渡り、宝石のような光沢を放つのですわ」
「ひっくり返す、ですか!? 焼き上げてから形を? 普通のタルトとは正反対の作り方です!」
リルムが息を呑む中、ルイ様が楽しそうに、けれど誇らしげに私を見つめているのが分かった。
「アリシアの料理には、既存の型に囚われない自由がある。見習い君、君が求めている『驚き』の答えは、案外、ひっくり返した先にあるのかもしれないよ」
◇
オーブンから、香ばしくも濃厚なキャラメルの香りが溢れ出す。
私は厚手のミトンをはめ、慎重に、けれど大胆に型を取り出した。
「さあ、見習いさん。ここからが『タルトタタン』の真骨頂ですわ。準備はよろしくて?」
私が大きな平皿を型に被せると、リルムは生唾を飲み込んで身を乗り出した。
隣に立つルイ様も、その一瞬を見逃さないよう、穏やかに、けれど熱を帯びた瞳で見守っている。
「いざ……っ!」
私が一気に型を反転させると、小気味よい音と共に、飴色に煮詰められたりんごたちがその姿を現した。
じゅわあ、と熱いキャラメルがパイ生地の端から溢れ出す。
型の中でひしめき合っていたりんごは、もはや元の形を留めぬほど濃密に凝縮され、宝石の琥珀を敷き詰めたような、鈍く、けれど深い輝きを放っていた。
「わあ……! なんて……なんて、綺麗な色……!」
リルムの大きな瞳が、感嘆に揺れる。
私は手早くその熱々のタルトを切り分け、仕上げに冷たく冷やした自家製のアイスクリームを添えた。
「さあ、召し上がれ。熱いうちにいただくのが一番ですわ」
リルムは震える手でフォークを取り、琥珀色のりんごとアイスクリームを一度に口へと運んだ。
瞬間。
彼女の動きが、ぴたりと止まった。
「……っ!!」
熱いりんごの酸味と、ほろ苦いキャラメルのコク。そして、それを包み込む冷たく甘いアイスクリーム。
口の中で「熱と冷」「甘と苦」が激しく交差するその衝撃に、リルムの頬が瞬く間に赤銅色の髪と同じくらい赤く染まっていく。
「信じられません。りんごが、こんなに濃厚で、情熱的な味がするなんて……! 普通なら失敗だと思ってしまうような、キャラメルの苦味が、むしろこのお菓子を完璧にしていますわ!」
「ふふ、良かったですわ。形をひっくり返した先に、新しい世界が見えましたかしら?」
私が微笑むと、リルムは何度も何度も頷き、最後にはその大きな瞳に涙を溜めて、再び勢いよく頭を下げた。
「はいっ! 驚きました、本当に驚きました……! 師匠に言われたこと、ようやく分かった気がします。私は、綺麗に作ることばかり考えていました。でも、本当に大切なのは……食べた人の心を、これくらい揺さぶることだったんです!」
そのひたむきな叫びに、ルイ様が満足げに頷き、私の肩にそっと手を置いた。
「どうやら、君の料理がまた一人、迷える若者の扉を開いたようだね、アリシア。私も一切れ、いただいてもいいかな? 君の作る情熱の味を、独り占めされるのは少し惜しい」
「もちろんですわ、ルイ様。クラリスの分も、ありますわよ?」
私が振り返ると、いつの間にか紅茶の準備を終えていたクラリスが、「やれやれ。お嬢様の無自覚な人たらしには、困ったものですわ」と、口元に微かな笑みを浮かべていた。




