第1話 令嬢、雑巾で床磨き
馬車を降りた瞬間、目の前に広がっていたのは、深い、深い緑だった。
王都「グラン・ロア」から離れ、馬車で半日。
ようやく辿り着いたその場所は、お世辞にも「令嬢の住まい」と呼べるような場所ではなかった。
「……ここですわね。私たちの新しい拠点」
私は、手に持った古ぼけた鍵と、目の前の建物を交互に見比べた。
そこに建っていたのは、蔦に覆われ、まるで森に飲み込まれかけているような二階建ての古民家……というよりは、古びた屋敷だった。
窓ガラスは汚れ、屋根の端からは雑草が顔を出している。
「……お嬢様。これを『拠点』と呼ぶには、かなりの勇気と、それ以上に膨大な雑巾が必要かと思われますが」
隣に立つクラリスが、いつもの冷静なトーンで、けれどどこか呆れたように呟いた。
彼女の手には、実家を飛び出す際に持ち出した、私たちの全財産が詰まった鞄が握られている。
「いいのよ、クラリス。不動産屋さんが言っていたじゃない? 森の奥深くで誰も近寄らない、訳ありの格安物件だって。お父様やお母様の耳に入らない場所にするには、これ以上ない条件ですわ」
そう。私は、家を追放された。
王家との婚約を解消され、名家に泥を塗った娘として。
けれど、あの重苦しい書斎で「出て行け」と言われた瞬間の、胸のすくような解放感を私は一生忘れないだろう。
「それに見て、クラリス! 建物はボロボロだけど、庭には野生のベリーがたくさんなっていますわ。あっちにはミントも。これなら、お菓子の材料には困らないわね」
「……お嬢様、今のあなたは令嬢というより、狩人のような目をされていますよ」
クラリスがふっと口元を緩めた。
彼女は、私の無謀な旅路に迷わず付いてきてくれた、唯一の味方だ。
私は錆びついた鍵を鍵穴に差し込み、ぐっと力を込めた。
キィィ……と重苦しい音を立てて扉が開く。
舞い上がる埃に二人で咳き込みながら中へ足を踏み入れると、そこには意外な光景が広がっていた。
「わあ……広いわね。それに、このキッチン!」
埃を被ってはいるが、そこには立派な石造りのオーブンと、使い勝手の良さそうな大きな作業台が残されていた。
窓からは木漏れ日が差し込み、埃の粒がキラキラと光の粒のように舞っている。
「お母様に教えられたピアノはちっともうまく弾けなかったけれど……ここで粉をこねるなら、最高の曲が書ける気がしますわ」
「そうですね。お嬢様の焼くお菓子の香りが漂えば、ここも少しは屋敷らしくなるかもしれません」
クラリスは早速、鞄からエプロンを取り出して手際よく髪をまとめた。
私は窓を開け放ち、森の涼やかな風を部屋に招き入れる。
「さあ、始めましょう! 今日からはここが私の城――いえ、『カフェ・ヴァレンタイン』ですわ! お父様たちが見たら気絶しちゃうような、世界一自由な場所にするんですから!」
私の宣言に、森の小鳥たちが祝福するように一斉に鳴いた。
婚約破棄に家からの追放。
世間から見れば不幸のどん底かもしれない。
けれど、私の心は今、かつてないほど軽やかに弾んでいた。
「さあ、クラリス。まずはこの積もり積もった『家のしがらみ』……ではなくて、埃を追い出しますわよ!」
私は大きく腕をまくろうとして——はたと気づき、上品に指先を揃えて袖を整えた。
染み付いた習慣というのは恐ろしい。
誰も見ていないというのに、背筋は勝手に伸び、歩き方一つとっても「お母様」の教え通り、音を立てない優雅なものになってしまう。
「お嬢様、まずはその立派なドレスを着替えていただけますか? さすがにそのお姿で床を這い回るのは、見ていられません」
「そうね……ふふっ、これからは動きやすい服も自分で選べますのね!」
私たちは、持ち出した荷物の中から、かつてお菓子作りで使っていた比較的簡素な服に着替えた。
それでも、実家の基準では「簡素」であっても、このボロ屋敷の中では浮いてしまうほどの上質な生地だ。
「……よし。クラリス、準備はいい?」
「はい、お嬢様」
クラリスがバケツに水を汲み、固く絞った雑巾を差し出す。
私はそれを受け取ると、一度深く、森の空気を吸い込んだ。
扉を閉め、窓を全開にする。
ここは森の奥深く。
お父様の鋭い視線も、お母様の冷たい叱責も、ここまでは絶対に届かない。
(……今なら、誰にも見られないわね?)
私はスッと周囲を見回し、誰もいないことを確認した。
そして、動きやすいようにスカートの裾を少しだけたくし上げると、雑巾を手に、輝くような笑顔で床に向き直った。
「ふふっ……あはは! 掃除よ、掃除ですわ、クラリス! 全部、私の好きなように、綺麗にしてやるんですから!」
私は弾むような足取りで、床に膝をついた。
名門ヴァレンタイン家で叩き込まれた「完璧な所作」を、今は「完璧な床磨き」へと注ぎ込む。
右へ左へ、流れるような滑らかな動きで雑巾を滑らせる。
(なんて楽しいのかしら……!)
令嬢時代、退屈な舞踏の練習で鍛えられた足腰は、驚くほど軽やかに私を前へと進ませた。
埃が舞い、木の床が本来の艶を取り戻していく。
その一筋一筋が、私が自分の手でこの場所を「居場所」に変えている証拠のように思えて、たまらなく愛おしかった。
「自由ですわ……! 埃が舞うのが、こんなに楽しいなんて!」
顔に煤がついても、髪が少し乱れても、今の私は宝石を贈られるよりずっと、心が躍っていた。
「お嬢様、勢いが良すぎて床が抜けないか心配です。ですが、その……とても楽しそうですね」
クラリスが呆れ半分、喜び半分といった様子で、壁の煤を払いながら微笑んでいる。
「ええ、楽しいですわ! お父様は『掃除など下々の仕事だ』って仰っていたけれど、自分の居場所を自分で整えるのが、こんなに清々しいことだったなんて!」
私が夢中で床を磨き、クラリスが窓を水晶のように輝かせていく。
ボロ屋敷だったはずのカフェが、私たちの労働によって命を吹き返していく様子は、かつての窮屈な生活では決して得られなかった、確かな人生の手応えを感じさせてくれた。
◇
数時間後。
あんなにどんよりとしていた広間は、見違えるほど明るくなった。
窓から差し込む夕日が、ピカピカに磨かれた床に反射してキラキラと輝いている。
私は最後に、まるで舞踏会の最後を飾るような、完璧で優雅なカーテシーを空っぽの広間に捧げた。
「——お掃除完了。完璧ですわ、クラリス」
煤で少し汚れた頬を、絹のハンカチでそっと押さえながら、私は凛とした声で告げた。
背筋をピンと伸ばし、顎を引く。
ピカピカになった床を背景に立つ姿は、どこからどう見ても高貴な令嬢そのもの。
……この完璧な淑女の微笑みの裏で、彼女が今、人生で一番「埃まみれの自由」を謳歌しているなど、誰も知る由はなかった。




