第19話 隠れ家と、月下の約束
エルフのセレスティアが「太陽を絶やさぬように」という謎めいた言葉を残して去った後、カフェには再び穏やかな静寂が訪れた。
私とクラリス、そしてルイ様の三人で手際よく片付けを済ませると、窓の外はすっかり深い夜の色に染まっていた。
「ではお嬢様、私は失礼いたします。あまり夜更かしをして、明朝の仕込みに響くことのないようにお願いしますわよ」
クラリスはいつもの冷徹な忠告を残し、自分の部屋へと引き上げていった。
テラスには、私とルイ様の二人だけが残される。
ルイ様は軽やかな手つきで上着を羽織ると、ふらりと出口の方へ向かった。
「……ルイ様。そういえば、ルイ様はどちらで生活されていますの?」
ふと、ずっと気になっていた疑問が口をついて出た。
彼はいつも夕食を終えると森の奥へと消えていき、翌朝には何食わぬ顔で現れる。この近くに宿などないはずなのに。
ルイ様は足を止め、振り返った。月光を浴びたその顔に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「おや、知りたいのかい?」
「ええ、まあ……店主として、お客様が野宿でもされているのではないかと心配ですわ」
精一杯の建前を口にする私を、ルイ様は楽しそうに見つめた。
「ふふ、心配はいらないよ。そうだね、隠しておく理由もない。アリシア、君にだけは私の『城』を案内しよう……おいで」
ルイ様はそう言って、優雅に手を差し出した。
私はその手に導かれるように、夜の森へと踏み出した。
ルイ様の足取りは迷いがなく、まるで見慣れた庭園を散歩しているかのようだった。
しばらく歩くと、茂みの奥に小さな、けれど手入れの行き届いたログハウスが見えてきた。
「……ルイ様、このような場所に建物が? いつの間に……」
私が驚いて立ち止まると、ルイ様は扉に手をかけ、少しだけはにかむように微笑んだ。
「驚かせてしまったね、アリシア。以前、この森一帯を買い取らせてもらった時に、万が一の備えとして密かに用意させておいた離れなのだよ。君には今まで黙っていたが、許可も得ずにこの場所を拠点にしていたこと、申し訳なく思っている。すまなかった」
ルイ様は、その高貴な佇まいからは想像もつかないほど真摯に頭を下げた。
彼がこの広大な森を買い取って、追放された私の居場所を陰ながら守ってくださっていることは、もちろん知っている。けれど、まさか自らの住まいまでこのようにひっそりと設えていたなんて。
「謝らないでくださいまし、ルイ様。ここはあなたの土地なのですから。むしろ、こんなに素敵なお家を建ててくださって、森の景色がより美しくなりましたわ」
私がそう言うと、ルイ様は少し意外そうな顔をした後、ふっと憑き物が落ちたように微笑んだ。
「ありがとう、アリシア……実は私には、帰るべき『家』を捨てねばならない事情があってね。しばらくの間、ここを私の本当の『寄る辺』にさせてもらえたら、これほど心強いことはない」
家を捨てた、という言葉の裏に、どれほど深い事情があるのかは分からない。
けれど、月光に照らされた彼の瞳には、どこか遠い場所を懐かしむような、切ない色が混じっていた。
「どうぞ、お好きなだけいてくださいまし。その代わり、これからも美味しい野菜を運ぶのを手伝っていただきますわよ?」
「ああ、喜んで。そうだ、せっかく主人が来てくれたんだ。今日は特別に、本国から持ち出した最高のお茶を淹れよう。君と二人で、ゆっくり味わいたいんだ」
ルイ様は私を椅子に促すと、銀の茶器を手に取った。
暗い室内で、ランタンの琥珀色の光が彼の指先を縁取る。
流れるような優雅な所作で淹れられたお茶は、今まで嗅いだこともないほど華やかで、高貴な香りがした。
「……美味しい。こんなお茶、王宮の晩餐会でも出たことがありませんわ」
「そうかい? ならば、君という特別な賓客を招いた甲斐があったというものだ」
小さなテーブルを挟んで、私たちは静かにお茶を啜った。
外では夜の森がざわめき、時折、風が木々を揺らす音が聞こえる。
王宮での窮屈な生活や、追放されたあの日、ルイ様が背負っているであろう大きな「何か」。
そんな一切合切が、この温かな蒸気の中に溶けて消えていくような気がした。
ふと、ルイ様がカップを置き、テーブル越しに私の手元へ指を伸ばした。
あまりに自然な動作に避けることもできず、私の指先は彼の温かな掌に包み込まれる。
「……ルイ様?」
「アリシア。君の指先からは、いつも微かに甘い香りがするね。バニラや、焼き立ての菓子の。それが今の私には、どんな香油よりも心を安らげてくれるんだ。君がこの場所で、誰かを幸せにするために働いている匂いだから」
ルイ様は私の指先を慈しむように見つめ、そのままゆっくりと自分の頬に寄せた。
彼の肌の熱が直接伝わってきて、私の心臓は一気に跳ね上がる。
淑女の作法では、即座に手を引くのが正解だろう。
けれど、月光に照らされた彼の瞳があまりにも切実で、私はただ石のように固まることしかできなかった。
「……私、厨房にいる時間が一番好きなんですの。ヴァレンタイン家の令嬢だった頃は、火を使うことさえ危ないと禁じられていましたけれど。今は、自分の手でおいしい魔法を生み出している実感が、何よりの誇りですわ」
震える声でそう答えると、ルイ様は小さく笑い、私の手に額を預けた。
「……強いな、君は。私は君のように、捨てられた場所で新しく花を咲かせる強さは持っていなかったんだ」
その呟きは、夜の静寂に溶けてしまいそうなほど微かだった。
私は空いている方の手で、彼の柔らかいオレンジ色の髪に、おずおずと触れた。
「ルイ様。花を咲かせるのが苦手なら、私という庭でゆっくり休んでいればよろしいんですのよ。私は一度決めたら、冬が来ても枯れたりしませんもの」
ルイ様は顔を上げ、驚いたように私を見つめた。
やがて、彼は私の手を引き寄せ、今度は手の甲に、羽が触れるような軽い口づけを落とした。
「全幅の信頼を置かせてもらおう」
ルイ様のエメラルドの瞳が、至近距離で私を射抜く。
あまりの熱に、心臓の音が耳の奥で激しく打ち鳴らされ、呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。
けれど、その鼓動は不思議と心地よく、私を深い安らぎへと導いていく。
私は、溢れ出しそうな感情をそっと抑え込み、彼の手を温かく握り返した。
「……ルイ様。夜が明ければ、また私は厨房で火を使い、あなたは店を手伝う隠居人に戻ります。けれど、この灯火の下にいる間だけは、どうかその重荷を下ろして休んでくださいまし」
ルイ様は何も言わず、ただ深く、愛おしそうに目を細めた。
外では夜の森が、二人を祝福するように静かにざわめいていた。
琥珀色の光に包まれたこの小さな小屋の中で、二人の影は重なり合うように、いつまでも、いつまでも静かに揺れていた。
名門の看板も、高貴な称号も、ここには届かない。ただ、お互いの体温と、甘いお茶の残り香だけが、この世界のすべてであるかのように感じられた。




